さくら

 

 

 

桜、桜、桜が呼ぶ。
血潮が欲しい、血潮をおくれ。
春のひととき、無限の刻へと連なるよ。
桜、桜、咲き狂う。春のひととき。


頃は桜の満開の頃。
十数日ぶりに帰って来た利吉が、戸口で言った。
「花見に行きましょう」
え、と振り返った半助は、強い違和感に捉らわれる。
‥‥これは、なんだろう。
それでも、先を行く利吉に導かれて半助も道を急ぐ。
「帰ってくる途中で見つけたんです。花見客もほとんどいなくて‥‥穴場ですよ」
ほがらかな利吉の声はいつもの通り。
‥‥でも、なんだろう。この違和感。
半助は先を行く利吉の背を見つめる。
そうだ。毎日会っていてさえ、数日振りならなおのこと、利吉は会えなかった時間の
埋め合わせとばかりに、熱く半助の身に抱きつこうとする。‥‥それなのに。
‥‥しかし、でも、それだけだろうか。
半助は感覚をさらう。何かがおかしい。ほかにも、おかしいことがある。
「あ」
思わず、半助は声を上げる。わかってみれば、なんのこともない。
「どうしました」
利吉が振り返る。
「白檀。白檀の香りだ」
「‥‥気がつきましたか」
気がついてみれば、気がつかぬほうがおかしい。
利吉の体から強く立ちのぼる、白檀の香。
「ちょっと気が向いたので、匂い袋を買ってみたんです」
「でも、それは‥‥」
半助は言いかける。
そう。忍びに香りものは禁忌だ。いくら気をつけていても、残り香が己の居場所を
敵に知らせ、命取りになりもする。
が、言いかけて、半助は言葉を飲み込んだ。知っていますよ、いいたげに、ほほ笑む
利吉の微笑があまりに透明で‥‥。
半助は言葉を飲む。


山の裾を少しまわったところに、その満開の桜の群れはあった。
「ああ、見事だなあ」
そんな感嘆の言葉が自然に出る。
どちらともなく、柔らかな青草の上に寝そべった。幾重にも幾重にも、雲のように
重なる桜の梢を下から見上げると、天地さえ消えて行くような、桜の花の雲に
吸い込まれていくような、そんな感じがする。
満開の桜の厚み、利吉のからだから匂う、白檀の香。
なにがうつつで、なにが夢幻か‥‥花に酔うたか、半助は静かに目を閉じる。
「‥‥桜の花は、いいですよね」
利吉が言った。
「ちらほら咲き初めた頃は人目もひかないのに‥‥満開になると、一度にこれほど
見事に花をつけるかと驚くほどに、どの枝もどの枝も、いっぱいの花をつけて‥‥。
小さな目立たぬ花なのに、その咲きざまで人を惹く‥‥。豪華にいちどきに花をつけ、
散る時も、一息に散る。爛漫と咲き誇り、潔く散る‥‥もののふの多くが桜の花に
己を託して歌を詠んでいますが、その気持ちはわたしにも、わかる‥‥」
謳うように、独り言のように、利吉が言う。
夢うつつ‥‥しかし、半助は薄く目を開いた。
利吉の謳うような声が続く。
「桜のように咲き誇り、潔く散ることができたなら‥‥忍びとしても、悔いはない‥‥。
父が言っていたことがあります。忍びなら‥‥死に場所を選んではならない、と。
でも、もし‥‥死に場所を選ぶことが許されるなら‥‥それは忍びにとって、この
うえない、幸運だと‥‥」
半助はたまらず、利吉の手を取った。
「死に場所を選ぶなどと、まだ若い君が言ってはいけない。咲き急ぐな、散り急ぐな。
桜のよさは誰にもわかりやすい。若い君が桜に憧れるのは無理もない。でも、咲き
続ける花にも、その良さはあるんだ。長く、長く、咲き続ける、それが素晴らしいと
わかる時が君にも来る‥‥」
「ありがとうございます、土井先生‥‥」
陰になっていても、半助には利吉がほほ笑んだのが見えた気がした。
足に、利吉のあたたかい手がある。つなぎあった手からも、ぬくみは伝わる。
半助は再び、静かに瞳を閉じる。
これが桜の魔力か。これほど、静かで満ち足りて、心かよう心持ちは、これが、桜の
魔力か。
「‥‥半助」
利吉の静かな声が、遠くから聞こえる。
「少し、眠ります」
夢うつつ‥‥今の声はうつつの声か。
しかし、なにか、なにかが、まだ、半助の中で警鐘を鳴らし続けている。
消え切らぬ違和感‥‥。なにが。
は、と半助は体を起こす。
これは‥‥白檀の香りだけじゃない‥‥これは‥‥血の‥‥。
「‥‥利吉くん‥‥?」
瞳閉じる、年下の恋人に半助は呼びかける。
あたたかい手は足の上に、からめた指は指の間に‥‥。
‥‥冷えていく、それ‥‥。


なにがうつつで、なにが夢幻か。
「利吉ぃっ!」
叫ぶ半助の声を吸い取る、桜の闇‥‥。

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