梅雨の晴れ間の、陽の光が嬉しい日だった。
野外演習場に、山田の号令が響き渡っていた。
石火矢の運搬と設置、試射の実技とあって、今日は山田と土井がそろって指導に当たっている。少し動くと汗ばむほどの陽気のなか、二年になったは組の面々が泥にまみれ、石火矢をかついで走ったり、車を引いたりしてがんばっている。
「よーし、そこ、しっかり車を固定しろよ」
「しんべヱ、座り込むな!」
山田も土井も大声を上げて指導に当たる。
その演習場に、すっとひとりの若者が現れた。
「父上」
張りのある、年の割に落ち着いた声。
山田の口元がかすかにゆるむ。
「おう、利吉か」
「仕事が終わったので寄りました」
利吉は走り回る忍たまたちを笑いながら見回す。
「懐かしいなあ、石火矢の訓練ですか。わたしもやったなあ。この訓練は決まって梅雨の間の足場が悪い時にやるんですよね、よく泥だらけになったもんです」
そして、ふと気がついたように、利吉の目が土井に止まった。
「あ。土井先生、こんにちは」
‥‥ほんの少し前まで。
利吉は誰より先に土井に声を掛けてきたのに。まるで、土井しか眼中にないように。
‥‥今でもそれは変わらぬだろうに。
利吉は土井と自分が『親しい知り合い』に過ぎぬように振る舞う余裕を身につけた。
「こんにちは。利吉君」
『親しい知り合い』に、土井もにこりと笑い返す。
その足の付け根にも、脇腹にも、二の腕の内側にも、利吉がたった二日前につけたばかりの吸い跡が、臙脂に色濃く残っている‥‥。
「父上。少し見学して行ってもいいですか」
そして利吉は少し離れた木立の陰にたたずむ。
土井の傍らを通り過ぎざま、ちらりと熱のこもった視線を投げかけて。
その目が言う。
「あなたに会いたかったんです」
それだけで赤面するほど、初心(うぶ)ではないけれど。
土井はもたつく生徒に大声で注意を飛ばした。
利吉が見ている。
もちろん、土井だけを執拗に追い続けているわけではない。不審を抱かれぬように、との配慮からだろう、その視線は父に、動き回る生徒達に、と泳ぐけれど。
土井は感じる。
利吉が見ている。
‥‥利吉の視線が、熱い。
望まれて、全裸をさらした。
「よく、見せて下さい。いいでしょう?」
利吉は言った。
「抱くのに、必死で‥‥あなたの肌を、味わうのに、必死で‥‥まだゆっくり見てないんです」
強気な口調と裏腹の、すがるような眼差しを振り切れなくて。
望まれて、全裸をさらした。
「‥‥男の裸など‥‥どこでも見られるだろう‥‥」
「あなたの裸は、あなたしか見せてくれません。あなたの裸は‥‥あなたは‥‥わたしにとって特別なんです」
熱い言葉、熱い視線。全身を嘗めていく。
「きれいだ‥‥きれいだ、土井先生は‥‥」
うわ言のように呟きながら、知らず身を引きそうになる土井の腕を捕らえて、利吉はうっとり土井の全身を眺め回し、やがて、視線ではなくその唇で、舌で土井の全身を‥‥。
ゾクん、背中を走った疼きを振り払おうと、土井は頭を振る。
だめだ。今は授業中だぞ。自分を叱る。
もう二日も前のことだ。自分に言い聞かせるのに。
‥‥まだ、たった二日しかたってない。肌が。まだ覚えている、と騒ぎ立てる。
まったく。
土井の頭は、尊敬できる年長の同僚の息子として長く付き合って来た若者の求愛を自分が受け入れ、ふたりの関係が肉欲を媒介として新しく発展していこうとしていることに慣れ切れず、人前で振る舞うときに落ち着かないというのに。
土井の肌は。
たった数度の情交に、もう利吉を慕うことを覚えたようで。
利吉が見ている。
肌が騒ぐ。
利吉が見ている。
その目は忍び装束を透かし、二日前に見た素肌を、からだの線を、見ているのだろう。
土井のからだの奥底を、なにかが蠢いていく‥‥。
利吉の愛撫は濃い。
土井のからだを自由にできる恩恵を感謝しているのだ、と言わんばかりに、土井のからだを撫で、唇でなぞり、舌で嘗めて行く。
土井が息を乱せば、その動きはより細かくなり、土井が喘げば、その動きは優しくなり、土井が啼けば、その動きは激しくなった。
土井の背中にぴたりとその胸を合わせ、うなじの髪の生え際にその唇を寄せ、利吉はささやく。
「土井先生、土井先生‥‥好きです‥‥好きです‥‥」
肌が熱くて、ささやきが熱くて‥‥土井は全身を震わせずにはいられなかった。
その愛撫と震えの記憶が。
呼び覚まされる。
青空の下。
いままさに利吉に剥かれているような。
‥‥たまらない。
土井は利吉の視線から逃げようと、背を向け、生徒の押す石火矢を積んだ車を共に押す。
それでも、感じる。
利吉の視線が、腰から足へと流れて行くのを。
まるでその手が腰から足へと滑って行くのを感じるように。
ぎゅっと土井はこぶしを固める。
手のひらに爪を食い込ませる。
‥‥なにを、考えているのだ、わたしは。
いくら自分を叱ろうと、ざわめきだしたものは、止まらない。
見えているのだろうか、利吉には。
剥き出しのからだの線が。
思い出されているのだろうか、利吉には。
合わせた肌の熱さ、頂点を目指す律動に揺れる肢体、乱れて汗ばむ肌が‥‥。
こうして、生徒を教える教師としての自分ではなく、一流の技を持つ忍びとしてでもなく、ただ‥‥床の中で喘ぎ、年下の男を受け入れるために足を開く自分を、彼は知っている。
こみあげるものを土井はこらえる。こみあげるもの、それは興奮。
彼は知っているのだ。
あの木の下に立つ彼は。
大事な同僚の息子である彼は。
生徒達にも兄のように慕われている彼は。
自分が彼の素肌を知っているように。
彼は、わたしを、わたしの痴態を知っている‥‥。
土井がざわめき出した肌と利吉の視線に、秘かにたかぶるものをこらえていた、その時。
ぎゅ、と土井の上着の裾をつかむ者がいる。
振り向いた土井は見る。
小さなこぶしで土井の裾をつかみ、唇を噛み締めたきり丸を。
‥‥いつまでだったろう。
よくきり丸は、こうして、土井の着物の裾をつかみ、大きな目にただ、不安をたたえて土井を見上げていた。
その目はいつも問いかけてくる。
「先生は、おれのそばにいる?」と。
そのたび、土井は無言でその小さな手を握り返し、瞳を見つめ返した。
「いるよ」と。
一年の終わりころから、ぱたりときり丸はその甘えた仕草をしなくなっていたのに。
いま、また。
土井は胸をつかれる。
この子は、気づいている。
「大丈夫だよ」と言ってやりたいけれど。
先程から、ひた、と据えられた横合いからの視線も熱い。
答えて肌は、またざわめく。
ぎゅ、と土井はきり丸の手を上から握り締める。
そして、視線を木の下の彼に投げかける。
今のわたしは教師だよ、と。
利吉は小さく目礼すると、するりと木の陰に姿を消した。
梅雨の晴れ間の、陽の光が嬉しい日。
野外演習場に、山田の号令が響き渡る。
‥‥深く、熱く‥‥昏い、雄弁な睦みと会話を、秘めて。
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