契り、そして想い

 

 

追っても追っても。
逃げられてばかりいる、そんな気がする。


つかまえた、そう思えたのは、ほんの一瞬。
初めて躯を重ねた時。思いを遂げた幸せに酔っていることができたのは、
その長いようで短い時の間だけ。
利吉はその陶酔を破った土井の台詞を、今でも一字一句、覚えている。
背を向けて寝衣の乱れを直しながら、土井は言ったのだ。
「それで‥‥次の仕事の予定はいつ教えてくれる」
咄嗟には、言葉が出なかった。
「‥‥ずいぶん‥‥色気のないことをおっしゃる‥‥」
「え」
ようやく、それだけ返した自分に、土井は意外そうに振り向いたのだ。
「抱かれたら、仕事の予定を教えてくれる、そう言ったのは君だろう?」


苛立ちと怒りを、ぶつける方法をほかに思いつかなかった。
襲うように暴力的に挑んだ、二度目。
‥‥それすらも。
土間に押し倒されながら襲撃者が利吉だと知ると、
土井は怒りも嘆きもせず、ただ静かに一言もらしたのだ。
「利吉君は若いなあ」
このまま殺してやろうかと思ったのと、目の前が瞬間、まっかに染まったのを
利吉は覚えている。
交換条件の要件として利吉に抱かれ、利吉の想いすら若さゆえの性衝動で片付けてしまう土井。
からだを重ねてさえ、届かぬこの想いはなんなのか。
肌さえ合わせれば、と思い詰めていた自分が、ただ愚かなのか。
心を通わせることを、夢見る自分が、若すぎるのか。
たまらず、雨の中へ駆け出した利吉だった。

 

次に土井を訪ねた時は。季節が変わっていた。
土井はひどく喜んでくれた。
「久しぶりだなあ、心配してたんだ。さ、あがってあがって」
茶などはさんで向かい合い、
「‥‥もう、来てくれないかと思っていた」
うつむかれたりもすれば、嫌って疎遠にしていた相手ではない。
利吉の中で優しく暖かい感情が流れ出す。
「わたしも‥‥先生に会いたいと‥‥ずっと思っていました」
重ね合う唇も柔らかい。
こうして‥‥一歩一歩、近づいて行くしかないのかもしれない。
利吉は思っていた。躯を重ね合いながら、いつしか心も寄り添い合える、
と。
そう思うことで救われていたかった。


行く先の困難は承知していたつもりでも。
何度か床を共にしても、土井はことのあと、ぎこちなく布団を抜け出すと
寝衣を着てしまう。
「もう少し、ゆっくりしませんか」
ある日、利吉はそそくさと着物に袖を通している土井の背中に向けて言った。
「‥‥いや、その‥‥は、裸というのは、どうも落ち着かなくて‥‥」
言いながら振り向いた土井の目が、ふと利吉の顔で止まった。
利吉は寝床でひじをついた姿勢で寝そべっていたが、土井の視線に気づいて
髪をかきあげる手を途中で止めた。
「どうしたんですか」
「‥‥利吉君は、綺麗だなあ」
土井はまるで初めて利吉の顔を見たようなため息まじりの声をもらした。
「それはどうも」
照れもせず喜びもせず、あっさりと流す利吉はその賛辞を聞き馴れている。
「それに」
流されたことには頓着せず、土井は重ねて言う。
「肌もきめが細かくてきれいだし」
「‥‥そうですか」
「そ、そうだよ。そ、その‥‥さ、触ってもさらさらして気持ちいいよ」
「ならもっと、さわってたらいいじゃないですか。着物なんか着ないで」
土井は口の中で、そういう訳には、とかなんとかもごもご言っている。
利吉はしばらくそんな土井を見ていたが、やがて口を切った。
「馴染まぬ肌だと、言われたことがありますよ」
え、と土井は振り向く。
「受け入れることを拒む肌だと」
土井は少し首をひねる。
「どうしてだろう。ああ。そうだ、水浴びしていても、利吉君の肌は水を
弾いてしまうだろう。それで‥‥」
「理屈づけはともかく」
利吉は冷たく土井の言葉をさえぎった。
「誰がどういう状況でそういうことを言ったのか、少しは気になりませんか」
土井が答えるより早く、利吉の手が土井の腕をつかみ寄せている。そのまま、
土井は床のなかに引きずり込まれた。
「‥‥まったく」
合わせたばかりの着物の襟を強引に押し広げながら、利吉は呟く。
「どうやったら、あなたに妬いてもらえるんだか」
「り、利吉君‥‥」
土井の胸に顔を伏せながら利吉は怒った声を出した。
「床の中でくらい、呼び捨てにしてくれと言ったでしょう!」


つれない人。
追っても追っても逃げて行く。
十の思いを寄せても、首をかしげてこれは何?と聞かれてしまえば、
どうすればいい。それとも自分が多くを望み過ぎるのか?では、契りを
結ぶとはどういうことなのだ。肌を重ねる、その意味は?
「それでもやはり‥‥」
二度目の情交のあと、やはり身繕いをしに部屋を出て行く土井を見送り、
利吉は呟いた。
「あなたを殺せば、悪いのはわたし、なんでしょうか‥‥」
夜の中、利吉の問いに答える者は、誰も、いない。

 

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