湯けむり紀行 <後>

 

 

  結局ふたりがかりの猛攻に耐えられるはずもなく、あえなく陥落した半助は、明日の朝早くの出立を決めて、今からでも衣装合わせをしたいと言うきり丸の頭にげんこつをくれてから、なかば逃げるように部屋を出た。
 宿の裏手へ回ったのは、ひとりで追いたい思いがあったからだ。
 沈んだものを抱えて山のほうへ抜けるつもりで通りかかった宿の裏で、半助は薪を割る宿の主人に行き会った。
 もう五十台も末だろう、日焼けした皺の深い顔にめったに感情というものが浮かばない、無口な主人だ。その体つきは山の仕事を常にしているせいだろう、がっしりとしてたくましい。‥‥それでも軽やかな身のこなしは‥‥。
 『ここの御主人は大丈夫です』と利吉はそんな紹介の仕方をした。
 もとは忍びか、と半助は見る。
 よく見知った匂いがする。
 利吉のケガの手当も確かだった。
 こちらの事情を何も尋ねては来ないが、なにもかもを含んでいるともみえるのだ。
 その、滅多には自分の方から話しかけては来ぬ主人が、薪を割る手は休めずに、ぼそりと言った。
「‥‥足音が乱れとりますよ」
 指摘に半助は、は、と歩みを止める。
「仕事にでなさるなら、“それ”は置いておかれたがよろしかろ」
 ふと話してみる気になったのは、その洞察の鋭さに甘えてみたくなったせいかもしれなかった。


「わたしは、彼より七つも年上なんです」
 そんなふうに、半助は話してみた。
「‥‥本当なら、理(ことわり)を説いてやらねばならぬほうなのに。‥‥だめなんですよ。彼に‥‥縁談があったのだと聞いただけで‥‥。本当なら喜んで彼に勧めてやらねばならぬのに‥‥娶り子を為し人としてまっとうに生きていけるように、背を押してやらねばならぬのに‥‥なのに、腹が立ち、不愉快になり‥‥わたしは‥‥自分が、彼が人として恥ずかしくない人生を歩むのが許せぬのか、と思うと‥‥情けない」
 情けない、と一言では足りぬ気がした。
「‥‥ええ、でも、情けないと思いながら‥‥そうして縁談の来る彼を‥‥わたしは、縛り付けてもおきたいのです‥‥」
 そんな自分が嫌なのです、と半助は口の中でつぶやく。
 手斧を置き、割った薪を積み上げていきながら、宿の主人は口をつぐんでいたが。
「‥‥ひどいケガでしたな」
 半助の言葉を聞いていなかったかのように、利吉の怪我についてそう言った。
「‥‥左手は‥‥きかんようになるかと思いましたわ。ざっくり手の平が骨まで切れてみえてな‥‥」
「‥‥ええ。酷いケガでしたが‥‥指もちゃんと動くようで、一安心です」
「‥‥あの坊が、連れてきおったんですよ。‥‥血まみれでしてな‥‥。切り結んだと言うとりましたな。あの左手は‥‥刀を手で受けたんでしょう‥‥」
 半助の脳裏に浮かぶ。袈裟がけに切られながらも、自分に向かう刃をその手で受けて、必死の形相で押し返そうとする利吉の姿。こみあげる痛みを、半助はこらえる。
「‥‥そういう‥‥生業(なりわい)ですわな、仕方ない」
 そうだ、確かに仕方ない。利吉も、自分も、きり丸も、己で決めてその道を進んで来た。
「そういう生業の者であれば‥‥まっとうな、人に恥ずかしくない人生と言ったところで、意味がないように思われますわ。明日が知れぬのに、誰に遠慮して生きねばならんですか」
 父祖から受け継いだ田畑を耕し、狭い村の中で一生を生きねばならぬ人々と、忍びの生き方はちがう。‥‥しかし‥‥。
 納得しきれぬ半助の心中を読んだように、また、ぼそりと宿の主人は言った。
「‥‥業(ごう)ですかな」
 ええ、と半助はうなずく。正道を知りながら、利吉に執着している、これは自分の業だろう。
「ですがな‥‥いつ落とすか知れん命なら、好きに過ごしてもみたいですわ」
 ほ、と宿の主人は口元をゆるめた。自嘲なのだろうか。半助が初めて見る、宿の主人の笑みは、どこかゆがんでいた。
「いつなり捨てられる命と思っておりながら、馬齢を重ねて生き恥をさらすこともありますわ。けれど、その恥、噛み締めるのも、刹那を生き抜いた後でよいのでは、と思いますぞ」
 欲望のままに生きて‥‥恥さらすのも、ひとつ幸せと。
 しゃべりすぎた、と言うように、宿の主人はまた、黙々と薪割り仕事に精を出す。
 ―――そうなのだろうか、と半助は思う。自分は、利吉に執着していて、よいのだろうか、と。


 利吉と、こまかなところまで打ち合わせを詰めて、さて、ときり丸は立ち上がった。
「おれは今日中に、城下に戻る」
「夕飯を早めにしてもらって、食っていけばいいだろう」
 そう言う利吉に、きり丸はにや、と笑う。
「野暮はしないよ。先生とゆっくり出来る最後の晩だろ? おれは消えてやるよ」
「そうか。そうしてくれるなら、そのほうがありがたい」
「っとにまあ、ぬけぬけと」
 よいせっときり丸は、軽くなった荷物をしょいあげながら、顔をしかめて見せる。
 妬くな妬くなと、利吉は手を振って返す。
「じゃ」
 と、出て行きかけたきり丸に、利吉は問いかける。
「おまえ、ほんとは学園に半助を呼びに行ったんだろう?」
「‥‥まあね。まさか一時は半死半生だった人が、それほど早く先生に自分で連絡つけて呼び寄せてるとは思わなかったからさ」
 利吉は穏やかな目をきり丸に向ける。
「‥‥この仕事が終わったら、少しまとまった休みをやる。乱太郎くんに連絡をつけとくんだな」
「ありがたいけど、先立つものがなけりゃ、土産も買ってってやれねえな」
「ちゃんと特別手当は出してやる」
「やり!」
 笑って親指立てたきり丸を、利吉はふと見つめた。
「‥‥うまくいってるんだろう? 乱太郎くんとは」
「‥‥もちろん」
 瞬間遅れた答えに、利吉は小さくため息を漏らす。
「早目に言えよ。おまえはすぐためこむから」
「‥‥だいじょうぶだよ」
 きり丸がそう言う時には、深く突っ込んでもかわされると利吉は知っている。
「とにかく、仕上げが先だな。こういう詰めの時には馬脚を出しやすい。気をつけろ」
「はい」
 深々と頭を下げて見せて、きり丸は部屋を出て行った。
 ―――一時は、消えてしまえと思い、殺してやりたいとも思った二人の‥‥今だった。


 宿の主人に礼を言い、次の日の朝早くに、利吉と半助は宿を発った。
 利吉は浅葱色を基調にした、りゅうとした若侍姿。
 寄り添う半助は、市女笠に顔を隠しながら背に黒髪を波打たせた、武家の婦人姿である。抑えた鈍色の小袖は、かえって初々しい新妻ぶりを引き立てていた。
 散策を兼ねながら、体力が落ちぬように気をつけていた利吉は、山道をさほどの苦も見せずに歩いた。その横を行きながら、半助の胸中は複雑だ。
 ―――仕事上の必要に迫られて、虚偽を装うとわかっていても。もし、仕官先の城へ向かう道中の利吉の隣に、祝言を上げたばかりの夫婦を装って見知らぬ女性がいたら。
 自分はやはりおもしろくないだろうと思うのだ。
 偽りとわかっていて、なお。
 本当なら。利吉が真に人生を共にしたいと願う女性が出現することを、自分は喜んでやらねばならぬのに。喜ぶどころか。
 胸の中はどす黒く染まって、恨みと怒りがあふれるだろう。
 その確信が、半助を重く沈ませる。
 知らぬうちに、ため息を重ねていたらしい。
「‥‥それほどに、いやですか」
 利吉が尋ねて来た。


「え」
 と、問い返した。
「大丈夫ですよ。あなたは十分に魅力的です。確かに、大柄ではありますが、見目悪いわけでは決してない」
 利吉の慰めと褒め言葉に、ああ、と半助は納得する。それをいやがってると思われたか、と。が。
「それはよかったよ。君とあまりに不釣り合いでは怪しまれるだろうからね」
 返した台詞の口調がきつい。自分でも思わぬ刺が含まれてしまった。
「‥‥‥‥」
 眉をひそめた利吉が歩みを止めた。
「‥‥仕事の手伝いを無理にお願いしたのは、すまなかったと思ってます」
 半助はイラ、と来たのを噛み殺そうとする。
 誰もそんなことを気にしてはいない。傷の治り切らぬ利吉の手助けを、自分が躊躇しているなどと思っているのだろうか。
「謝るのはわたしのほうじゃないのかい。この役をやりたがる女性はヤマといそうだ」
 利吉がひとつ、深呼吸をするのが胸の動きでわかった。
「‥‥あいにくと、あなたが妬いてくださるほど、もてませんよ、わたしは」
 妬いてる‥‥そうだ。架空の、いもしない女性の存在を、わたしは妬いている。嫉妬など醜いと知り、それが出来る立場でもないと知っていながら。なんと無様な。
 自嘲が、さらにきつい言葉を吐かせる。
「それは君にその気がないからだろう。その気になればすぐだよ、君なら」
「‥‥その気になれば、とおっしゃいますが、現にわたしは、すぐ隣にいるご婦人のご機嫌を損じて、どうすればいいのかもわからない。わたしにそれほどの魅力があるとおっしゃるのなら、ほほ笑みかけてはもらえませんか」
 それが利吉の、なんとか場を取り直そう、険悪な雰囲気を払おうという意図での冗談口と半助にはわかっていた。
 しかし、その「女」扱いが、どうにも癇に触る。いや、爆発せねば収まらぬ腹立ちのせいだったか。
「こんな格好をさせられた上に、君に媚を売れと言われても出来ないな。不機嫌が気にいらないなら‥‥」
 言いさした半助を、利吉のとがった声が遮った。
「帰って下さい」
 は、として見上げれば、利吉の目が怒りに光っている。
「女装を無理強いしたのは申し訳ないと思ってます。けれどわたしはあなたに媚を売ってほしいなどと‥‥そんなことを望んだことはありません。後はなんとかしますから、帰って下さい」
 そしてくるりと背を向けて、利吉は一人ですたすたと歩きだす。
 下り勾配の、木立に挟まれた細い山道はすぐに、その姿を飲み込んでしまう。
 怒りに肩の張った利吉の後ろ姿が見えなくなってから、半助は詰めていた息を吐き出した。
「‥‥なにをやっているんだ、わたしは‥‥」


 本当に。
 なにをやっているのだろう。
 まだ傷の治り切らぬ体を押して、仕事に戻らねばならない利吉の、気が立っていないはずがない。それがわかっていながら、無用に神経を荒立てるような真似をした。
 宿の主人が「置いていけ」とわざわざに忠告してくれていたのに。
 いらぬ逡巡と迷いを持って出て、このざまだ。
 半助ははあ、と息を吐き出す。
「帰れ、か」
 利吉からこれほど断固とした怒りをぶつけられたことはない。
 だからと言って。
「このまま、帰れるわけがないじゃないか」
 追うつもりだった。
 が。
 足が前に進もうとしない。
 謝ろうと思う。許してくれるだろうと思う。なのに。
 帰れ、と言われた。怒っていた。
「‥‥こわいのか、わたしは」
 それはとりもなおさず、利吉の存在の大きさなのだ。
「‥‥利吉‥‥」
 切られる、と思うとそれだけで、これだけすくむ。
 それなのに、正道に向かって君の背を押す? なにを出来もしないことを、わたしは悩んでいたのだろう。
「追え。半助」
 小さく、自分に命令する。
 中途半端の半、か。言えてるな。でも、今は、君を追おう。
 半助は歩み出す。


 すぐに追いつけるつもりだったが、旅姿とは言え女装はやはり歩きにくい。
 ずいぶんと距離を行っても、利吉の姿は見えて来なかった。
 早く、と気はせきながら足を止めたのは、道の傍に湧き水を見つけたからだ。
 喉を潤してから行くか。
 手を差し入れてみて驚いた。
 熱い。
 昨日までつかっていた温泉と同じ源から湧いているのだと、鼻をきかせてみてわかった。‥‥同じ、匂いがする。
 きのうまで‥‥利吉と戯れながらはいった湯と同じ‥‥。
 また、君とあの温泉につかりに行こうか‥‥。
 ‥‥また、湯の中で、君と睦みあおうか‥‥。
 その、淫楽の思い出が、隙を作った。
 半助は後ろから回った腕に、脇道に引き込まれた。


 身構えることもしなかったのは、口を押さえた手があまりに馴染み深いものだったからだ。
「‥‥こんなところでぼおっとしていたら、山賊にさらわれてしまいますよ」
 肩口から、声がする。
「‥‥わたしをさらう物好きは、君ぐらいだ」
 笑いながら半助は返す。
「あなたは、本当に、自分の魅力をわかっていない」
 後ろから利吉に抱きすくめられたまま、半助は利吉の手を握る。
「‥‥あなたと、喧嘩するのは、いやです」
 顔を、半助のうなじにすりつけながら、利吉が言う。
「‥‥とても、とても、いやな気分です‥‥」
「うん。わたしもだ」
 回った利吉の腕が、少しゆるんだ。
「じゃあ、仲直りできます?」
「‥‥君が、わたしが謝るのを聞き入れてくれるなら」
 くるりと、半助の体が回った。
「それでもう十分です。これで、仲直りですよね」
 あい向かい合った利吉を半助は見上げる。
「‥‥うん。‥‥刹那を生き抜いて、生き恥さらすことにするよ‥‥」
 利吉の瞳が深い色をたたえた。
「‥‥あなたに、わかってほしいと思うのは‥‥あなたがどれほど魅力的かということと‥‥あなたと共に生き抜くのでなければ、わたしの生は意味などない、ということ」
 利吉はじっと半助を見つめる。
「わたしには、あなただけなんです、半助」
 半助はうなづく。
「難しいけれど‥‥少しだけ、自覚しておく‥‥」
「そんなこと言わずに、たくさん、自覚して下さい。お願いです」
 笑いに、口づけがかぶさった。




「‥‥いや、だ、だけど、その‥‥仕事が‥‥急いで‥‥」
「ええ、だから、急ぎますよ?」
「いや、だから、そういうことじゃなくて‥‥」
「急ぐんでしょう? 協力してくださいね」
「きょ、協力ってね‥‥ア!」
 

 


 紅が、うつるよ‥‥小袖が汚れる‥‥ああ、髪も、乱れてしまうよ‥‥
 半助‥‥好きです、好きです‥‥そう、その木に抱きついて‥‥足を、もう少し、広げて‥‥もっと‥‥
 だ、めだって‥‥利吉‥‥あ、きしむ‥‥
 がまんして‥‥腰を‥‥そう、あ、あ、あなたの中は、やっぱり、熱い‥‥
 ‥‥り、きちぃ‥‥
 ‥‥はんすけ‥‥

 



    この仕事が終わったら、またあの宿へ泊まりに行きませんか?
    あの露天風呂でひとふろ浴びて。
    ねえ、半助。

                                             了

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