折悪しく、と言うのだろう、半助が脱衣所の暖簾をくぐったところに、利吉がいた。
彼はちょうど湯から上がったところだったらしい。
まだ水気の残る躯に手ぬぐいを使いながら、利吉は振り返り、気さくに笑った。
「ああ、土井先生、お先にどうも」
「……あ、ああ」
平静に、と思いながら返した声が見事にかすれて、半助は舌を噛み切りたくなる。
無理ないじゃないか! と半助はわめきたい。
湯から上がったばかりの利吉はその裸身になにもまとってはおらず。ただ、絹糸のように滑らかな髪が、背を半ばまで覆うだけ。その、見事に均整のとれた裸体は惜し気もなくさらされて……。
しょうがないじゃないか! と半助は心の中で叫ぶ。
――これほど、綺麗で……たくましくい……男性美の極致のような裸体を目にして、うろたえたり目を奪われたりしないほうがおかしいじゃないか! と。
別に、わたしがヨコシマなばかりじゃない!
……実際。
利吉の躯は、今、絶妙なバランスの粋にあると言えた。
すでに少年期の華奢を脱し、筋肉のつき方も、伸びやかな手足のたくましさも、すでに成人した男性のそれでありながら、年季のいった男性のごつさや、むさ苦しさは毛ほどもない。そしてまた。卓越した技量を支える全身の筋肉の発達は立派で、肩も太ももも、十分に張っていながら、その筋肉をおおう肌は、まだ十代の艶となめらかさ、肌理の細かさをもって、水をはじくのだ。
だからといって、見蕩れるんじゃないぞ、半助! と半助は己を叱る。
あの腕はどれほど力強く、人を抱き締めるのだろう、とか。
あの胸板に押しひしがれたら、人はどれほど間近にあの綺麗な顔をみることになるのだろう、とか。
あの太ももに脚を割られたら、人は……
ちがうちがう! 半助はあわてて首を振る。なにを考えているんだ!
あれは! 単に同僚の息子さんで! いくらその裸が綺麗で立派でも、ジロジロ見ないのは礼儀で! だから見ないだけじゃないか! なにをそんな、わたしは、なにを……
「土井先生」
迫り来る妄念を払おうと必死だったせいだろうか、それとも常に頭の中で繰り返し聞く、愛しい人の声が実際に自分の名を呼んだせいだったろうか。
「……!!」
利吉に呼びかけられて、半助は心底驚いた。
おそるおそる振り向いた先で、利吉が苦笑まじりに笑っている。
「そんな、驚かなくても。……今から風呂なんでしょう? 背中、流しましょうか」
「い、いい、いいよっ! 君は出たところじゃないか!」
「先生の三助なら楽しそうです」
「いらないよっ」
申し出を丁重とは言えない調子で断れば、利吉は、そうですか、とあっさり引っ込み。
職業柄もあるだろう、手早く身じまいして、さて、と利吉は再びこちらを向いた。
「どうしたんですか?」
どうもこうもない。
半助の手は忍び装束の上着を脱いだところで、止まってしまっている。
利吉は腕組みをしてこちらを見ている。
その視線の前で、脱げ、と?
あれほど素晴らしい肉体を持つ、その人を前に、脱げ、と?
恋してやまぬ、その人の目にさらされながら、脱げ、と?
「き、君こそ、どうしたんだ!」
半助は懸命の反撃を試みる。
「もう風呂は終わったんだろう? 湯冷めするよ、早く部屋に戻ったらどうだい」
「湯冷めがこわい季節じゃありませんよ? 部屋に戻ってもすることもないし」
「じゃ、じゃあ、夜の散歩でもしたらいい」
「一人で夜、出歩くのは仕事だけで十分です」
そう返されては半助も言葉に詰まる。
どう言ったら、利吉は湯屋から出て行ってくれるのか。
困る半助に、利吉の声が落ちる。
「ああ、でも……」
え、と顔を上げる半助に利吉が深い眼差しをそそぐ。
「夜の散歩。それもいいかもしれませんね」
では、と利吉は腕組みを解いて、荷物を手にする。
「父の部屋で待ってます。先生のお風呂が終わったら、声を掛けてください」
……え? と半助が聞き返す間もなく。
利吉は言い置くと、すっと湯屋を出て行った。
どうしてこんなことになっているんだろう、半助はいぶかしく思う。
部屋で待っていると言われたので。
声を掛けてと言われたので。
まとめた洗い髪のしずくを手ぬぐいで押さえながら、半助は利吉に声を掛けた。
「それでは、父上」
利吉が腰を上げながら言う。
「ちょっと土井先生と夜の散歩に出て来ます」
おおそうか冷えきる前に帰って来いよ、と伝蔵が受け、利吉が、過保護ですよ父上、と笑っていなし。
どこもおかしくない会話ばかりを交わして、なのに、この事態はなんだ!
利吉とともに月の光を浴びながら、月見亭への石段を上る半助は、夢心地だった。
月の蒼い光に、隙間から雑草を芽吹かせた石段が、濡れたように光っている。
その石段を一段一段踏み締めながら、しかし、半助は雲を踏んでいるような心地である。
肩先が触れ合うほどの近さに、利吉がいる。
彼の体温が、肌が、今にも自分のそれに触れそうで。
半助は自分の心臓が音高く跳ねるのを聞く。
そこへまた、利吉はとんでもないことを言い出すのだ。
「こうしてると、恋人同士みたいですね」
月の光、人目をさえぎる生い茂る木々の葉、肩寄せあって歩く二人……
「ばかなことを!」
半助は慌てながらも語気強く否定する。
「君の本当の恋人に申し訳ないよ、わたしは」
「本当の恋人? 残念ながら、そんなうれしい人は、わたしにはいませんが?」
「ならそれは」
半助は即座に言い返す。
「君が忙しすぎるせいだよ。ゆっくり恋人を作るヒマがないだけで、君がその気になったら、すぐに……」
不自然に半助は詰まる。すぐに……利吉なら、すぐに。
「すぐに?」
笑いを含んだ声で、利吉は残酷に先をうながす。
「……すぐに……かわいい恋人ができる……」
黒髪のきれいな、気立てのよい……かわいい恋人が、すぐに。
「そうですかねえ」
ところが利吉は首をひねるのだ。
「そうすぐにできるとは思えませんが」
「それは君が」
と、半助は少しムキになる。
「きちんと口説こうとしないからじゃないのか? いくらモテてもね、きちんと相手に気持ちを伝えなきゃ、恋愛は進まないよ?」
「なるほど」
うなずきながら、利吉は最後の一段を昇りきり、半助を振り返った。
「では、きちんと口説きましょう。早速に」
半助は最後の一段を、一歩早く上がり切った利吉に、手を貸してもらうかっこうで上った。だが、半助が階段を上り切っても、利吉は握った半助の手を離そうとはしない。
そうして。
半助の両手を、その両手で包み込むように握ったまま。
利吉は言った。
「わたしの、恋人になってください、土井先生」
と。
「な、なにを……っ!」
カッとして半助は利吉の手を振りほどこうとする。
が、その手はしっかり利吉のそれに握られたまま。
「だから」
利吉は口元には笑みを浮かべながら、瞳には熱い光をたたえて……半助にささやいてくる。
「わたしは先生に、わたしの恋人になってほしいんです」
「ばかなっ!」
半助は利吉の手を振りほどこうと、力を込める。
「タチが悪い! そういうからかいは好きじゃない!」
「からかい? からかいなんかじゃありません」
月の光に。
鳶色の瞳をきらめかせ。もう笑みはなく。
甘さと端正がほどよくないまぜになった、美貌の若者は言うのだ。
「わたしは先生が好きです」
低く。けれど真摯に。ささやく。
「好きです、好きです、土井先生」
と。
喜びなど、かけらもなかった。
「やめろ!」
半助は叫ぶ。
「わたしがすぐだと言ったから、試してるんだろう? 本当にすぐかどうか……試してるんだろう?!」
「試してなんかいません」
利吉は静かに反論する。
「先生は不思議だと思ったことはないですか? わたしたちの目がよく合うな、と思ったことはないですか?」
しばし。
半助は反論も、手を振りほどこうと力を込める事も忘れて。
利吉を見つめる。
「よく、合うでしょう? それは先生がよくわたしのことを見ていらっしゃるからだ。だけど、同じくらい、わたしも先生のことをよく見てるんですよ? だから、わたしたちの目はよく合うんです」
羞恥と困惑が、一気に半助の躯を駆けた。
「み、見てなんか、ないっ! わ、わたしは、き、君を見てなんか……っ!」
「嘘だ」
あくまで静かに利吉は笑う。
「先生はわたしを見てます。今日だって脱衣場で見ていらした。なのに先生はズルイから、わたしには先生を見せて下さらない」
羞恥が、困惑が、熱い固まりになって込み上げて来る。
半助は自分の眼が潤んだのを悟ったが、だが、だからと言って止められるものでもなかった。燃えるように熱くなる頬とともに。
半助にはただ、しゃにむに首を振ることしかできなくて。
「ちがう! ちがうちがうちがうっ! わたしは君を見てないっ!」
叫びが高くなった。
しょうがない、と言うように利吉は吐息を漏らす。
「……だから、すぐには無理だと言ったでしょう?」
わかってましたよ、と笑う利吉は年には似合わぬ、落ち着いた声で半助の耳元で言うのだ。
「先生。わたしが恋人にしたいのは、とても純で可愛い人で。そのくせ、ちっとも自分の魅力をわかっていない、困った人なんです」
ちがうっと半助はさらに首を横に振る。
「君はなにか勘違いをしてるんだっ!」
「……じゃあ、先生」
再び笑みを収めた利吉は、息を荒げ、はからずも目元に涙をためてしまった半助の顔を正面からのぞきこむ。
「……先生がわたしのことを好いていてくださると、わたしが思ったそれも、わたしの勘違いですか?」
利吉の瞳は斬り込む鋭さ。
その鋭さに押されて、半助は目をそらすこともできず、ただ唇を震わせる。
「答えてください……土井先生……半助」
不意に。
利吉の怜悧な光に輝いているその瞳が、揺れた。
「……答えて……お願いです、答えてください、先生」
低い声に、すがる調子がある。……常に、自信に満ち、落ち着いた挙動をよしとする利吉が不安に苛まれているのを、半助は悟る。
――なんの不安があるというのか。これほどに才にも美にも恵まれていながら、なにを。
「答えて。教えて、先生。先生はわたしのことを、どう思って下さっているんですか」
それでは、これは、わたしのせい?
半助は半ば呆然と利吉を見つめる。
本当に……ほんとうに? わたしの気持ちを、彼は不安に思ってくれるのか……?
「先生」
「……好きだよ……」
うながす一言に、つられるように半助の口は動いた。
「わたしは……君が……好きだ……」
「土井先生!」
つかまれた両手をぐっと引き寄せられたのが先か、利吉がぐっと踏み込んで来たのが先か。
半助は、利吉の厚く熱い胸に、抱き込まれていた。
瞬時に体温が上がった気がした。
しかし、夢見た腕(かいな)に抱かれながら、半助の胸の内は叫ぶのだ。
これは間違いだ、なにかのまちがいだ!
利吉はなにか勘違いをしている。
いや、勘違いしているのは自分のほうかもしれない。
七つも年上の同性を、純で可愛いなどと言えるヤツがいるか? なにか、聞き違えたのだ、自分は。でなければ、これはやっぱりタチの悪いからかいか……あるいは、利吉自身、自分の気持ちを読み誤っているにちがいない。
鳶色の瞳は優しげに自分に注がれているけれど。
その瞳の奥に、熱く狂おしいほどのなにかが見える気もするけれど。
だけど。
真に受けてはいけないのだ。
勘違い、読み間違い、聞き違い。
そうでなければ、すべて、夢……
そうだ……夢。
利吉の、秀麗な顔が……これほど近くにあってもなお、美しさの損なわれない顔が……ゆっくりと自分に近づいてくるのも……夢なればこそ。
夢の中だから。
一瞬だけ。
焦がれた唇が、自分の唇を覆うのを……一瞬だけ、自分に許してもいいだろうか……
唇が触れ合った、次の瞬間。
半助は思い切り利吉を突き飛ばしていた。
次の朝の食堂で、間の悪さに顔を上げられぬ思いの半助に。
利吉は常と変わらぬ笑みを向けて来た。
ここが空きますよ、と手を振られては、ほかの生徒の目もある、無視もできない。
ぎこちなく、利吉と入れ替わりの席に盆を置こうとした半助に、利吉は明るく、
「今日からまた仕事ですが、たぶん、数日うちにまたこっちに来れると思います」
と告げてくる。
「そ、そう」
「そしたらまた、夜の散歩にお誘いしてもいいですか」
ドキリとしながら、半助は初めて顔を上げた。
利吉はおだやかな、しかし、凛とした瞳で半助を見つめている。
「空けておいて下さい」
「……君は……だから、なにか、勘違いを……」
「自分の気持ちぐらい、自分でわかります」
低く、だが、ピシリと利吉は言い切り、またふわりと笑みを浮かべた。
「いいですよ。前途多難は先に承知のことですから」
そしていたずらっぽく、片目をつぶって見せるのだ。
「すぐには恋人はできないって、ちゃんとわたし、言ったでしょう? でも、大丈夫です。ご助言にしたがって、きちんと口説いて差し上げます」
半助にはもう、返す言葉がない。
鮮やかな影を残して。
青年は立ち去るのだ。
熱い言葉を、半助の胸に残して。
了
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