それは‥‥三人三様に夜の闇に覆われた時間だった。
それは‥‥半助と利吉のふたりの関係に、影のさした時間でもあった。
三人のうち、誰にとっても‥‥痛みなしに思い出すことのできない‥‥そんな時間。
*それぞれの事情――半助――*
言葉はとうにできていた。
しかしその言葉は、半助が発しようと思うと固まりになって喉元につかえてしまう。
言わねば。告げねば。その思いばかりが空回って時間ばかりが過ぎた。
「引っ越すんだ」
用意した言葉のうち半分だけがようやく出たのは、もう遅すぎるほどの時だった。
学園に戻る荷を背にしょったきり丸が、振り返った。
「‥‥引っ越すんだ」
喉の大きな塊を、なんとか半助は解きほぐそうとしながら、もう一度繰り返した。
きり丸は、無言だ。
だが、その瞳は饒舌に半助の次の言葉を待っていると、告げる。
「先生、言ってよ、ちゃんと教えてよ、わからせてよ。それでもおれが大事だって。せんせい、おれにわからせてよ」
目をそらしてはいけない、とわかっていながら、すがられる重さに耐えず、半助は目線を横に流す。
「‥‥学園の近くに、一軒屋を借りる‥‥夏休みは、そこに戻って来なさい」
「‥‥せん‥‥」
たまらない、と言うように、きり丸の足が一歩動いた。
断ち切るように半助は大きな声を出した。
「明日から四年生だ。少しは勉強にも身を入れろよ」
‥‥今、きり丸の顔を見たくない、と半助は思った。
横顔に張り付く視線の必死さだけで、十分だ。
言わねばならないことは、言ったのだ。引っ越すことも告げ、夏休みはそこに戻って来いとも言った。きり丸を捨てるわけではないことは、ちゃんと伝わったはずだ。
言わねばならないことは、言った。半助は自分に繰り返す。
‥‥ほぐしかねた塊の半分は、いつまでも半助の喉をふさいでいた。
新学期が始まって、何日目だったろうか。
今年から受け持つことになった実技の基礎鍛練の時間だった。
「先生」
と団蔵が手を上げた。
「利吉さんと一緒に住んでるって本当ですか」
返答は―――つかえていた塊の半分は、意外なほどあっさりと、口から出た。
「ああ。二人で住んだほうがなにかと安上がりだからな。同居してる」
利吉との同居にあたっては。利吉の父としての山田にも、学園の責任者である学園長にもちゃんと話を通し、その承諾を得ている。堂々としていればいい。‥‥それももちろんだったが。きり丸相手にはついに出なかった言葉が、すんなりと口をついて出ていた。
「利吉と同居している」と。
どうしてもきり丸には言えずにいた、その言葉が。口をついて出ていた。
「よおし! 準備運動を始める! 屈伸!」
それぞれに体を動かし始めた生徒達の中で。
きり丸ひとりが。
立ち尽くして半助を見ている。
怒っている。
それでも、その瞳に今にも涙があふれてきそうな気がして。
半助は目を離せなかった。
―――わかっていたろ。利吉とわたしの仲を、おまえはとうの前から知ってたろ。
一緒に暮らすために引っ越すのだと、おまえはわかっていたろ。
それが下手な強弁でしかないと、半助は自身、わかっていた。
きり丸の視線が痛い。
―――先生はおれにはなにも言わなかった。言わなかった言わなかった言わなかった。
きり丸の言葉が聞こえる。
悪かった、と言うことすらできずに、半助は顔を背けた。
それから三日たっていたか。
廊下を歩いているとすっと野村が肩を並べてきた。
怪訝に思う間もなく。
「きり丸が夜、抜け出しとりますぞ」
ひそめた声音で告げられた。
思わず見返した野村の顔は無表情だったが。
「なんとかするとおっしゃられるなら、伏せておきます」
きつく落ち度を責められている気がした。
「‥‥お、お心遣い‥‥感謝します‥‥」
半助はなんとかそれだけの言葉を返した。
調べてみれば、三日前の晩に野村が当直だったのがすぐにわかった。
それからの二晩の様子を見て、野村が告げてくれのだと察しがついた。
学年が上がるにつれて、生徒の夜間の無断外出の頻度は高くなる。そろそろ大人の仲間入りをしたい年頃に、寮生活は窮屈で物足りなくなるらしい。世間知らずでは忍びとして勤まらないから、それを咎める教師はいなかったが、無断外出はばれれば罰せられた。つまり、遊びたければばれないように教師の目をくぐれ、ということで、それもできないようならもっと精進しろ、ということなのだ。
‥‥そんな空気の中で。野村があえて耳打ちしてくれたのは。
抜け出して‥‥なにをしている、きり丸‥‥。
なにか嫌な気配のものが、半助の肌にはりついて離れなくなった。
*それぞれの事情――利吉――*
学園にほど近いその家に、利吉が初めて「帰る」日だった。
仕事と新学期の始まる時期の繰り合わせがつかず、結局今日が利吉と半助にとっては二人の新生活のスタートになる‥‥はずの日だった。
蜜月を迎える男の高ぶりと熱を胸に、夜半その家に帰った利吉を待っていたのは、しかし、しんと冷えた空気と一枚の書き置きだけだった。
乾き切った墨の跡は、半助からの不在を詫びる短い言葉。
当然のように利吉を襲った落胆に、利吉は眠れぬ夜を過ごし、夜明け前の戸を開けたてするかすかな物音に飛び起きた。
愛しい人の姿が、なかば闇に沈みながら家の中に入ってくる。
「半助」
「‥‥ああ、利吉くん‥‥悪かったね、留守にしてしまって」
そして半助が浮かべた笑顔に、利吉はぶつけたかった言葉を飲み込んだ。
げっそりとやつれた色も隠しようのない半助の笑顔は、いたいたしい。
「‥‥どう‥‥したんですか、なにか、あったんですか‥‥」
「‥‥うん‥‥君には、話しておいたほうがいいな‥‥」
そう言いながら、向かい合って座ってからも半助はなかなか口を切ろうとはしなかった。かすかにひそめられたままの眉、じっと床板に据えられた瞳、固く引き結んだ唇、握り合わせた両手までもが、利吉をはねつけているようだ。
半助のほうから距離を置かれているその感覚に、利吉はたまらず口を開いた。
「‥‥ゆうべは‥‥なにかあったんですか」
「‥‥ああ‥‥悪かったね。君が帰ってくるのはわかっていたんだが‥‥」
言いさす半助の歯切れが悪い。
「なにか‥‥急用ですか」
「‥‥うん‥‥きり丸がね‥‥」
その一言に、利吉は眦が切れ上がりそうになるのを、なんとか押さえた。
今は、まずい。きり丸に腹を立てて見せるのは、まずい。なにかが利吉に教える。
「きり丸が‥‥どうしたんですか」
「‥‥夜、学園を抜け出して‥‥」
固く握り合わせた両手で額を支えながら、半助は呻くように、告げた。
「あいつは‥‥からだを、売ってる‥‥」
野村に教えられて、きり丸が抜け出すのを確認して後をつけたと半助は言い、
「わたしが‥‥見ている前で‥‥あの子は、客と商談をつけていた‥‥」
なにをしている、と咎めた半助に、邪魔をするなと言い返したと語った。
『邪魔しないでよ』
『なにが邪魔だ! 帰るぞ』
『帰るってどこにさ。もうどこにもねえよ。おれの居場所なんてさ』
「そう‥‥あの子に言われて‥‥」
『いまさら保護者づらするな!』
「‥‥そう‥‥たたきつけられて‥‥」
歯がみするほどの悔しさを感じながら、それで捨てていけるわけもなく、きり丸の手首をつかんだと半助は続けた。
そこに割ってはいってきたのは、きり丸と話をしていた男で、酒もはいっていたらしいその男は『順番を守れ』と、半助をこづいたと言う。
「‥‥なんだか‥‥その言葉がね‥‥」
利吉にも半助のその時の気持ちはわかる気がした。「順番」それはきり丸を金で買う順番のことにちがいなく、つまりはきり丸のからだを弄ぶ順番のことにちがいなく‥‥。利吉にとっては小うるさい、邪魔なだけのガキで。生意気で憎たらしいガキで。
しかし、それでも‥‥。
身近な、小さな存在が、他人に平然と物扱いされるのは‥‥たまらない。
「‥‥言い訳だ。‥‥その隙に、逃げられた‥‥」
それでもまだ、その時まで、きり丸がその男と何をやりとりする話をしていたのか、きり丸がそれまでの数夜をどう過ごしていたのか、見たくなければ見ずにすむ余地が、多少はあったが。
その男はきり丸が逃げた後に、おまえのせいだ、と噛み付いてきた。
先おとついの晩に見かけて、小ぶりなのが物足りないかと思ったが捨て銭のような値段でついてきたので買ってみた。慣れた台詞と態度にそれが生業(なりわい)の小僧かと思ったら‥‥、と男は続けた。
『あそこはきゅんきゅんでよ、やってるうちにこっちまで血まみれよ。初物ならちった花代に色をつけてやろうかと思ったら、いらねえってよ。平気で自分の血がついてんのも咥えやがるしよ、これはいい買いもんじゃねえかと次から狙ってたのに、いっつもほかの奴に先を越されちまう。今日はようやく‥‥』
そこまで聞いて半助は、
「なんだかね‥‥かっと来て‥‥止まらなかった。‥‥まだ息はあると思うが‥‥下手をしたら、手が後ろにまわるかもしれない‥‥」
その男を半死半生になるまで殴りつけたという。
「‥‥本当なら‥‥殴られねばならないのはわたしなのに。‥‥わたしに‥‥怒る権利はない‥‥」
「なぜ‥‥なぜ、半助。きり丸はあいつは、自分の好きでやってるんでしょう! なぜ半助が‥‥」
「好き‥‥? 誰が好きでそんなマネをする‥‥? わたしのせいだ。わたしがあの子の手を離したせいだ‥‥。君とのことを‥‥正面から話しもできずに‥‥あの子を、ただ切り捨てるようなことをした‥‥わたしのせいだ」
呻いて頭をかかえてうずくまる半助を、利吉は声もなく見つめた。
それから半助は毎晩のように、きり丸を追って夜の町を駆けるようになった。
利吉と二人で暮らすはずの家には、朝方、疲労困憊して‥‥戻ってくるだけの生活になった。
こんなはずじゃなかった。利吉はいまいましく思う。
こんなふうに‥‥半助がきり丸に振り回されて、ふたりで過ごす時間もほとんど持てなくなる、そのために同居したかったんじゃない。憔悴して、どんどん自分一人の殻にこもっていくような半助を、見たかったんじゃない。
寄り添い合うために。
性をともにするだけではなく、生すら重ね合わせたいがために、一緒に暮らすことを望んだのに。
自分たちはともに「生きる」どころか、日々を「暮らす」こともままならず、さらに言えば「愛し合う」こともなくなってしまっている。
―――夜明けの薄明かりを背に、半助が帰ってくるのを待ちかねて、抱きついたことがあった。‥‥その時の半助の、低く厳しい拒絶の声に利吉は打ちのめされた。
「やめなさい」と。
そして、まるで自分が非道な仕打ちをしたかのように顔を背けられて。
「そんな気分じゃない」と。
今まで。
少々強引に迫った時でも。隣にきり丸が眠るのに、むしゃぶりついた時でも。
そんな、まるで存在そのものを拒否するような、冷たい拒絶を受けたことはなかった。
今までは。
利吉の高ぶりと挑みをたしなめながらも、その利吉の感情やその存在はちゃんと正面から受け止めてくれていた、そう思えるあたたかさと許容が半助にはあったのに。
拒否されたことが信じられなくて。いや、信じたくなくて。
なにより。二人の間に生じた距離がつらくて。
それからも、二度、利吉は半助を抱こうとし、そして拒絶された。
「‥‥なんで‥‥どうしてですか! きり丸が自棄を起こしてるからって、なんで!」
利吉は叫ばずにいられなかった。
半助は深いたてじわを刻んだ眉の下から、利吉を見る。
「‥‥そうだね。君にしたら、なぜ、ということになるんだろうな。なぜ、きり丸はそんな自棄を起こすのか、なぜ、わたしがそれを放っておけないのか。‥‥君にしたら、それはわたしたちの勝手なんだろうな‥‥」
わたしたち。そうして平然ときり丸と自分をくくりながら、利吉をはねる半助に、利吉の胸はひり、と痛んだ。
「‥‥そんな、そんなふうに‥‥思ってはいません。あなたときり丸の問題だなどと」
「‥‥わたしのせいなんだよ。きり丸があんなマネを続けるのは。‥‥わたしのせいだ。いくら‥‥君に勝手と言われようと、なぜだと言われようと。あれはわたしのせいなんだ」
利吉は叫びたかった。「じゃあ、ふたりの生活はどうなるんです! あなたと私は!」そう叫びたかった。‥‥叫ばなかったのは。答えを聞くのがこわかったからだ。
いつもなら、もっとつまらないことでなら。
「もういいです」
利吉はその一言で、半助の優柔不断と煮え切りの悪さを責め、自分の不愉快を伝えてきた。‥‥けれど、今は。
もし自分が今、「もういいです」と一言いったなら。
「そう」
と半助は一言、答えそうな気がする。
そして、これ幸いと同居を解消する気がする。
言えない。
責められない。
自分たちの生活をまるで顧みない半助に、利吉はなじる言葉ひとつ、思うように出せない。
暗い表情のまま、利吉を視界のなかに入れようともせず、朝の支度に取り掛かる半助の背を、利吉は見つめるしかなかった。
半助。半助。半助。
ただ、胸のなかで呼びかけながら。
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