焦らすということを知らない手だった。
腰の動きも、攻めるばかり、引くことを知らない単調さで。
抱き締めてくる腕もまた同じ。逃すかとばかりに必死で、その中で遊ばせるゆとりなど、露も知らぬげだった。
そのすべてを、つまらぬ一夜だったと。
切って捨てて平気だったのは、二日三日。
今、土井は一人寝の薄い布団の中で、稚拙とさえ言える抱擁の記憶に、じわりと熱くなる躯を持て余していた。
堅いばかりの、成人した男の躯を胸に抱いて、「好きです」、告げる言葉は震えていた。
「夢みたいだ……あなたが、腕の中にいる……」
愛しげに擦り寄せられる頬は、想いのたけを表すかのように熱かった。
「……言ったろ。君がしつこいから。断り続けるのも面倒だと」
ひどい言葉に、年若い求愛者は泣き笑いに似た表情を浮かべた。
「……わかってます。一度だけ、ですよね。一度だけ……」
一度でいいからと、言葉の勢いで口にしたのは自分のくせに。もう泣きが入りそうな口調に、土井はそれまでおとなしくまかせていた身を、引き離そうとした。
「一度がいやなら、一度もなしだ」
あ。
声もなく伸ばされて来た手は必死だった。
「ごめんなさい!」
抱きつかれて謝られた。
「もう言いません! 一度でいい! 今晩、一晩だけで!」
すがるような瞳に下から見つめられた。
――なんて眼だったろう。
おずおずと唇を求められた。
眼を伏せて、受け入れた。
下から重ねられた唇は柔らかくて。自分を求めるその相手が、土井より七つも年若いのだと、改めて土井に教えてくれた。そうでなくても、同僚の息子。……やはり、一度とは言え……。
土井の逡巡を唇から読み取ったか。
「先生が、好きなんです」
息がかかる近さで、告げられた。
「本当に……今夜だけでいい。……あなたを、抱きたい……」
唇が今度は上から重ねられた。
角度を変えては吸い上げられ、何度目かに舌が忍び入ってきた。
申し訳程度に舌を絡めてやると、それが嬉しかったのか、まるで踊るように舌が跳ね、土井の口蓋を舐め、舌に絡み、歯列の裏をなぞっていった。
官能を高めるための技巧など、そこにはなかったように思う。ただ、天界の美味でも味わうかのように、土井の口腔をしゃぶり、唇を舐める熱心さがあったばかりで……。
「……ふ……」
上手な口づけではなかった。……下手だったとも思わないが。
それなのに、どうして……。
土井は己の手を口元へと這い登らせる。
――唇を割って、舌が……。
記憶にある彼の動きを、指が勝手になぞる。
「あ……」
そう……こうして、頬の内側を尖った舌先が滑って……。
ぴちゃ。
己の唾液と己の指が立てる水音に、意識が引き戻された。
――なにをしている。
土井は自分に問いかける。
あんな勢いばかりの性交など、思い出してなんになる。
今までに幾多の男や女と、いやらしい夜をどれほど過ごしたか。
床上手な相手はいくらもいた。小道具や薬を使うのに、長けた相手もいた。行きずりの一夜を共にして、互いに獣になり、ただ肉の渇きを癒し合った相手もいれば、干渉は野暮と割り切りつつ、何度か情交を共にする相手もいる。
それなのに。
なぜ、あんな……。
『土井せん、せぃっ……先生ッ……』
名を呼ぶ声が耳に甦る。
抱き締めてくる、きついばかりの腕。躯をまさぐる、必死なだけの手。身を穿つ、熱いだけの……。
なぜ、攻めるばかり、焦らしも引きも知らない、稚拙な愛撫を思い出す? ……躯が、熱くなる?
「……くそっ」
毒づいて、土井は自棄のように己の下腹へと手を伸ばした。
ソコはもう下帯の中で、じわりと熱を孕んで勃ち上がりかけている。
『好き、好きです、先生……』
『ずっと……こうして触りたかった。……先生だ……先生のモノ……』
握り締めてきた手の記憶の通りに、自身を握り込む。その手触りさえ愛おしいかのように、包むように撫でさすった手を思い出す――
「は、あ……ッ」
熱い手だった。
息が、耳にかかった。
『先生……土井先生……』
上擦る声。
「うんっ……あ……」
ねちゃりと、今度は粘った水音が布団の中から聞こえてきても、土井の手は止まらなかった。
もっといやらしく弄ばれた記憶がある。もっと喘がされた記憶がある。焦らされて焦らされて、自分からねだった記憶がある。
なのに。それなのに。
『せんせっ……! あなたが好きです……っ』
ただ擦り立てるだけの手の動きが、思い出されてならない。
触られているのはこちらなのに、まるで、自分のほうが責められてでもいるかのように息が乱れていた。
「……あ、ん……」
耳朶にかかった乱れた息。思い出せば、ぞくりと背筋に快が走る。
――あの時は、ただ、刺激に反応して極めただけだったけれど。
土井の吐精を手で受け止めて、彼はそれを舐めようとした。
「汚いことはやめなさい」
土井が手に懐紙を押し付けようとすると、
「あなたの味を覚えておきたい」
真顔でそう言われた。
「そんなもの……」
「あなたにはわかってない。わたしは全部、覚えておきたいんです。あなたの匂いも、味も……あなたの唇も舌も、肌も……あなたの中も。全部」
ゆっくりと伸し掛かられた。
「あなたを抱きたくて……あなたが欲しくて……たまらない。あなたを知りたくて……」
足を抱え上げられた。押し付けられた肉棒は、その言葉通りに土井を欲して熱く猛っていた。
「先生……」
丸い先端に狭い肉の環を圧し拡げられた。
「んっ……きつ……」
思わず漏れたらしい声に、こちらのほうがよほどきついと言い返してやろうかと、その時は思うほどの余裕があったはずなのに……。
ついに。ぴっちりと、隙間もなく繋がって。
「……あ……」
苦しげに眉を寄せながら、「先生……」、かすれた声で呼びかけられた。
「熱い、です。あなたの中が……。熱くて、きつくて……気持ちいいです」
見上げた瞳が潤んでいたように見えるのは気のせいだったか。
その眼が伏せられた次の瞬間、胸になにか、あたたかなものが滴ったように感じられたのは気のせいだったか。
「先生」
上から抱きつかれた。
「……ありがとうございます……」
受け入れて下さって、と……。
単調なだけの揺さぶりだったと思う。
技巧もなにもない、抜き差しだったと思う。
なのに。
独り寝の床で、思い出すつもりでもない夜の記憶にじりじりと熱いのは、前だけではなくなっていた。
後ろが……ひくつく。
彼を思い出して、ひくつく。
「……くぅ……っ」
呻いて土井はもう片方の手を、腰の裏へと這わせる。
前をしごいた。
後ろを穿った。
つまらない一夜と切り捨てたはずの夜の記憶をなぞって、まだ青いと笑ったはずの相手の記憶をなぞって、土井の手は止まらなかった。
「りき……っ」
利吉。
その夜はついぞ呼ぶことのなかった名を呼んで、土井は果てた。己の手の中で――
「土井先生」
職員室に顔を出した山田利吉は、しかしすぐに、気まずそうに視線をそらした。
「やあ、利吉君」
いつも通りに挨拶すれば、恨みがしそうな眼差しがちらりとこちらに投げられる。
「山田先生は授業中だよ」
これもいつも通りに続けてから、土井は、「あ、そうだ」と笑顔を作った。
「次の授業で使う火薬を用意しようと思ってたんだ。手伝ってくれる?」
あたりさわりのない会話を続けて、校庭の隅にある火薬庫まで行く。
その扉を一歩入ったところで、後ろから抱きつかれた。
「すみません……!」
謝罪は本気の色だった。
「もう……会わないつもりでした! きっとあなたは、何もなかったような顔をする……つらくなるだけだって、わかってました……!
でも……」
抱く腕にぐっと力がこもった。
「わかっていても……会いたくて……あなたの顔が見たくて……」
肩口に押し付けられる額。伝わる体温。
土井は眼を閉じ、天を仰ぐ。
この青年との一夜を想って眠れぬ夜があった。独り、躯を熱くした夜があった。
快感よりも大事ななにかを分け合うことが、人はできるのだと、思い出して眠れぬ夜があった。
後ろから回っている腕をつかんだ。
「……わたしは、誠実ではないよ?」
「え?」
聞き返してくる声は無視した。
「誠実じゃないし、たぶん、君が思うほど優しくもない」
「……先生!」
くるりと躯を返された。
輝く瞳に見つめられて、土井は思わず眼を伏せる。
「土井先生」
再度、呼びかけられて視線を合わせた。
「……撤回して……いいんですね? 一夜限りと言ったこと」
――うなずけば……手に入るのだろうか、自分ひとりを求める腕も、切ないぐらいの眼差しも。すべて? 堕ちたくない。けれど、堕ちたい。
快感を分け合うだけの情交ではなく、もっと大事な、もっと熱いものを与えて与えられる交わりを……。
「先生!」
軽く揺さぶられて、観念する。
「……一夜……でなくて、いい。……ただし、試験期間だよ……」
付け足した一言は、せめてもの抵抗だった。
「先生……!」
両の腕に堅く抱き締められて、土井はもう一度眼を閉じた。
「満点合格を目指します!」
嬉しそうな声に、「馬鹿か」、返す声は甘かった。
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