いい子

 

 

 表口にまいた薄い砂、よし、足跡なし。天井、よし、人影なし。
 確認して、そろっと裏口から半助はわが家に足を踏み入れる。次は中の間だ。
 壁伝いにそっと入り口まで行き、部屋の中をうかがう。
 ‥‥よし。異常はないようだ。
 

 ため息が出る。
 なんで、共同便所から帰って来ただけで、これだけ神経を使わねばならんのか。
 炭櫃でわかしている湯の加減を見ながら、またため息が出た。
 ‥‥いかん、いかん。
 半助は慌ててまた、四囲に神経を配る。
 ‥‥まったく。忍び込むほうは、忍び入るその瞬間に全神経を集中すればすむが忍び入られるほうは、四六時中神経を張っていなければならない。 
 たまったもんじゃないよな。ふう。知らず、ため息が出る。
 利吉の仕事がそろそろ終わる。あいつは飛んで帰ってくるだろう。
 ‥‥それはいいんだ。それは。
 問題は。
 会えなかった時間の埋め合わせを、利吉が一気に片付けようとする、そのことだ。それも、会話はいらないらしい、肌の触れ合い一本槍だ。
 が、半助も一人前の大人の男である。
 夜の閨で挑まれるのは、もう、こういう間柄になった以上、特に異議を申し立てる気もないが、昼のひなかに、のしかかられ下帯までむしり取られて、喜べるか、と思うのだ。
 一度は、明るく「おかえり」と迎え、仕事の労をねぎらっている最中に押し倒され、なんだか訳のわからぬうちに真っ昼間からそういうことになってしまった。次は用心していたので、抱きつかれたところで、反撃した。‥‥それがまずかったらしい。
 以来、利吉は声を掛けながら、表口から帰るということをしなくなってしまった。
 忍び入ったあげくに、有無を言わせず、襲いにかかる。
 いい加減にしろ、と半助は思う。忍びの技があるなら、もっと有効に使え、と。
 それを言ったら、
「これ以上に有効な使い道をわたしは知りません」
 真顔で返されてしまった。
 ‥‥まったく。
 敵は百戦錬磨の一流忍者だ。迎え撃つに不足はないが‥‥ないが‥‥。
 ここは俺のうちだ!!
 家でぐらい、くつろぎたい!!そう思う半助であった。

 あ。茶が切れていた。
 奥の釣り棚から取って来よう、そう思って立ち上がった時。確かに一瞬、すきが
あった。あったが、しかし。
 いきなり、後ろから押し倒すことはないだろう!!半助は叫びたかった。

「り、りきちく‥‥」
「ただいま、帰りました」
 あいさつする声が、半助の肩口でくぐもる。
「‥‥会いたかった、半助‥‥」
 そして利吉は、問答無用に半助の着物をはぎにかかる。
「り、利吉‥‥」
 半助の抗議の声が空しかった。

 そろそろ夕刻。仕方ないか。半助は心の中でため息をつく。
 そろそろ夕刻。遠く近く、物売りの声が聞こえる。
 ぱあーぷうー。間延びした独特のラッパの音も聞こえてくる。
「あ。豆腐」           
#その頃から、豆腐の行商があったかどうか作者は知らない。
「え」               
 思わず半助がもらした言葉に利吉が顔を上げた。
「‥‥いや、豆腐。今日はまだ、買ってなかったなあって‥‥」
「‥‥」
 じわり。利吉の眉間に不機嫌が、にじむ。
「い、いや、ほら、冷や奴、きみ、好物だろ?」
「‥‥」
 利吉は無言のままだ。が、目が底光りしだした。
 うわ。まず。またやった。半助は思う。埋火(地雷)をまた踏んだ。
 半分むいただけの半助から、利吉は何も言わずに離れて行く。
 いっそ「豆腐とわたしとどっちが大事なの!?」とやってくれれば、まだ言い訳のしようもあるが、無言でじっと不機嫌の嵐を起こされては、どうしようもない。
「り、利吉くん‥‥」
「豆腐屋、行ってしまいますよ」
「いや、あれは、ほんとに、きみが帰って来たら冷や奴を、と‥‥」
 言いながら、半助は利吉の目がますます険しくなったのを認めた。
 ‥‥あ。つい、利吉がほどきかけていた下帯を締め直していた‥‥。
「え、あ、いや、これは、その‥‥」
 懸命に言い訳の言葉を探しながら、半助は泣きたくなった。
 大の男なら、いや、普通の男なら、下帯がゆるんだら、締め直すものだろう。なんでそんなことで不機嫌になられなきゃならないんだか。
「利吉くん‥‥」
 ふい、と利吉は立ち上がる。出て行く気だ、とわかるのは、似たような状況で何度も出て行かれているからである。
「り、利吉くん。わ、わたしだって、きみにずっと会いたかったんだよ。ひ、久しぶりに会えたのに、こ、ここで出て行ったら、さ、寂しいじゃないか」
 ほんの少し、利吉の険がゆるんだ。
「‥‥ほんとですか」
 半助は何度も大きくうなずいてみせる。
「ほんとだとも。あ、会いたかったし、さ、さび‥‥」
 駄目だった。半助にはここが限界だ。この手の台詞を真顔でしらっと言える利吉とは半助はちがう。
 が、利吉にはそれなりの効果があったようだ。
「じゃあ」
 目にとがった光がなくなっているのを見て、半助はほっとする。
「じゃあ、お帰りなさいの口づけをしてください」
「い‥‥」
 いやだ、とは口が裂けても言えない。
「いよ」
 なんとか肯定の返事を返して利吉の肩を引き寄せる。こういうまねが出来る男に、おれもなったんだなあ、と妙な感慨を覚えつつ利吉に口づけた。
 とたんに。続き!とばかりに押し倒された。
 ‥‥あーあ。
 半助は心の中でため息をつく。
 これがなきゃ、いい子なんだけどなあ、と。

 


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