「‥‥こっちの道から帰ろう」
「えー、でも、先生。こっちのほうが近いよ?」
「うーん」土井先生は曖昧な笑みを浮かべる。
「なんか気が進まないんだ、そっちは。きり丸、一人で行くか?」
「‥‥ううん、おれもそっちから帰る」
きり丸は振り返り、行かなかった道を見やる。桜の木が連なる、その道。からっ風に、
その葉もすっかり落とされて、もう裸木が立つばかり‥‥。
土井半助は、忍術学園の教師をしている。
生徒達にも慕われ、火薬と兵法の知識には一目置かれる、忍術学園の教師だ。
‥‥そうだ、教師だ。
だから半助は、黙々とその務めを果たす。教師としての自分を、生きる‥‥。
学校にいる間は授業と生徒のことで頭がいっぱいだ。
家に帰ったら、汚れ物の片付けやテストの採点で忙しい。
ほかごとの入り込む余地など、ない。
‥‥それでいいのだ。わたしは教師なのだから。半助は思う。
教師なのだ、わたしは。
学校と生徒と、家事のことで頭をいっぱいにしているのに。
それでも、ふと。
休みの日、ひとり、家で膳を前にして。
なにかが、頭の隅をかすめていく。
‥‥なにかが、胸の一部をざわめかせる。
ふと、それを追いかけたくなる自分を、半助は戒める。
明日の、明日の支度をしよう。そうだ、明日は埋火の実習がある‥‥。
「‥‥山田先生‥‥老け込んじゃったね‥‥」
「うん‥‥まあ‥‥無理ないよな」
「‥‥ショックだよね、一人息子だったんだもん」
「‥‥うん‥‥」
「‥‥ね、きりちゃん、土井先生は平気なのかな」
「平気‥‥じゃないだろ、そりゃ」
「でも、だいぶん、立ち直ったみたいだよね、元気になったよね」
「‥‥元気って、いっちゃって、いいのかな‥‥あれ‥‥」
休みの日、ひとり、家で膳を前にして。
なにかが頭の隅をかすめる。
なにかが胸の一部をざわめかせる。
‥‥追い払おうとして‥‥
半助は軽い目眩を覚える。
それは、幻覚か、白昼夢か。
半助は見る。
箸を手に笑っている自分、
茶碗を手に誰かに
話しかけている自分‥‥。
半助が、いま座るこの場所に、
もう一人の半助がいる。
そして‥‥
そして、膳の向こう側に‥‥。
半助は頭を振る。
明日の、授業の、準備を‥‥。
家に帰るのが、こわい。
笑う自分、話しかける自分‥‥
暗く静かなだけの部屋の中で、もうひとりの自分は
いったい誰にむかっているというのか‥‥。いつも、なんと楽しげに。
‥‥ああ、ふたりとも幸せそうだ。
そう思った時から、家に帰るのが怖くなった。
幸せ‥‥それはどういう気持ちを言うのだろう‥‥ふたり、とは‥‥いったい‥‥。
そう思った途端に、全身が冷たくなった。足元にいきなりぽかりと真っ黒な穴が口を
開けたような‥‥それは、恐怖になんと似ていたことか。
幸せ、幸せだったことなどない。だれも、だれもこの家からいなくなっていない。
半助は懸命に自分に言い聞かせる。
「‥‥さんが、」
「シッ!」
授業中の生徒達の私語。
半助は板書書きの手を止めて振り返る。黒板には、打根の図解図。
「なにをしゃべってる」
問われた生徒が、言いにくそうに口にする。
「その、打根は‥‥さんの得意な武器だったなって‥‥」
生徒の声が一部だけ、小さい。え、誰だって。半助は問い返す。
「‥‥だから、その‥‥山田先生の息子さんが‥‥」
「へえ」
意外な思いで半助は声を上げる。
「山田先生に息子さんがいらっしゃったのか」
教室を、奇妙な沈黙が支配する。
「先生!さっさと授業進めて下さい!」
きり丸が大きな声を張り上げた。
幻は、いくら追いやろうとも、半助を襲う。
誰だろう。自分が笑いかけている相手は。
誰だろう‥‥話しかけてくる相手は。顔が‥‥見えない。
幻影の中で。
彼らは床を共にしている。
絡み合う四肢、狭い部屋の中を、激しい息遣いと短い言葉と、喘ぎで、満たして。
彼らは睦み合う。
男にのしかかられ、男に開かれて、肌を紅潮させている自分を、半助は呆然と
見つめる。‥‥誰に抱かれて、忘我の域で酔っているのか‥‥。
見えない。快楽を分け合っている、その相手の顔は。
それでも。熱心にひたすらに自分を求める眼だけは、見えるようで‥‥。
部屋の中が‥‥そのまなざしとふたりの荒い呼吸の音だけでいっぱいで‥‥半助は
眼を閉じ、耳を塞いだ。
‥‥俺は、教師だ、学園の‥‥。
「‥‥う、あ‥‥」
教師だ、教師だ、教師だ。
半助は繰り返す。
それだけだ、それだけだ、自分は。
なのに。幻影が迫って来る。
笑いかける自分、見つめられる自分、躯を重ねて、歓喜の声をもらす自分‥‥。
教師としてだけじゃない‥‥愛して、愛されていた、自分も‥‥いた。
半助は呻く。
口を、力いっぱいに押さえても、呻きは漏れる。
押さえていなければ、あたりかまわず、大声で叫んでいたろう。
意味のない言葉。
耐えられない。あれほどに大切な存在があり、あれほどに想われていた自分が
いたのだ、などと。あれほどに満たされて幸せな時間があったのだ、などと。
‥‥あれほどに、愛していた‥‥その存在が、今は傍らに、ないのだ、などと‥‥。
半助は体を折って、呻く。
どうして‥‥あれほどに、自分を求めて求めて、ありたけの想いをぶつけておきながら、
いなくなってしまえるのか。
不意に。
叫びが言葉になった。
「なぜ死んだっ」
ごとり。
なにかが落ちた音に半助は振り向いた。
床の上に、打根が落ちている。‥‥梁の上に隠した忍び道具の中から落ちたの
だろうか‥‥。伸ばしかけた半助の手が止まった。
長身の、若者が、かがんで、落ちた打根を拾い上げる。
「‥‥半助」
涼やかな、その声。耳に馴染む、その響き。
若者は柔らかく、笑う。整ったその面立ち、さらりと流れる茶のかった髪。
「ひどいですよ、わたしのことを忘れてしまうなんて」
あれほど、誰だ誰だと考えていた時には出て来なかった名前が、口をつく。
「‥‥利吉‥‥」
若者はひどく嬉しそうに笑った。
「ようやく思い出してくれましたか。よかった。本当はもっと早くに迎えに来た
かったのに、あなたが呼んでもくれないから‥‥」
「‥‥利吉くん‥‥」
半助は手を伸ばす。
「‥‥さわれる?君に‥‥」
「ええ。好きなだけ」
かがみこむ利吉の頬に半助は手を差し伸べる。
「‥‥ああ‥‥ほんとうに君だ‥‥。君がいなくなってしまったと思って、わたしは
‥‥」
半助の目からぽたぽたと涙が落ちた。
「君が‥‥いなく、なって‥‥わたしは‥‥」
「ええ。だから迎えに来たんです。一緒に行きましょう、半助」
そして。恋人たちは手を取り合う‥‥抱き、合う‥‥。
きり丸は立ち尽くす。
「‥‥あんた、最後まで、おれに意地悪してくんだな‥‥」
半助の胸に突き立つ打根。
冷えきったそのからだ。
青白んだその顔に、それでも見える微笑の陰。
きり丸は、ただ、涙をこらえる。
了
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