いつか、抱き合えるのだと思っていた。
出会いは中一。同じ部に入って、すぐに仲良くなったよな。俺はおまえといると楽しかった。おまえといるのが、好きだった。
おまえといる時に身を満たす、温かく甘酸っぱいものが「恋」と名づけられるものだと気づいたのは、中二になってからだったけれど。
気づいた時には、もう。
おまえは他の男を見ていた。単なる同級生のはずのそいつに話しかけられたおまえは、うっすら頬を染めていた。
瞬間に胸が焦げるかと思った。
悔しくて、妬ましくて。
おまえに、俺に向かってそんな顔をしてほしかった。おまえに、俺こそがそんな目で見つめられたかった。
それからだ。俺は何度もおまえの後ろ姿に問いかけた。
どれほど優しくすればいい? どれほど近くにいればいい? ――どれほど、待てばいい?
どうしたら……友人から、一歩進める? 俺は何度もおまえの後ろ姿に問いかけた。
俺じゃない、他の男を目で追うおまえを、俺は見ていた。ずっと見ていた。
それでも。
いつか、いつかいつかいつか。
抱き合えるのだと思っていた。
こうして、一番近くにいれば。一番親しくしていれば。
いつか。
おまえが俺を受け入れてくれる時がくると、思っていた。
「気楽に付き合える友達関係が一番いいよね」
おまえのそのセリフは俺に対する牽制だと思ったけれど。それでも、いつか、いつか、いつか。
野球部のユニフォーム姿のあいつを追っていたのと同じ目で、俺のことを見てくれるようになるかもしれないと。俺に向かってはにかんだように笑ってくれるようになるかもしれないと。
俺は思っていた。待って、いた。
初めて焦る気持ちになったのは。
高校も3年になってから。
卒業する前に、なんとか形にしたいと思った。
「秀。インハイの地区予選が終わったら、おまえに話が……」
あるんだと、告げようとした。
「たーかーはーし!」
覚えてる。屋上の、階段口の横だった。
「地区予選が終わったら、おまえに話が……」
さえぎっておまえを呼ぶ声がした。ひょっこりのぞいた褪せた金色の頭。
「おまえ、5限目、当番だろ?」
「あー忘れてた、ごめん」
おまえは慌てて階段を下りて行った。
「…………」
「…………」
気が付いてなかったろう? おまえの背後で、俺はおまえを呼びに来たそいつと、しばらく睨みあっていたんだよ。
ニヤ、そいつは笑った。
「……わり。なんか大事な話だった?」
「……いや。いつでも出来る話だから」
俺たちが短くそんな会話を交わしたのを、おまえは気づいてないだろう。
最後の試合が終わった後。
そいつはまた、おまえを呼びに来た。……俺の前から、おまえをさらった。
早い者勝ちだと言うなら、負けないと思った。
どれほど長い間待ったかで決まるなら、負けないと思った。
だけど。
おまえは俺を突き放し、あいつの手を取った。
なんでだ? 俺はどこで間違えた?
ずっとおまえの近くにいた。おまえだけを見てきた。おまえが俺を見てくれることだけを願ってきた。
おまえだって知ってたはずだ。俺がどういう気持ちでおまえを見ていたか。俺がおまえをどう思っていたのか。おまえは、知っていたはずだ。
だから、ただ、俺は時を待ちさえすればいいのだと……。おまえが、親しい友人としてよりも、もっと大事な存在として、俺を迎え入れてくれる気持ちになってくれるまで。俺はただ……どれほどそれが苦しくても、待っているしかないのだと……。
なのに。
あいつはおまえに手を伸ばし、おまえはあいつの手を取った。
なんでだ?
いつの間に?
「大輔……ごめん」
遅れて、部室を出た。校庭の端で、抱き合っているおまえたちが見えた。唇を重ねている、おまえたちが見えた。
それまでの、どんな胸の痛みより、ひどい痛みだった。
ずっと夢に見ていた。抱き合える日を。ずっと夢見ていた。この腕の中にいるおまえを。
なんでだ?
なぜ……俺じゃない? いつもいつもいつも。おまえは俺を、見てくれない……?
なぜ……おまえはそいつの腕の中にいる……?
問えば問うほど、痛みは増した。
おまえたちは同じ大学に進学したと聞いた。
やっぱりそういうことなのかと思った。
見ていただけ、待っていただけの自分の愚かさに、笑いしか出なかった。
嘘に聞こえるかもしれない。
でも俺は、自分の愚かさをおまえに償わせようなんて、思ったことはなかった。
俺の傍らにおまえがいない。それは……俺がきっと何かを読み間違えていたせいなんだろう。どこかでやり方を間違えていたせいなんだろう。仕方ないと、俺は諦めていたよ。どれほど悔しくても、腹立たしくても。誰を責めることもできないのだと、思っていたよ。
おまえを傷つけたいなんて、本当だ、思っても、いなかった。
――だけど。
酒を飲んで、うっすら頬を染めて、仲間たちと笑い合ってるおまえは可愛かった。
酔いが回ったのか、とろんと目を潤ませて、ソファにもたれかかってるおまえは、可愛かった。
「あーあ、高橋、寝ちゃってるよ。どうする?」
「うわー、これ、本気で寝てるよー」
誓って言う。その時の俺に、おまえを傷つける意図はなかった。
「もうしばらく寝かせておくか? 起きるまで俺がついてるよ」
そう言ったのに、不穏な思惑はなかった。
「山岡がついてんなら、いっかー」
「じゃあ、もし来れたら駅前の居酒屋な。先、行ってるぞ」
みんなが去って、しんとした部屋で。
そうだな、俺は一人で歌ってでもいればよかったんだよな。
おまえは眠ってた。
俺はつい、おまえの眠るソファの傍らに膝をついた。
可愛い寝顔だったよ。綺麗で……可愛くて……。
気が付いたら手が伸びていた。
そっと……そっと、頬を撫でた。
なめらかで……柔らかくて……。
俺は、ずっと、ずっとずっと、こんなふうにおまえに触れたかったんだ。おまえに口付けて、抱き締めて、おまえの全部を、俺のものにしたかったんだ。
頬を撫で、髪を撫でた。
我慢、できなくて、口付けた。
「……あず……」
おまえの口から、吐息とともに零れた名前。
息が詰まったよ。
そうか、と思った。おまえは、東と、こういうことをしているのか、と。
俺が触れたかった頬に東は触れ、俺が抱き締めたかった躯を抱き締め、俺がキスしたかった唇に東はキスしているのかと。
「……ふ……」
タメ息のような、吐息のような。名を呼ぶとも見え、喘ぐとも見えた。
……おまえは、なにを夢見ていた?
東に抱かれて喘ぐ夢?
東に抱かれて、おまえは喘ぐのか? いい、と腰を振るのか?
躯も、頭も、煮えるように熱くなった。
おまえの全てを見たかったのは、俺なのに。おまえの全てがほしかったのは、俺なのに。――ずっとずっと、待っていたのに。
なぜ東だ? なぜ俺じゃない? あんな……横からいきなり現れて……。
東に見せているなら、いいだろう?
東にヤラセているなら、いいだろう?
勝手な理屈と怒りは言い訳かもしれない。俺はただ……東がしているように……おまえに触れたかったんだ。
おまえのすべてが、欲しかった。
ぐったりと血の気のない顔で動かないおまえと、ソファを汚す鮮やかな血だまり。
取り返しのつかないことをしたと、初めて、知った。
ただ、おまえを傷つけた。
俺は自分の卑劣さを噛み締める。
いつか、抱き合えるのだと……いつか……。
そんな日は、もう、来ない。
了
|