利子ちゃんの本当の災難
(このオハナシは「利子ちゃんの災難」をお読みになってからご覧ください) 

 

 

 利吉は驚いた。
 土井の胸に抱き寄せらて。抱き締められて。‥‥口づけられて。
 身を引く間もないほど、突然で、圧倒的な土井の動きと‥‥噛みついてやろうと思っていたのも飛んでしまうほど、あまく濃いくちづけだった。

 



「馬鹿なことを言うものじゃない」
 土井の少し怒ったような声がする。
「見た目だけでここまで好きになれるはずがないだろう。ここまで大事に思えるわけがないだろう‥‥」
 土井の声が続く。
 一緒にいて幸せなのだと、離れているとつらいのだと、大事な人なのだと、土井が言う。それが、ここ数日、自分が折りにふれて土井に持ちかけた疑問への答えであり、今、ごねた自分へのなだめなのだと利吉は思う。
 が。
 それだけ、か? 兆した嫌な感覚を利吉は追いかける。
 自分の背中に回った土井の腕。頭にすりよせられている頬。「君が好きだ」とささやく声。‥‥これはこれで嬉しいのだが‥‥なにかイヤな気がするのは‥‥。
 以前にもこういうシチュエーションはあったぞ、と利吉は記憶を探る。
 ‥‥同じだ‥‥でもその時は、自分は土井の立場だったのだ。土井の態勢で、女を抱
き、甘い言葉をかけ‥‥思い出して利吉はひやりとする。‥‥自分はあの時、その女の帯をどうやって解くかということしか考えていなかった‥‥。
 そして今の自分は、最前、土井が「綺麗だ」と見惚れた「女」なのだ‥‥。
 ぞく、と背中に走った悪寒を、今度は的確に自身への警告ととらえて、利吉は顔を上げ、なんとか話をそらそう、いや土井のペースを崩そうと試みた。
「一言でなくてもいいんですけど。きちんと話してくれませんか」
 そうだ、会話だ。土井の困るほうへ会話が流れれば。そう利吉はもくろんだのに。
 いつもなら、こうして追い詰めれば困った顔でしどろもどろになる土井は、なぜか今日に限って、利吉の言葉にぷっと小さく吹き出すという余裕で応じた。
「‥‥君のそういうところがね、大好きなのは間違いないよ」
 そして再び抱き寄せられてしまったのだ。
 ‥‥土井に抱き締められるのが、嫌な訳ではない。‥‥しかし。
 利吉は幸せに酔いそうになる自分の心を頭で叱る。
 あと少しで女を意のままにできる時、男は信じられないほどの集中力をみせるものだ。
 土井の余裕は畳み掛ける男の手管だ。
 男が抱き締める、甘い言葉で愛をささやく、女がちょっとすねてみせる、男がそれに笑顔で応じて、再び抱き締める‥‥それは利吉にも覚えがある。そう、あの時も。自分は笑い、女を抱き締め直し、そして‥‥そして‥‥。
 押し倒したのだ。
 視界に突然はいってきはじめた天井と土井の頭の一部に、利吉はかつて自分がしたことが、いままさに自分の身に起こりつつあるを悟った。
「たんま、たんま、たんまあ!」
 土井の体重を受けながら、利吉は叫び声を上げていた。

 


「たんまって、なに?」
「し、知ってるでしょう! ま、待ってくれって意味で‥‥ほが」
 土井に突然、口を塞がれて利吉の言葉は切れた。塞いだのは当然、土井の唇で、入り口を重ね合うが早いが、舌が利吉の口の中に踊り込んで来た。
 舌で舌に戯れかかる、というより、土井の舌は利吉の舌を文字通り舐めまわしてくる。表を強く擦るように舐め、裏に回ってくすぐるように這い、誘うような軽さで利吉の舌先をつついて来る。油断したところを、するりと土井の口中に吸い込まれ、思い切りよく吸い上げられて、利吉は思わず眉根を寄せた。
「‥‥い、いきなり口づけて‥‥か、噛んじゃうじゃないですか!」
 ようやく抗議の声を上げることができた時には、声が自分でも嫌になるほど甘くうるみかけている。
「いいよ‥‥君になら、噛まれても‥‥」
 返ってくる土井のささやきは、のけぞるほどに蠱惑的。
 見つめてくる土井の瞳はどこまでも優しげで‥‥『かわいいよ』と語りかけてくるようだ。土井の腕は気持ちがいいし、まるですべてを包み込んでくれるかのような瞳に、ぽわんとこの身を預けてしまいたくもなって‥‥いや、しかし、まずい!と利吉は己を叱咤する。
 わかっている、わかっているのだ。男はあと少しで女の着物を脱がせることができる時には、どれだけでも優しく振る舞えるし、どれだけでも熱のこもった眼をしてみせることができるのだ。
 つまり‥‥つまり‥‥半助は今、眼の前にいるこの自分をいただいちゃいたい、と思っているにちがいない、ということで‥‥いただいちゃう、というのは、つまり、やっちゃいたい、と思っているということで‥‥やっちゃいたい、というのは‥‥つまり‥‥つまり‥‥ああ、そうだ、あのガラの悪いきり丸のガキの言葉そのままでいけば‥‥チンチンを尻に突っ込みたいということで‥‥。
「うわあああ!」
 利吉は叫んでいた。
 自分の想像に、ではない。いつの間にやら忍んで来た土井の手が、さわっと太ももを撫で上げていったからだった。

 


「そんな叫ぶようなこと?」
 土井はまだ笑っている。
 笑って穏やかにしゃべっている分には普通だが、その手は、く、と利吉の下帯をずらし、下から利吉のものを包みこもうと動いている。ふだんは口づけだけでそこがじわりと熱を持ち、立ち上がる兆しを見せてもなんとも思わない利吉だったが、今回は‥‥土井に押し倒された態勢のまま、濃厚な口づけを受けてもよおしたのだと土井に悟られたと思うと、顔面が火を噴いた。
 まずい! と利吉は臍(ほぞ)を噛む。
 嫌がる女の股間の泉に指を潜らせ、そこに潤みを見つけ、またそれを女が恥じる素振りを見せた時、男がどれほど意を強くし、勇気百倍やる気満々欣喜雀躍無我夢中‥‥になるものなのかを知っているだけに、この失態には頭が痛くなりそうだった。
 が、実際には利吉には頭痛を感じている余裕すらなく、
「あ、こ、これはちがうんです、ちがう‥‥半助‥‥あ‥‥」
 再び土井の遠慮のない口づけを受け、下帯から引きずり出されたそこに愛撫を受けてすがるように土井の着物をつかんでいるのだった。

 


     ‥‥この人は男だ‥‥。
     利吉は感じる。女姿の自分に、土井の「男」が反応したには違いない。
     いま、土井は男として、自分の前にいる「女」を得ようとしている。その獲得の
     意志が利吉には重い。女姿の自分に欲情するなんて、と土井を非難してみても、
     本来は女のほうが好きなのだろうと土井を難詰してみても‥‥今の土井はひるま
     ないだろう。利吉の言葉など聞き流し、目の前の体を自分のものにするために、
     行動するだろう。
     この人は男だ。利吉は思う。
     それは土井の肉体の性別ではなく、利吉が初めて知った土井の中の雄。
     いつも‥‥雄性を発揮したいのは利吉のほうで‥‥いつも、しょうがないなあ、
     とそれを受け止めてくれるのが土井で‥‥だから知らなかった、土井の中にいる
     雄の存在。
     しなやかに自分を押さえ付け、その脚で自分の両脚を開かせ、やわらかな愛撫で
     自分を愛でる雄を‥‥利吉は見上げる。
     知らなかった、知らなかった、知らなかった。
 

 


     ‥‥色っぽい‥‥。
     土井は思う。年下の恋人が、これほど男の征服欲を刺激する色気を持っていたと
     は、知らなかったと。
     絹糸のように艶やかで細い髪が、床に広がり波打っている。非のうちどころのな
     いあでやかな美貌は不安と緊張にこわばっているが、土井の手の動きに早く浅い
     呼吸がその赤い唇からもれ、首筋から頬へとふわりと血の色さえのぼってくる。
     満開の花がこぼれるように開いた小袖の裾と、そこから伸びる目にしみるほどに
     白い足。
     無体に散らせてみたくなる。
     あえぎに身をくねらせさせて、みたくなる。
     こんな顔をするんだね‥‥心の中で土井は呟き、利吉を見下ろす。
     知らなかったよ。

 



 愛撫の手を、下へと滑らす。
 細い線を伝い、さらに、下へ‥‥奥へ‥‥。
 侵入を拒む菊花を土井は指の腹でぎゅっと押す。
「‥‥かたいね。‥‥でも初めてじゃないだろう?」
 土井の言葉に、利吉がカッと顔面に朱をはく。
 見下ろしながら土井は指先に力を込める。
「う‥‥」
 利吉のもらした小声とともに、指先が沈んだ。
「答えてないよ」
 沈ませた指先を、さらに奥へと進ませながら土井は言う。
「初めてじゃないだろう?」
「‥‥ち‥‥ちがいます‥‥」
「いくつの時?」
 根元まで呑ませた指で中を抉りながら、土井は重ねて聞く。
 利吉の息が荒ぐ。細くせわしい息遣いが切なげだ。
「いくつ」
 ぐっと土井の指がさらに奥へと差し入れられる。
 ひっと利吉は息をのみ、
「ご、五年生のとき‥‥」
 上ずる声で答える。
「相手は誰?」
 ほとんど隙のないそこに、二本目を差し入れながら、土井。
「‥‥あ‥‥こ、好奇心だったんです‥‥そ、それだけ‥‥」
「‥‥へえ、好奇心ねえ‥‥」
 利吉の言い訳が先に立つ答えに、土井の目が細くなった。
 指を二本ともしっかりと根元まで埋め直す。利吉が呻く。
「で‥‥その相手は?」
「‥‥‥‥」
「相手は」
「‥‥し‥‥」
 答えかけた利吉は、中に入った土井の指が突然、鉤型になった衝撃にびくりと全身を撥ねさせた。
「‥‥ばかだね‥‥」
 土井はにじみかけた利吉の涙を嘗めとりながらささやいた。
「そういうことは聞かれたからって、すぐにしゃべるものじゃない‥‥」
 荒々しく下を責めていたとは思えぬ優しい口づけ。
「相手が怒ると、ひどいことをされてしまうだろう?」
 不穏な言葉。そして、こちらも不穏に、身内に潜んだ指が動き出そうとする。
 が、利吉に腕をつかまれて、土井はその責める動きを止めた。
「‥‥たのしい、ですか‥‥?」
 利吉の思わぬ言葉に、土井は目を見張る。涙目の美女が非難を含んでこちらを見上げている。
「たのしい‥‥でしょう?」
 利吉の涙を土井は理解する。屈辱、だ。
「‥‥こんなふうに‥‥こんな‥‥遊ばれるのは‥‥」
 言葉もままならず涙する利吉を土井は抱き締めた。

 



「悪かったよ‥‥」
 土井はなめらかな髪に指を差し入れ、利吉をかき抱く。
「‥‥悪かった」
 利吉の目を、真剣な目がのぞき込んだ。
「悪かった。‥‥でも、どうしよう? わたしは君が抱きたいよ‥‥」


 

「‥‥半助‥‥」
 視線を合わせあう重さに耐えられず、利吉は両手で目を覆う。
「半助‥‥愛しています、愛して‥‥」
 覆われた目から、すっと涙がこぼれて髪の間に消えてゆく。
 好きだと思う。
 幾晩も幾晩も苦しい想いのままに躯をぶつけ、いつも‥‥いつも受け止めてもらった。
 どうして、拒めるだろう‥‥。
 幾晩も幾晩も、睦み合った、その相手がささやくのに‥‥。
「半助‥‥」
 利吉は唇をかむ。
「‥‥やさしくしてくださいね‥‥」

 


 「もちろん」と土井は答えて、ことのはじめ、確かにそれは優しさと思いやりに満ちていたけれど。
 受け入れるに慣れぬそこが、裂け、傷つき、悲鳴を上げた。
 利吉はただ、胸をあえがせ、みっともなく泣くまい、叫ぶまい、と唇を噛むばかりで。
 花のような美女が、髪を乱し、眉を寄せ、必死に耐える風情がどれほど男をそそるかと、今の利吉にわかれと言っても余裕はなかった。
 土井もまた、肩で息をしながら、利吉の頬を撫でる。
「‥‥きれいだよ‥‥」
 小さく声をかけて、また利吉をむさぼる動きを再開する。
 優しさと思いやりは繰り返され‥‥いつか‥‥自分勝手ではないけれど強引に、乱暴ではないけれど執拗に‥‥行為は繰り返された。
 利吉の紅をひいた唇が開き、短い叫びが、もれた。

 



 なんとか身を起こして乱れた襟元を押さえる利吉に、はい、と濡れた手ぬぐいが差し出された。
 振り返れば、いつもと変わらぬ穏やかな表情の土井がいる。
「‥‥‥‥」
 無言で受け取る利吉の横に、土井が座り込む。さすがに少し申し訳無さそうな顔をしている。
「拭いてあげようか」
「‥‥結構です。‥‥見ないでください!」
 覗き込んで来る土井に背中を向けて、利吉は身体をぬぐう。
 後ろから土井の声がする。
「‥‥いや‥‥悪かったね」
「‥‥‥‥」
「‥‥その‥‥前から君は抱くとどんなふうなのかなーとは思っててね‥‥」
 無視するつもりだったが、つい利吉は聞き返した。
「前から‥‥?」
 利吉の険のある視線に土井は平然と、
「うん」
 とうなづく。
「‥‥じゃあ、あなたは‥‥あなたは前から、人のことをそういう‥‥」
「人のことって、君のことだよ」
 行為の後ばかりではない脱力感が利吉を襲う。
「‥‥そうですか」
「悪かったよ。予想以上によかったんで‥‥」
「‥‥ちょっと待って下さい、半助」
 つい正面きって土井と向かい合ってしまう利吉である。
「予想ってなんですか、予想って。あなたはずっと人のことをあれやこれや想像してたんですか!」
「だから人のことじゃないよ、君のことだってば」
「‥‥半助」
 利吉は怒気を含んで名を呼ぶ。
「なに」
「これっきりですからね」
「ええ、そんなぁ‥‥」
「そんな、じゃありませんよ、ほんとに!」
「‥‥よかったのに‥‥君はよくなかった?」
「‥‥ありませんよ」
「ほんとに? 全然? ちっとも?」
 のぞきこんで来る土井の瞳に、笑いが走った。
 利吉はほの赤く染まった自分の顔に、歯がみする。
「着替えます!」
 ざっと立ち上がった利吉に土井が笑いながら声をかける。
「手伝おうか?」
「けっこうです!」
 土井の鼻先で思い切り戸を閉めた。

 



「‥‥行ってきます」
 憮然とした表情で告げる利吉に土井は手を振る。
「気をつけて行っておいで。襲われないように」
「あなた以外の男にむざ、と襲われる私ではありません!」
 言い切って返した利吉は土井の顔に浮かんだ笑いに失言を知った。
 土井の顔が言っている。
 わたしになら、むざと襲われてくれるんだね、と。
 このまま旅立つのはどうにもしゃくな利吉は、低く言わずにはいられなかった。
「‥‥半助。そういう顔をしてると、ただのスケベおやじですよ」
 が、そんな利吉の言葉など平然と聞き流している土井に、利吉は敗北の二文字を知った。

 


 出掛けの思わぬ情事に‥‥利吉の肌はしっとりと艶めき、瞳は濡れて輝いている。
 ‥‥男が放っておくわけもない。
 任務遂行中のナンパ23件、セクハラ36件、暴行未遂4件の犯人に対し、利吉は土井への言葉どおり、情け容赦なく排除と弾劾をもってのぞんだ。
 ‥‥それで、利吉の気が治まったかと言えばそうではなかったが。
 至高の恋人と思った相手が、ただのスケベおやじだった‥‥その「災難」に釣り合うなにかなどそうはない、と利吉は思った‥‥。

 

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