利子ちゃんの災難

 

 ふとしたきっかけで、取り憑かれてしまう想念、というのがある。
 今度の場合、それはいつも通りの口喧嘩に負けかけたきり丸の、切れた一言がきっか
けであった。
 きり丸は叫んだのだ。土井に向かい。利吉を指さし。
「こんな奴のどこがいいんだよ!」
 土井が即答していてくれればよかったのかもしれない。
 が、いつも通りの利吉ときり丸のいがみ合いに、ため息半分無視半分で横を向いてい
た土井は、突然自分に振られたその言葉に、反応しそこねた。
 いや、十分に構えていても、それは土井には即答できかねる問であったかもしれない。
「え、いや‥‥」
 瞳をたじろがせ手で口元を隠しながら、土井はもごもごと意味不明な言葉を紡いだ。
「どこって‥‥その、えっと‥‥」
 怒り収まらぬきり丸が、常なら「一言多い」と言われるだけで納めておくのに、今日
は立て板に水の如くにまくしたてる。
「確かに顔はきれいだし、腕も立つよ!だけど、自分がいい男だと思ってるし、腕が立
つのだって鼻にかけてるじゃん!食事の味付けにはうるさいし、細かいところ気にする
し!すぐにヒス起こして怒るし!陰険だし皮肉屋だし意地悪いし、なんで、先生がこん
な奴と付き合ってるのか、おれ、ぜんっぜん、わかんない!」
 対して土井は、一言ビシッと返してほしい利吉の気持ちを知ってか知らずか、いや、
たぶん、知らずにだろう。
「ま、まあまあ、きり丸。そこまで言わなくても‥‥」
 まったくフォローにも救いにもならぬことをほざくだけである。
 利吉はそんな土井の背に、じっとりと不審と怒りと恨みの視線を注いだ。


 利吉は懸命に自分をなだめる。
 相手は教え子である。大事な生徒と恋人とが喧嘩をした時に、教師である半助が生徒
に向かって惚気(のろけ)まじりに恋人の肩を持つわけにはいかないじゃないか。そう
だ。生徒に向かって、同居までしている情人の、自分が魅力を感じている部分をあげつ
らうなど、そんな恥ずかしい真似が半助にできるわけはないじゃないか。
 そうだ。半助は恥ずかしかったのだ。
 ‥‥しかし‥‥でも‥‥半助は、では、本当は、自分のどこに魅力を感じてくれてい
るのだろう‥‥?
 利吉はその疑問に取り憑かれた。


 生徒のいないところなら。と、話を振ってみる。
 一番こういう話題を素直に出せるところと言えば、やはり、床の中である。
「‥‥半助‥‥」
 ゆっくりと裸になった土井の上にのしかかりながら、利吉は聞く。
「わたしの、どこが好きですか?」
 見上げる土井は、うっすらと笑みを浮かべて、無言で利吉の頬を挟み、首を伸ばして、
唇を唇に押し当てて来た。
「‥‥え‥‥いや、そういうことではなくて‥‥」
 土井は笑っている。笑って、自分の顔の横にある利吉の手を取り、その指先にも口づ
ける。
「え、あの、そうじゃなくて‥‥その‥‥どこが‥‥」
 土井の手が伸び、利吉の元結いを解く。はらりと落ち、流れる艶やかな髪に、土井は
指を絡める。
「好きだよ‥‥ここも‥‥ここも‥‥」
「‥‥半助‥‥」
 それはなんと甘美な告白だったろう。
 微笑をたたえ、優しく手を滑らせながら、利吉の体のあちこちに唇を軽く落としなが
ら、土井は言う。
「好きだよ」
 利吉は必死に理性を支え、話の筋を追おうとする。
「だから、あの、そこじゃなくて‥‥いや、そうじゃなくて、どこが‥‥」
 土井の微笑に淫猥ななにかが交ざり、その表情だけで利吉は蕩かされそうだ。しかも
その手はすうっと利吉の下腹に伸びていく。
「ここも‥‥?好きだよ‥‥?」
「‥‥あ‥‥」
 利吉は理性を支えることは諦めて、とりあえず、肘で自分の上体を支えた。
 その利吉の体の下を、するりと土井がくぐっていく。
「‥‥アッ‥‥!」
 利吉は自分の体を支えることも諦めた。
 ‥‥なんだか、ひどいごまかされかたをした気もするし、なんだか得をした気もする。
 利吉を咥えた土井の丸い唇が、かすかに笑いの形に歪んでいた。


 どん、とこぶしを机に置く。
 ん?と本を読んでいた土井が顔を上げる。
「半助」
 今日はごまかされないぞ、と利吉は真剣な眼差しで土井を見つめる。
「わたしの、どこが、好きですか」
「‥‥唐突な質問だねえ」
「答えてください」
「‥‥そうだなあ‥‥」
 うーん、と考える表情で天井を見上げた土井が、ふと視線を利吉に戻した。
「そういえば、利吉くんはわたしのどこを好きでいてくれるの」
 利吉にとっては、この質問は簡単である。考えるより先に言葉が口から出る。
「全部です。わたしは先生の全部が好きです」
 にっこりと土井が笑った。
「じゃあ同じだね。わたしも利吉くんの全部が好きだよ」
 恋に落ちた当初なら、利吉はこの言葉に狂喜乱舞し、あっさりはぐらかされていたろ
うが、さすがに二十をいくつか越えた今ではそうはいかない。
「それでは答えになっていません。ずるいです」
 ずい、と利吉は土井に詰め寄る。
「それはわたしの言葉です。わたしはあなたの言葉であなたの答えが聞きたいんです!」
 ふう、と土井はため息をついて、利吉の目の前に読んでいた本の裏表紙を突き付けた。
 忍術学園図書室の管理カードが張ってある。
「何が見える?」
「‥‥本の貸し出し表が見えますけど?」
「なら、わかるだろ。今日中に読み終えないとまずいんだ」
「‥‥半助‥‥」
 怒りに震えそうになる声を、利吉はしいて押さえようと努める。
「あんまりな逃げ方だと思いますよ」
 ほー、と土井はまた深いため息をついた。
「いいんだけどね、別に。頼めば貸し出し延長はしてくれるだろうからね。クラスの図
書委員に頼めばね‥‥」
 土井のクラスの図書委員と言えば、きり丸である。
「頼めばすぐに聞いてくれるだろうからね、いいんだよ、別に。‥‥で、なにを話そう、
利吉くん?」
 利吉の脳裏に浮かぶのは。『もー先生、一回きりだよ』ちょっと唇をとがらせたきり
丸とそのきり丸に片手を立てて笑いながら『悪い悪い、今度団子でもおごるから』言う
土井である。‥‥親しげな二人‥‥。‥‥許せない‥‥。
 額に青筋たてながら、利吉は低く言った。
「‥‥本、読んで下さい‥‥」
「え?なに、利吉くん?」
「本を読んでて下さいって言ったんです!」
 叫んで飛び出す利吉であった。


 それだけのことがあった後である。
 利吉が女装してかからねばならぬ仕事が来た。
 身支度する、と言う利吉に土井はうれしそうである。
「この前はわたしが手伝ってもらったからね、今度はわたしが手伝うよ」
「えー」
 と利吉は嫌そうな顔になった。
「いいですよ、自分でやります。いろいろと細かいところに大事なポイントがあるんで
すから」
 女装に関してはさすが親子というのか、利吉が職人堅気なこだわりをもっているのを
土井も知っている。が、土井は重ねて言う。
「この前、利吉くん、わたしに化粧してくれたじゃないか。目付きがどうの、顔付きが
どうの、指導付きで。だから、今度はわたしが手伝うよ」
 うろんな目付きで利吉は土井を見返す。
「‥‥根に持ってませんか、前のこと」
 土井はまじめな顔で首を横に振る。
「いやいや、わたしは手伝いたいだけだよ、お返しに」
「‥‥わかりました。でも、最後だけにして下さい。口紅だけ、お願いします」
「口紅ね、よしよし、わかった」
 利吉はしょうがない、と肩をすくめてから、隣室へ消える。
 髭の処理はもちろん、手足のムダ毛の処理から利吉の女装の準備は始まる。もともと
髭もあまり濃くなく、体毛も薄いほうだから、手間と言うほどのことはないが、一本一
本ていねいに処理を進める。それが済んだら今度は肌襦袢を着ける前に、動きの邪魔に
ならぬ程度にさらしと真綿で女性らしい膨らみを装う。これは防御にもなるので、少し
きつめに腹部をまいて、女性の腰のくびれを作り、併せて腰巻きを二重に着けて、女の
重く丸い臀部を真似る。それだけの下準備の上に、喉元を目立たせぬように肌襦袢、小
袖と袖を通していく。今はまだ肌理(きめ)が細かいので必要ないが、後数年したら、
着物を着る前に、首筋と手足にごくごく薄く白粉をはく、という手順をいれねばならな
いな、などと考えながら髪を下ろし、ひねりながら女髪にまとめていく。
 顔の作りはその次である。
 眉を整え、白粉をはき、目元に少し紅を入れる。あまり濃い化粧では町の女に見えな
いから、薄く薄くを心掛けながら、男のきつさが少しでもやわらぐようにとあしらっていく。
 最後に貝殻に入れた紅に手を伸ばしかけて、利吉はためらった。
 ‥‥このまま、このまま、自分の手で完璧に仕上げてしまいたい。が、それでは、こ
の前の女装の折りにさんざんいじめてしまった半助は納得しないだろう。
 仕方ないか、利吉はため息をついて鏡を見る。
 紅がないせいで生気がかけて見えるが、それがまた色っぽいとすらいえる、美女がこ
ちらを見返している。
 まあいいか。半助も化粧の腕は悪くない。
 利吉は紅と筆を手に立ち上がった。


 半助は目を奪われた。
 前にも見たことはある、利吉の女装。しかし、しかし、ほんの一時前、隣の部屋へ消
えたのはよく見知った男だったのに。
 現れたのは。
 顔立ちの美しさが男の目を引く、艶やかな髪の流れが男の気を引く、匂うような色気
が男の足を止めさせる‥‥絶世の美女である。
 ずい、と目の前に紅と筆を突き出されるまで、半助はぼおっとその美女に目を奪われ
ていた。
「半助、紅」
 女はぶっきらぼうにそう言った。


 利吉はおもしろくない。
 なにがおもしろくないと言って、土井の目が気に入らない。ぼおっと自分をみつめる
熱に浮かされたような目が気にいらない、だらりと締まりのない顔が気に入らない。
 ふだんからそういう目で見られていたならともかく。
 男の姿の自分にはついぞ、向けられたことのない、心奪われた様子の土井の目が許せ
ない。
 紅が入っていくにつれ、顔にあでやかさが増し、“生きた”女の顔になっていくのを
利吉は知っている。
 自分の手で紅をいれながら、土井の手は美女の出現に震えださんばかりだ。
 吸い寄せられているように、その目が唇の塗られたばかりの赤から離れない。
 利吉は決めた。
 キスしてみろ、噛んでやる。


 口づけたかった、押し倒したかった。
 眼前の美女は男の理性のタガを揺るがすほどに、咲き匂う美しさにあふれている。
 ‥‥簡単なんだよな。
 半助は思う。
 左腕を女の背中に回して、女の左腕の肘をつかめばいい。これで女の両腕は封じられ
るし、上体はこちらに簡単に引き寄せられる。あいた右手で、襟元から胸をまさぐろう
が、帯を解こうが、裾を割ろうが、自由にできる。あまい唇を吸い上げながら、秘所に
手を這わせたなら、この女はどんな吐息をもらすだろう‥‥。
 紅筆を手に、半助の想像はふくらむ。


 利吉は長い睫毛の陰から土井をにらむ。
 ようやく唇から離れた土井の目が、粘い熱を含んで、全身を嘗めて行く。
 ‥‥この野郎。
 利吉は怒りを覚える。
 同じ男だ。今、土井がなにを考えているのか、手に取るようにわかる。
 目の前の“女”を裸にむいて、好き勝手しているのだ。
 ‥‥この野郎。

「あなたはいつも、そういう目で女を見るんですか」

 半助の妄想は、怒りに満ちた低い男の声で破られた。

 目前の美女が怒っている。怒った顔も美しい、とはなだめる男の常套句だが、そんな
悠長なことを言っていたら殺されるかもしれない、と半助は散らばっていた理性をかき
集める。その目にだけ神経を集中すれば、同棲している年下の男が尋常でなく怒ってい
るのがわかる。
「や、やだなあ、利吉くん。あんまりきれいだから、つい見とれてただけじゃないか」
「知りませんでしたよ。あなたがそんなに女性が好きとは」
「ち、ちがうちがう」
 半助は背中に流れる冷や汗を感じながら、懸命に手を横に振る。
「利吉くんだからだよ。き、決まってるじゃないか。ほら、君があんまり綺麗だから、
つい見とれて‥‥君だからだよ!」
「‥‥‥‥」
 無言の利吉の目が言っている、嘘をつけ、と。
 まずったな、と半助は臍(ほぞ)を噛む。
「だ、だいたい、君ほど綺麗な女はいないよ。だ、だから見とれたんじゃないか!」
「‥‥綺麗?」
 すっと利吉が面を伏せる。頼りなげに聞き返されたようで、半助はつりこまれたよう
に答える。
「綺麗だよ!」
「‥‥半助‥‥わたしのことが好き?」
「好きだよ、当たり前じゃないか!」
「‥‥わたしのことが好きなのは‥‥」
 しおらしく伏せられていた長い睫毛が、ふわりと上がった。
「見た目が綺麗だからですか」
 剣呑に光った両眼が、下からじっとりと半助を見上げていた。
「‥‥え、あ‥‥いや‥‥」
 半助、しどろもどろ。
「そーなんですか!この前から聞いてますよね。わたしのどこが好きなのかと。答えて
くれなかったのは、わたしの見た目だけが大事だからですか。本当は女のほうが好きだ
けど、まあとりあえず、この子は綺麗だから、だから付き合ってやろうって、そういう
わけだったんですか!」
「り、利吉‥‥そ、そんなことは誰も言ってない‥‥」
「言ってますよ!あなたの目が!」
「だから、綺麗だからつい‥‥」
「本当のことを言ったらどうですか」
 ずい、と利吉は半助に迫る。
「わたしが女だったらよかったって、ついさっき、思ってなかったって言い切れますか。
本物の女なら、あなたにああいう目でいつも見てもらえたんですか。わたしが女なら!」
 半助は胸元に迫って来る美人を見つめる。‥‥どれほど、どれほど怒っていようと
その美しさは人を惹きつける‥‥その上に、その瞳にうっすらと光るものがあれば‥‥。


 利吉は驚いた。
 土井の胸に抱き寄せられて。抱き締められて。‥‥口づけられて。
 突然のそれは。
 優しく、でも圧倒的な力で。
 ‥‥噛んでやる。
 そう決めていたことも飛んでしまうほどの‥‥甘く濃い口づけだった。


「‥‥ばかなことを言うものじゃない」
 土井は抱き締めた大事な人の耳元で、静かに言う。
「見た目だけで、ここまで好きになれるはずがないだろう。ここまで大事に思えるわけ
がないだろう。‥‥一緒にいる時の気持ちを、君はうまく言葉にできるか?離れている
時の気持ちを、言葉で表せるか?‥‥君のどこが好きなのか、わたしに言えというのは、
それと同じことだよ‥‥わたしには、一言で言えることじゃない‥‥」
 利吉はそっと土井の胸から顔を上げる。
「‥‥一言でなくてもいいんですけど」
 ぷっと土井が吹いた。
「‥‥君のそういうところがね、大好きなのは間違いないよ」
 なんとなくごまかされたような、でも、幸せな気分で、利吉は再び、土井に抱き締め
られていた。


「で?」
 きり丸が鍋を運んで来ながら土井にたずねる。
「あいつのどこがいいんだよ。おれ、まだ答えてもらってないんだけど」
「どこって‥‥まあ、その、一言で言えば、かわいいんだよ」
「‥‥なんか、それってすんごい、おやじくさい」
 土井が不満そうにきり丸を見返す。
「そうか?」
「そうだよ。おやじくさい。でもさ、それならさっさと利吉に言ってやればよかったじゃ
ん。かわいいって」
「うーん。言うと怒るからねえ、彼は」
「怒るの?」
「かわいいって言うとね。むちゃくちゃ怒る。わたしにかわいいと思われてるのは我慢
ならないらしい」                      ※「縛り」参照
「ふーん。怒らせたこと、あるんだ」
 ごほん、と大きく咳払いして、茶碗を並べ出す土井である。
 

 一方、こちらは利吉である。
 出掛けの、思わぬ告白と抱擁の効果は絶大で、彼の肌は輝き、瞳は星が散っている。
 ‥‥男が放っておくわけもない。
 任務遂行中のナンパ23件、セクハラ36件、暴行未遂4件の、名誉ある記録更新を
なした利吉であった‥‥。

了・・・・・ってか。

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