土井先生。
そう自分を呼ぶ声に、特別な感情が潜んでいるのに気づかぬほど、鈍くはない。けれど。
一時(いっとき)の気の迷いだろう。きのうまで少年だった、青い想いを真剣に受け止
めては、かえって気の毒と言うものだから。
ドクタケ城から、秘伝の巻物を盗み出し、命からがら逃げのびたあとだった‥‥。
思い出して土井は、しまったよなと頭を掻く。
あわや、の急場の連続を切り抜けた神経は高ぶり醒めやらず、夜空を焦がす炎は危地を
脱した安堵を興奮にまで煽る力があった。
戦場の興奮と、場の勢いというものだろう。
口づけていた。
激しく吸いあって、舌を絡めあった。
―――不思議なほど。
気持ちのいい唇だった。
心地いい舌だった。
それは不思議なほど、土井のそれに馴染んで来て‥‥そのまま遮二無二からだを重ねて
しまいたい衝動を、なんとか土井がこらえきることが出来たのは、同僚の年若い息子と
面倒を起こしたら厄介と、自制がなんとか働いてくれたおかげだった。
それでも。
互いの身体を互いの腕で引き寄せ合って、口づけた。
それは事実なのだから。
距離を縮める好機、どう使うかと思いながら、先手先手ではぐらかした。
「‥‥では、父上、土井先生‥‥わたしはこれで‥‥」
なにやら釈然とせぬ面持ちで辞去の意を伝える青年に、
「傷は大事に」
と、ねぎらいの言葉をかけつつ、土井は笑みをかみ殺した。
詰めが甘いよ。悪いね、では、なかったことにしてもらおうか。
何ごともなかったかのような顔で。
すべて忘れてしまったかのような顔で。
「利吉くん」
そう呼び掛けた。
瞳に怒りに似たものが走り、顔がこわばった。
「もう、そう呼ぶのはやめてもらえませんか」
おや、そうくるの。それならと、にこりと笑って言ってみた。
「そうだ。もう一人前だもんな。失礼した、山田さん」
いつもと同じに、軽くはぐらかしたつもりだったけれど。
青年の顔が朱に染まった。
殴られるか、と思った。でも身体が逃げなかったところを見ると、やはり相手の動きを
予測していたのだろうか。
抱き締められた。
「え」
自分の身体が逃げずにそれを受け入れたことに、驚きの声が漏れた。
「‥‥と呼んでくれませんか」
利吉、と。はにかみがくぐもらせた声は、それでもしっかり聞こえていたが。
「え。え、今、なんて。利吉くん、なんて?」
わざとに聞き返したのがわかっていたのか。それとも、その言葉に傷ついたのか。
顔を上げると利吉は怒った目でにらんで来た。
「りき‥‥」
呼びかけの途中で、噛み付くほどの勢いで唇を奪われて。
―――なじむ‥‥。
どうしてこの子の唇は、これほど気持ちがいいのか‥‥。どうしてこの子に抱き締めら
れて、これほど自然な感じがするのか‥‥。
―――でも。駄目だよ。君は七つも年下で。山田先生の大事な一人息子で。まだ、若い。
だから。
「‥‥今度は、ちゃんと覚えていてください」
そう言われて。生徒にするのと同じに笑った。
「覚えておくよ。これからは君の半径三尺以内には近づかない」
利吉くん。それは恋じゃないよ。君はまだ若いからね、のぼせているだけ。
分別くさい訳知り顔を装いながら、恋はいつかその幕を上げている‥‥。
了
|