Please call me....

 

利吉くん。
あたたかく、おだやかな声でそう呼ばれるのは嫌いじゃなかった。なのに。
いつからだろう。そう呼ばれるたびに苛立ちに似たものが胸を刺すようになったのは。

ドクタケ城から、秘伝の巻き物を盗み出し、命からがら逃げのびたあとだった‥‥。
小高い丘の上で、炎上するドクタケ城の本丸を見ながら、二人して荒い息をついた。
共に、忍び装束はぼろぼろ、肌のあちこちから血がにじみ、妙な高揚感にとらわれているせいで
痛みはなかったが、落ち着いて探せば縫わねばならぬほどの傷もふたつみっつはありそうだった。
妙な高揚感‥‥それは、おのれの技量と運に命をかけて危地を切り抜けるたまらないスリル、
流れる血にあおられる興奮‥‥。
それはなんとエロスの高ぶりに似ていたことか。
肩をもたせあい、荒い息をついていた。たがいの顔が間近にあった。
目が合う。荒々しく光る瞳を互いに認めた。
どちらからともなく。唇が、重なった。
激しく、吸い合った。
戦場の興奮のせいだと、わかってはいたけれど。
その時、利吉は自分のいら立ちの正体をはっきりと知った。

近くにいたい。
寄り添い合いたい。
独占されたい。
そして‥‥なによりも。自分のものにしたかった。

何ごともなかったかのような顔で。
実際に忘れていたのかもしれない。あれは危険を脱したあとの昂ぶりの中だった。
覚めた後、夢を忘れてしまうように、忘れてしまったのか。
「利吉くん」
そう呼び掛けられて。
「もう、そう呼ぶのはやめてもらえませんか」
え。と一瞬、戸惑った後。そうか、と言うようにその人は笑った。
「そうだ。もう一人前だもんな。失礼した、山田さん」
殴ってやろうか、と思うほどの怒りを感じた。手がのびた。

伸びた手は、しかし、その人の頬をたたくことはしなかった。
顔の横を通り、また一本の腕は脇の下をくぐり‥‥。
「え」
いきなり抱きすくめられたその人は小さく驚きの声を上げた。

「‥‥と呼んでくれませんか」
「え。え、今、なんて。利吉くん、なんて?」

恋はいつも切なさから始まる‥‥。

                      了

 

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