東の家のリビングボードは、一番目立つ棚の中央がぽっかり空いている。目の高さで、一番上下も広い段の中央が、ぽっかり空いている。
いつか、なにか特別なものを入れるために空けてあるのかなって、ぼくは思ってた。
ぽかりとあいた、その空間。
だけど、ぼくが東の家に遊びに行くようになって一年近くたった、梅雨のある日、その空間が埋まってた。ブックスタイルのフォトスタンドが、今までぽっかりあいていたその場所に立ってたんだ。
ぼくの目は、リビングに入った瞬間にその写真に吸い寄せられた。
「……これ、誰?」
平気そうに聞こえるようにしゃべるのは、むずかしかった。
「あ!」
東が珍しくもかなりはっきりと、うろたえた。
……っていうことは……やっぱり?
「よく、わからないけど……美人そうな人だよね」
ぼくはそれでも平静を装う。
「こ、これは……」
東がとっても不自然に言い淀む。
「だれ?」
ぼくはもう一度、聞いた。
開いた写真の一枚には、詰襟の制服を思いっ切りデフォルメして刺繍やらエンブレムやらを所狭しと付けたような服を着た、髪の毛まっかっか、素顔が想像もできないほどキツイ化粧(目の上はきつい紫色と茶色で塗られ、唇は真っ黒だった)の女の人が、こっちをにらみつけてるアップ。もう一枚は、どっか高速みたいな道路で、たくさんのバイクが停まってる中央で、一台のバイクの上に仁王立って拳を振り上げている、その女(ひと)だった。バイクの中には、旗みたいなものを後部に突き立ててるものが多かった。
「だれ?」
まちがいないと思った。ぼくが東に聞いたのは、ただそれを確認したかったから。
東の彼女だ。――昔のか、今のか、それはわからないけど。
「これは……」
東は言いにくそうに口を開いた。
「……俺の、おふくろ……」
ぼくはくるりと踵を返した。
「お、おいっ!?」
慌ててぼくの腕をつかもうとした東の腕を振り払った。
怒りを込めて、だけど、静かに言い放つ。
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をついたら? 人を騙す時の、最低限の礼儀だろ」
東の言い訳なんかもう聞きたくなかったから、ぼくはそのまままっすぐに玄関に逆戻り。
「お、おい、まだ来たばっか……」
引き止めようとするのを無視して靴をはいていたら、
「なあ……今日こそお初って話は……」
東が情けない声で言ってくる。
ぼくはドアを開けながら振り返ってしっかりと宣言する。
「延期。無期延期!」
* * * * * * *
なんでホントのこと答えてんのに、聞いてもらえねんだよ。
そう思ってから、しかし、秀に本気にしてもらえなくてよかったと思う俺がいる。
……ったくよお……。
俺は一人、しおしおとリビングに戻る。
「……どうしてくれんだよ……」
写真に向かって力なく呟く。
目張りバリバリの目がふっと笑ったような気がする。
笑ってんのか? 笑ってんのか!? そうなのか!?
これは、一年間、秀が来るたび、引き出しの中にしまわれた、その仕返しか、かあちゃんよ?
はあ。
痛恨。
久しぶりに帰って来たオヤジに俺は噛み付いた。
「なんで一番目立つところにこの写真なんだよ!」
「え?」
会社ではもうここ数年、連続して「ナイスミドル賞」をもらってるという、適度にしぶく、適度に二枚目で、適度に甘いマスクの、俺の親父は、目を丸くする。
「何度も言ってんだろ! 人目につくとこに、こんな写真置いてんのは恥ずかしいって!」
俺ががなってる間にも、親父は写真に歩み寄ると、
「美保、ただいま」
語尾にハートマークを飛ばして写真にチュ……って、やめろよ! クソ親父!!
「人の話聞けよ、オラァッ!!」
思わず親父を蹴り上げるマネをした俺に、振り返った親父は笑みをたたえる。
「ほんとに洋平はおかあさん似だなあ。そうやって大声出して怒ってると、美保に怒鳴られてるみたいだ」
どっと脱力しそうになるのを俺はこらえる。
ダメだ。ここでこいつのペースにはまったら、いつもの通り、話になんかなりゃしねえ。
「……いいか。親父。ふつーの神経で話そうぜ? 親父がおふくろを好きだったのはわかる。今でも大事に思ってんのもわかる。ちゃーんと写真を飾って置きたいってのも、わかるぜ?
それはわかるけどさ、この写真はねえだろーよ? この服、特攻服だろ? これ、ゾクの集会だろ? な? こーゆー写真はさ、死んだ人の恥をさらすようなもんじゃないか。おふくろだって……」
「洋平はわかってないなあ」
親父はにこやかに笑う。
「美保はチームのみんなと走ってるときが一番楽しかったと、いつも言ってたじゃないか? ほら。この写真を見てごらん。……美保、とっても輝いて、楽しそうだろう?」
……頭痛がしてきた。
そんなケバケバな化粧で、こっち三白眼でにらんでる顔の、どこが楽しそうに見えるのか。
「かあさんの写真なら、ほかにもあるだろ。それだって十分、かあさんは楽しそうだしキラキラしてると思うぜ、俺は。息子の目から見てもよ」
「それは洋平が実際に走ったり闘ったりするおかあさんの姿を見てないからだよ。……カッコよかったんだよ、美保は……」
親父の目線が俺の斜め上をよぎって、器用に時空すら超えて、最愛の人・美保の生前の姿を追い出す。
う。本気で目眩がする。
暴走族でぶいぶいゆわしてる親の姿なんか、見たい子どもがいるのか、え?
「……わかった。百歩譲って、これがかあさんがいっちばん、いい時の姿だとして、だ。俺にだって俺のメンツってもんがあるんだ。俺は母親のこんな姿を友達に見られたくない!」
断固として言い渡してんのに、親父はますます嬉しそうに笑い出す。
「そうそう! メンツ! 美保もよく言ってたもんだよ、『メンツつぶれた、このままにはしておけない』って。ほんとに洋平はおかあさんに似て……」
もういい……。
俺は何十回目の、この写真をめぐる親父との攻防に疲れ果て、またも白旗を掲げた。
俺が小学校4年の時に28の若さで病気で亡くなったかあさんは、美人で明るい、ちょっと問題はあっても、いい母親だった。俺にとっては。
けど、俺が幼稚園の頃なんかは、週末の夜は家にいたためしがなかったらしい。
俺が母親のことを正確に理解できたのは中学に入ってからだけど。俺の母親はいわゆる「暴走族」のメンバーで、中でも、「斬り込み隊長」をしてたらしい。一口に暴走族と言っても、爆音上げて街中を集団で走るのが楽しいのが集まってるのもあれば、ただただ、マシンとの一体感を楽しむために暴走するメンバーが集まったものもあれば、走りよりも族同士の戦闘が楽しくてツルんでるヤツらもいる。
俺の母親が入っていたのは、「喧嘩上等」、かなり好戦的なレディース(女ばっかりの暴走族のことだ)だったって聞く。
親父が嬉しそうに、部屋で一番目立つ場所に置いてる写真は、今まさに殴りこみに行く前の、戦闘服に身を包んで気合入ってる顔のアップと、集会でチームに檄飛ばしてる場面。どっちも人様に喜んで見せるものじゃないんじゃないかと俺は思う。……ああ、頭いてえ。
――まあ、そうは言ってもな。
俺は、暴走族で暴れてたって母親も、今でもその母親にベタ惚れな父親も、決して嫌いじゃない。
この親だから救われたってこともある。
数ヶ月前のことだ。
俺の大事な秀は、片思いの揚げ句に暴走した元・同級生にレイプされた。そのショックからだろう、秀は俺にさえ、触れられるのを避けるようになって……。
なんでだよって、大声で誰彼かまわずぶん殴ってやりたいぐらい、俺は腹が立った。なんで秀がこんな目に合うんだよ、なんで秀が俺まで避けるんだよ、なんでだよ、なんで……!
ぎりぎり。
俺はその腹立ちまぎれの言葉を秀にぶつけるのだけはこらえた。
誰より傷ついてる秀をなじるようなマネだけは、したくなかったから。俺にしたら、ホント、ありったけの男の意地で、避けられたことなんかなんでもないって顔をした。大丈夫、これくらい、俺はなんとも思ってないから。そうアピールしたくて、俺は俺の精一杯で平気を装った。
ところが。俺のギリギリの意地にも関わらず……秀は俺を避け続けた。学校は出て来ないわ、話にも応じてくれないわ。
つらかったなあ……。
秀には今でもナイショにしてるけど。
夜中に秀の家の前で、じいっと立ちんぼしてたこともある。
おまえ、このまま俺とのことも終わらせたいのか? 不安で、不安で。確かめたくて、でも、怖くて。
はい。正直に言います。余裕なんか全然ありませんでした。
その俺の不安と怒りは捌け口がないまま、まっすぐ、秀を傷つけた張本人である山岡に向かった。
……殺してやる、あの野郎。
押さえようのない感情が、そこまで煮詰まるのはかんたんだった。
仲間に車を借りて、轢いてやろうかと思った。
それとも、ナイフを持って刺しに行こうか。
薬代のためならなんでもするようなヤツらをけしかけようか。
人の手を借りるのは卑怯か? なら、通り魔を装って、俺が刺してやる。
そこまで思い詰めて、今まさに、俺が復讐を実行にうつそうとしていた時だった。
珍しく早い時間に、ひょっこり親父が帰って来た。
「俺、今から出るから」
族で走ってた女を女房にしてた親父に、今まで俺は夜遊びを咎められたことはなかった。けど。その時は。
「どこに行くんだ?」
親父に訊かれた。
「どこだっていいだろ。ダチと約束があんだよ」
つっけんどんに返した俺に、
「洋平はそのお友達と、どこかに殴り込みに行く約束でもあるのかな」
親父はあくまで静かにそう訊いてきた。
とっさに返答に窮した俺に、親父はやっぱりそうかと笑った。
「美保が喧嘩に行くときと同じ顔をしているから」
と。
「洋平」
親父が言った。
「喧嘩は褒められたことじゃないけれどね、でも、君のメンツがかかった喧嘩だと言うなら、とうさんは止めない。行きなさい。たとえ、警察に君を迎えに行くことになっても、わたしはちゃんと君の味方だ」
「…………」
俺が黙っていると、親父は俺の顔をのぞきこんできた。
「洋平。これは君のメンツのかかった喧嘩なんだね?」
親父にそう念を押されて……俺は言いよどんだ。
「俺も…かかってるし、俺の…大事なヤツが……」
そしたら、初めて親父の眉間にきゅっとシワが寄った。
「……洋平。その君の大事な人というのは、女性? 男性?」
「男…」
答えた俺に、親父は正面から向き合ってきた。ゆっくりと首を横に振る。
「じゃあ、君は行っちゃいけない。それは君の友達の喧嘩だ。君が出て行くべきじゃない」
「でも…!」
反論を試みた俺に、親父はらしくない厳格な顔を作ると、もう一度、首を横に振った。
「君が出て行ったら、君は君の友人のメンツをつぶすことになる。お友達の男としてのメンツを、君は潰したいのか?」
ぐうの音も出ない俺に、親父は続けた。
「美保によく言われたんだ。おまえ男だろ、情けないこと言ってんじゃねえよって。とうさんは弱虫で、何度もかあさんに助けられたけど、最後の最後に、美保はとうさんに、頼むって言ってくれたんだ。あなたがいるから、安心だって」
それはかあさんの最期の言葉。
『後を頼みます』って。『あなたがいるから、洋平を残していける』って。
「……あの言葉で、とうさんは男になれたんだと思ってる」
そうは言っても、アンタ、かあさんが死んだ後、絶対俺よりたくさん泣いたよなっていうツッコミは、この際我慢する。
「君も男なら、お友達の男のメンツの立て方も、きちんと考えてあげなさい」
俺はもう、うなだれるしかなかった。
俺一人だったら、絶対あの時暴走して、結果、秀の傷を余計に広げていただけだったろう。
ムチャな親だよなあって思うし、頼むから『美保〜美保〜』って写真に頬ずりするのはやめてほしいと思うけれど。ここ一番、乗るか反るかって時に話のできる親でいてくれて、よかったと思う。
……しかし、まあ……なんつーか、親父な……限りなくビミョーな人ではあるよな……。
おふくろと親父の馴れ初めっていうのが、街でヤンキーに絡まれてた大学生だった親父を、当時まだ高校生だったおふくろが助けたってやつで。ふつー、はっきり逆じゃん。
親父にしたら、おふくろは「ヒロイン」じゃなくて「ヒーロー」だったんだと思う。だから、俺が中学頃から、夜遊びを重ねるようになっても、あまり素行のよろしくないオトモダチと付き合うようになっても、親父はにこにこと笑っていた。「やっぱりカエルの子はカエルだねえ」ってさ。
喜ぶなよ、親父。
最近さ……そういう親父の、なんつーか、ちょっと世間とズレてるっつーか、「アンタ、ほんとにわかってる?」って聞きたくなる感じっていうのが、誰かに似てる誰かに似てると思ってて……。
ぱっと見は、けっこうイケてる二枚目で。マジメそうで、清潔感があって、好感度高そうなタイプで。なのに、付き合ってると「おまえ、わかってる?」って聞き返したくなるような、鈍感さつーか、天然ぶりっつーか……そういうのが誰かに似てる誰かに似てると考えて……。
あーそうかって、思わず声が出た。
秀だ。
親父、秀に似てんだ。
……あ? ……いや……この場合、順序、逆……?
気が付いた時には、さあっと血の気が引いたぜ。
俺って、もしかして、ファザ……。
これ以上は考えたくない。
* * * * * * *
駅でばったり、東のおとうさんに会った。
東のおとうさんは大手の商社に勤めてて、いつも上質のスーツをぴしっと着こなしている。物腰はすごく柔らかくて、ぼくなんかにも、
「いつも洋平が親しくさせてもらって、ありがとう」
とか、笑って言ってくれる。
親しくって言っても……いっつも東と東の家でやってることを思い出して、ぼくは赤面しちゃうんだけど。
ホームに下りて行きながら、東のおとうさんに、
「秀君、よかったら、うちに寄って行きませんか」
と誘われた。
一週間前、東につまんない嘘をつかれて以来、東からは何度かメールや電話が入ったけど、ぼくはほとんど返事をしてなかった。だってさ……あんな、すぐにバレるような嘘……。
「今日はケータリングでディナーを取ろうと思ってるんです。洋平と二人じゃあつまらないから、秀君もいらっしゃい。そのほうがおいしい」
にっこり、そう誘ってもらって。
……行こうか。
気持ちが揺らいだ。実を言えば、仲直りのきっかけが欲しかったりはしたから。
「お、お邪魔じゃないでしょうか……?」
恐る恐る尋ねたら、
「とんでもない」
素敵な笑顔が返って来た。
ドアを開けてくれた東が、おじさんの後ろに立ってるぼくを見てぱっと輝いた。
「秀!」
「…ども」
駅で偶然会ってね、夕飯に招待したんだ、説明するおじさんの陰でぼくは東のきらきら視線を避ける。
そのままリビングに入ったら……おじさんはすっとリビングボードに歩み寄って……
「ただいま、美保」
例の写真に話しかけた。
え。
ぼくは慌てて東を振り返る。
東は『だから言ったろ』って顔で肩をすくめる。
そ、そうか……おじさんの奥さんって……そうなのか。
新鮮なショックというか、意外な思いというか。
おいしく夕食をいただいて、東の部屋に引っ込むと、東が、
「だから言ったろ」
って、腕を首に回してきて。
「うん、んーっ……」
ディープなキス。
唇を割り、歯列をなぞり、舌に絡み、口の中を蹂躙していく、熱い東の舌。
「…ん……ん…」
ぼくの口の中で暴れまわる、よく動く、熱い肉塊に、ぼくは簡単に引きずられる。
じゅ……。
口の端から垂れかかった唾液を柔らかな唇がすすっていく、いやらしい音。
ぞくん。
背筋に、快感の最初の兆しが走り、膝の力が抜けかける。
「だ…やめ……東っ!」
ぼくはひそめた声で、東に待ったをかける。
「お、おじさんがいるのに……っ! だめだよっ、今日はこれ以上っ……!」
一生懸命、東の胸に腕を突っ張って遠ざけようとするのは、それだけ東がぼくにとって魅力的だからだ。ドア一枚隔てた向こうに、東のおとうさんがいるとわかっていてなお、ぼくは東のキスに溺れそうで……。
「……じゃあさ、明日は?」
名残惜しげに、額をぐりぐりと押付けてきながら、東がささやく。
「明日もウチに来るなら、今日はもう勘弁してやる」
傲慢な甘い囁きに、
「来る、来るから……っ!」
ぼくはそう答えるのに。
「…………」
東の唇はぼくの耳朶を食み、首筋を滑り出す。
「……あ……」
上がり掛けた嬌声をぼくはすんでのところで噛み殺し、思い切り東の背中を叩いた。
「で、でも」
なんとか東との間に一定の距離をキープして、ぼくはようやく落ち着く。
「あの写真、ほんとに東のおかあさんだったんだね、ごめん」
「あー…まあ、それは」
東は歯切れ悪く、別にいいからとごにょごにょ言う。
「素敵だよね。奥さんのこと、おじさん、今でもすごく大事なんだね」
ぼくがそう言うと、東はちょっと眉間にしわを寄せた。
「……大事っつーか、一途っつーか、おやじはバカだっつーか……」
「えー、そんな言い方ないよぉ、素敵だよ、おじさん」
「……そうか?」
「うん。ぼくもおじさんみたいに、素敵に年をとれたらいいなあって思う」
なんの気なしにそう言ったら。
「大丈夫だ、おまえには素質がある」
東に断言された。
喜んで、いいのかな?
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