お灸をすえて そして愛して

 

 気に入らないけど。
 と、きり丸は思う。
 ざまーみろ、なんだけど。
 と、きり丸は思う。
 でもさ……ちょっとあれは可哀想かも。
 経験値の高い齢12の少年は、あーあとタメ息をついた。




   *     *     *      *      *      *




 躯を重ねれば恋人か。
 「ものにする」などと言うが、肉体関係の有無で本当に人の所有が決まるのか。
 今では利吉ははっきりと言い切ることができる。そんな簡単なものじゃない、と。
 いや。簡単な相手もいるかもしれない。肉体関係の有無が決定的な意味を持つ、ある意味単純な人間関係もあるだろう。
 だが、土井半助という男は簡単でもなければ単純でもなかった。
 土井と肉体関係を持つようになって……いや、これでも「関係がある」などと言えるのだろうか、これは単に「ヤラセてもらってる」というだけのことじゃないのかと自嘲気味に利吉は思うのだが。とにもかくにも、土井と肌を重ねるようになって半年、利吉は人間関係の奥深さ、恋愛の難しさを噛み締める毎日を送っていた。





「利吉くん」
 呼ぶ声は明るい。笑顔は優しい。だが、そこまでだ。
 踏み込めない、踏み込んでもらえない。いくら躯を重ねても。どこかでかわされている。
 そんな関係が情けなくて。かといって、自分からその関係を断ち切ることなど絶対にできない。情けなさはいや増す。
 ――今日だって、そうだ。
 何週間ぶりかで会えたのだと言うのに。
「やあ、利吉くん! 久しぶりだね」
「元気そうじゃないか。さあ、上がって上がって。今、足をすすぐ水を持って来よう」
 などと。
 夏休み中だ、あの小うるさくも邪魔くさいきり丸がいるだろうと、こちらも最初から他人行儀に「先生、お久しぶりです」などと挨拶したのがまずかったのかもしれないが。
 きり丸はバイトでいなかった。
 それならもっとほかに、言いようがあるんじゃないか? 「会いたかった」「心配だった」いや、言葉なんかいらない、無言でぎゅっと抱き合ったっていいじゃないか。「こんなに放っておいて、どういうつもりだい?」ああいっそ。そんなふうになじってくれたら、どれほど嬉しいか。
 足なんか洗うより前に、したいことはないんですか。
 恨めしげな視線を向けても、土井の笑顔は崩れない。
 距離を縮めようと思えば逃げられ、詰め寄ればいなされる。
「わたしはあなたのなんなんですか!」
 ついにたまりかねて、今しもそうぶつけそうになったところにきり丸が、
「ただいま〜」
 と帰って来た。
 吐き出したいのに吐き出せない一言が気持ち悪いのに、土井は変わらぬ笑顔できり丸を迎えている。
 ――こんなとき、余計に情けないのは。
 土井が本当になにもわかっていないとか感じていないとは、とても思えないことだった。鈍感でこういう態度なわけではない、こちらの焦燥も苛立ちもすべて承知の上で、土井は涼しい顔で一線引いているに違いないと思われて……それが一層、たまらない。その上に。
「なんだー。じゃあ利吉さん、夕飯も一緒なのぉ?」
 不平そうに言いながら、土井との生活に割り込む自分を邪険にする素振りのきり丸さえ、
「うーん、うちの夕飯じゃあ逆に申し訳ないけれどねえ。明日は利吉くん、山田先生に会いに学園に行くんだろう? そしたらおばちゃんのおいしい食事を食べてもらえるね、じゃあ今日だけ我慢してもらえるかな」
 あくまで利吉を他人扱いするセリフを土井が吐くと、チラリとこちらをうかがうように見てくるのだ、憐れむような目線で。
 みじめだった、情けなかった。なんなんですか、あなたとわたしは。
 涙がにじむような思いに、ついに利吉は叫んだ。
「夕飯はいりません!」
 目を丸くしている二人の顔に、さらに頭が熱くなった。
「きり丸! うまいものを食わしてやる! 来い!」
 はあ?とも、え?とも聞こえた気がしたが。
 利吉はきり丸の細い手首をつかむと飛び出していた。





 居酒屋できり丸を前に利吉は浴びるように呑んだ。
 きり丸はあきれたような顔で、だが、いつもの憎まれ口は叩かずに付き合ってくれている。
 最初は、なぜきり丸を連れて来てしまったのか自分でもわからなかった利吉だったが、酔いがほのかに回りだす頃にはそんなことはどうでもよくなり、さらに酔いが回る頃には口が勝手に動いていた。
「おまえはいいよなあ」
 と。
「いいよなあ」
 繰り返す利吉に、きり丸はタメ息をついた。
「……すっげいい人でもさ、恋人にしたら最悪って人がいるからさ」
 主語はなかったが、誰のことを話しているのかは確かめなくてもわかる。利吉は顔を上げて、見た目通りの子どもではない少年を見つめた。
 子ども相手、しかも相手は愛しい人の教え子だ。わかっていたが、止まらなかった。
「最悪でもなんでも、その人がいいんだ。仕方ないだろう」
「わかるけどさぁ」
 最初から、誰にも秘密の関係だと覚悟はしていた。今でも、誰に話すことも出来ない関係なのは承知している。……だが。どうにも苦しかった、誰かにこぼしたかった。それがあの人の家族でもあれば、一番の恋敵である相手であっても。誰かに、わかってほしかった。
「そうだ。好きになったら仕方ないんだ。……仕方ないんだぁ……」
 こぼす調子で続ければ、
「表面、優しいのがクセモノなんだよな。一歩、中はいればビシィっと線引いてるくせに」
 思わず手を打ちたくなるような見解が示され、利吉は大きくうなずいた。
「そう! そうなんだ!」
 が、そこできり丸の黒い瞳が冷たく光った。
「わかってんなら、手ぇ出してくるなよ。邪魔なんだよ、あんた」
 牽制と非難を含んだセリフを、今度は利吉はせせら笑った。
「踏み込む前はただきれいな泉としか思えなかった。踏み込んだ後に底なし沼だったとわかっても引き返せない。ま、こういう喩え話はまだガキなおまえにはわからんだろうが」
 利吉の勝ち誇った言いように、きり丸は負けずににやりと笑みを浮かべた。
「へえ。底なし沼扱いされて喜ぶ人っているのかな。おれ、まだ子どもだからわかんないけど」
 利吉はあわてた。
「ち、ちがう! そういうことじゃない! い、いいか、俺が底なし沼というのはだな……!」
 言いつけてやる。ちょっと待て、俺の話を聞け。
 にぎやかに言い合っていると、
「いやあ、楽しそうだねえ」
 横合いからねとりと声を掛けられた。
「えらくキレイなおにいちゃんだねえ。おや、おまえもちびっこい割りにいいじゃないか。なあ、こっちに来て酌してくれよ」
 脂ぎった中年の男だった。近々と顔を寄せられて酒臭い息を吐きかけられる。
 思わず舌打ちがもれた。
「きり丸」
 低く命じる。
「よけろ」
 察しのよいきり丸が素早く卓の下にかがみこむ。
「なあ、こっちで酌……」
 手を握る男の横っ面に、利吉は空いた腕で思い切りの肘打ちを喰らわせた。
「うおっ!」
 短い叫びを上げて男は机の上のものをなぎ倒しながら倒れこんだ。がらがらがっしゃーん! すさまじい物音に、店内は一気に騒然となった。
「おうおう! 俺の兄貴分になにしやがる!」
 血気盛んな一群が押し寄せて来、利吉はすっくと立ち上がった。
「ちょうどいい。むしゃくしゃしていたところだ。相手になってやる」
「り、利吉さん!」
 机の下からきり丸が袴の裾を引っ張ってくる。
「まずい、これマズイって!」
「うるさい」
 袴の裾を引っ張り返した。
「おまえも男ならやる時はやれ!」
 むちゃくちゃである。だが、もういい加減回っていた酔いが、そのむちゃくちゃさ加減を、利吉に自覚させない。
「俺に認められたければ戦え、きり丸!」
「いや別に、あんたに認められたくないし……」
 きり丸の返事はもう耳に入らない。
「来いっ!」
 利吉は酔いにまかせての大乱闘を始めていた。



 

 血相変えたきり丸に案内されて来てみれば。
 店の中をめちゃくちゃに壊し、並み居る男たちを伸し終えた利吉が、これも床にうずくまっている。
 とりあえず店の人に頭を下げまくり、懐に持ってきていた金子を全て差し出してまた頭を下げ、半助はきり丸が背中をさすってやっている利吉の隣に膝をついた。
「呑んだ後に大暴れしたから、まわっちゃったんだよ」
 きり丸の説明に、なにをやっているんだとタメ息をつく。
 力の抜けきった体をなんとか背負って、店を出る。
「まったく……!」
 月に照らされながら夜道を行くが、出てくるのは小言ばかりだ。
「おまえがついてながら、なんて騒ぎだ。いったいどれだけ呑んだんだ」
「おれは飲んでないよ!」
「当たり前だ!」
 怒鳴りつける。
「家に帰ったら一発ゲンコツだからな。利吉くんもだ。山田先生にきつくお灸を据えてもらわないと……」
 半助がそう言うと、きり丸は道端の草を蹴ってから思い切ったように顔を上げた。
「先生が怒りゃいいじゃん」
「なに?」
 思わず半助はきり丸を振り返った。きり丸はあきらめと怒りが交ざったような顔で唇をとがらせている。
「こら利吉なにやってんだって、先生が怒ればいいんだよ。山田先生じゃなくてさ。そのほうが利吉さん、喜ぶよ」
「……ちょっと待て、きり丸。悪いことをした人間をどうして喜ばせなきゃならないんだ」
 半助の正論に、きり丸は、それはそうなんだけど、と歯切れ悪く、しかし、
「いつまでも『利吉くん』じゃ、利吉さんも可哀想だよ」
 半助の胸にぐっとくるような言葉をこぼした。
「ま、おれはさ、別に、利吉さんが可哀想でもなんでもいいんだけど」
 横を向いて独り言のように落とされたセリフも、これはこれできり丸の本音なのだろうと思えたが。
 半助は背中の、重い身体を揺すり上げる。
 ――ただひたすらに一途で、まっすぐで……それは年若いせいなのだと思うけれど。
「……なあ、きり丸」
 月の光のせいにして、尋ねてみる。
「俺はずるいか」
 横を向いたままの問いかけに、
「少しね」
 と、やはり少しくぐもった声が答える。
「でも、」
 熱い手が、半助の腕に添えられた。
「おれはそういうずるいとこもある先生が好きだ」
 黒い瞳が、まっすぐに怯じる気配もなく、自分を見つめている。半助は小さくひとつうなずいて、もう家族になったその少年の言葉を受け止める。
 と、半助の背中で、きり丸とはちがう角度からではあるがそれでも半助と寄り添い合いたい想いの青年が小さく身じろぎした。
「……はん、すけぇ……」
 きり丸と目が合った。
 どちらからともなく噴き出した。
「しょうがねえなあ」
 きり丸が大人のように言い、利吉の尻を叩いた。




   *     *     *      *      *      *





「な、な、な、なんでいきなりお灸なんですかっ!」
「いや、きり丸の勧めでね」
「きり丸っ! なんの恨みだ、これはっ!」
「えーそれ、二日酔いに効くんだぜー。おれ、利吉さんはぜったい喜ぶと思ったのになー」
「喜ぶかっ! あ、あつっ……!」
「こら、動くな、利吉。もぐさが落ちるだろう」





 瞬間、動作の止まった利吉がゆっくりと顔を上げる。
「……は、半助……今……」
「だから。もぐさが落ちるだろう」
 じわりと利吉の瞳が潤む。
「……はい。はい、半助。じっとしてます」


 

 しょうがねえよな。
 と、きり丸は思う。
 またあんなふうにヤケ酒につきあわされちゃたまんねーし。
 と、きり丸は思う。
 あれじゃあ、さすがにちょっと可哀想だったもんな。
 経験値の高い齢12の少年は、苦笑しながらタメ息を漏らすのだ。

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