江戸恋唄―天狗小僧―







 

 将軍様のお膝元、花のお江戸で、近頃、巷の噂となっているのは……遠く上方の地からやってきた近松の歌舞伎芝居に、夜の闇にまぎれては大店ばかりを狙う蔵破り。
 この蔵破り、忍者のような黒装束に身を包み、塀の上、屋根の上をひらりひらりと飛び移り追っ手方を振り切っては、盗んできた金銀小判を生活に窮した者達のあばら屋に落して行くというので、盗人ではありながら市中の人気は大したものだ。
 盗みに入る先も、地道にまじめな商売を行って財をなした店は外して、冷酷非情な高利貸しや袖の下を使ってはお役人に取り入ったと噂の商家ばかりとあって、市井の人々は親しみを込めて、その蔵破りを天狗小僧と仇名した。
 さて……。
 
 
 
 
 
「信つぁん」
 障子の外から一声かけて、吾助は建て付けの悪い長屋の戸を引き開けた。
「吾助さん」
 案の定、布団の中にいた信吉が、もぞもぞと身体を起こしてくる。
「あーあー、またかよ信さん。智恵熱かい?」
 吾助の軽口に、信吉は恥ずかしそうに面を伏せる。
「二十歳を越して、智恵熱もないもんだけどね……」
「季節の変わり目は信さん、弱えからなあ」
 上り框に腰を下ろして、吾助は懐から紙包みを取り出す。
「ほい。いろり屋の団子だよ。まだあったけえ」
「ああ、いつもありがとうねえ、吾助さん」
 差し出された団子の包みを信吉は嬉しそうに受け取る。その手はなまじの娘より、よほど白くてほっそりしている。
「ほんとだ。まだあったかい」
「今から火を熾すも面倒だ。ちょっくら隣行って、湯でももらってくらあ」
 吾助が腰を浮かしかけると、いいよいいよと信吉が慌てたように布団から出てくる。
「おかねばあさんには世話になりっぱなしだもの。白湯ならあるから」
 別にあたたかい茶でなければならぬ道理は吾助にはない。おいしい団子でさえ実のところどうでもいい。吾助としては信吉とたわいもないことをしゃべりながら、その顔を見ていられればいいのである。
「じゃあ白湯でももらうかい。ああ、俺がやる、俺がやる。病人は寝てんのが仕事だろ」
「もう。ちょっと熱が出てるだけだよ。わたしのは癖みたいなものだし……」
「熱だけだからって、あなどっちゃいけねえよ。まだ高えんだろ?」
「んー? もうだいぶん引いてると思うんだけど……」
 そう言って自分の手を自分の額に押し当てる仕草の信吉に、吾助は膝をにじらせた。
「……どれ」
 こつんとおでこをぶつければ、睫毛の長い、すっと鼻筋の通った信吉の顔が間近になる。
「……まだ高えじゃねえか」
 わざとごりごり、おでこを擦り付けた。
「いてて。痛いよ、吾助さん。石頭だなあ」
 笑いながら額をかばう信吉に、小さくトクリと吾助の胸が鳴る。
「ちゃんと飯は食ってんのか。おら。団子。冷めねえうちに食っちまえよ」
 己へも照れを隠して、吾助は信吉の胸元に団子の包みを突きつけた。





 吾助が信吉と出会って、もう五年を越える。
 吾助の住む家からは裏手に当たる棟割長屋の一軒に、信吉はその母と共に、ある日、人目をはばかるようにひっそりと越して来た。所帯道具も少ない彼ら親子のことは、しかし、その日のうちに町中の噂になった。
 男たちは、どうやら夫のいないらしい信吉の母の美貌について噂したし、女たちは、まるで芝居絵から抜け出てきたような信吉の美少年ぶりについて噂したからだ。容貌が整っていることもさることながら、信吉母子の立ち居振る舞いにはどことはない品があり、「掃き溜めに鶴たあ、よく言ったなあ」と人々は感嘆の言葉を交し合った。
 もうその頃には、家業の袋屋の商いは母と妹にまかせきり、十手持ちの親分の後を押し掛け子分よろしくついて回っていた吾助の耳にも、信吉母子の噂は入って来た。いったいどれほどの傾城ぶりかと、吾助はそっと裏の長屋をのぞきに行って、信吉に出会ったのだ。
 透き通るように白い肌、ほっそりした瓜実顔に、濡れて潤んだ黒目がちな瞳、雅な公家人形を思わせる口元。年は吾助より三つ四つ下だろうか。井戸で水を汲む信吉を物陰から眼にして、吾助はぽかんと口を開け、しばし、噂以上のその美少年ぶりに見蕩れてしまった。
 その吾助の見る前で、水をたっぷりたたえた水桶を持ち上げようとした信吉の足元がふらりとよろめいた。
 駆け寄ったのは咄嗟のことだった。
「も、持ってやらあ」
 眼を丸くした信吉から、吾助はぶっきらぼうに水桶を奪い取った。
「おめえんちまで運べばいいんだろ」
「あ……いえ! いいです! 一人で運べますから……」
「いいって!」
「いいです!」
 水をたたえた桶を引き合ったのがまずかった。つるり。足元が滑ったと思った時には吾助は派手な尻餅をつき、ざぶん、派手な水音とともに頭から水をかぶっていた。
「……あ」
 二人同時に発して、互いの顔を見つめ合った。
 噴き出したのは同時だ。
「大丈夫ですか? 着替えをお貸ししましょう」
 くつくつ笑いながら、信吉は吾助の前に、白く細い手を差し出した。
 一人で立ち上がるのに造作もなかったが、吾助は遠慮なしにその手をぐっと握った。触れてみたかったのだ。
「着替えを借りるまでもねえやな。俺んちはここのすぐ裏だ。袋屋をやってる」
「ああ、袋屋さんの……」
 立ち上がってしまえば、いつまでも手を握っているわけにはいかない。心中、名残惜しく思いながら吾助はその手を離すと、胸を張った。
「俺ぁ、吾助。まあ、うちの商いは袋屋だけどな、俺ぁ、十手持ちの九兵衛親分の手伝いで忙しくしてんだ。なにか困ったことがあったら、いつなりと言って来な」
「ありがとうございます」
 躾のよさをうかがわせて、信吉はひとつ頭を下げた。
「わたしは信吉といいます。飾り職人の見習いをしておりますので、簪の御用はいつなりと」
 眼が合って、また二人同時に、ぷっと吹き出した。
「こんなびしょ濡れで、簪の御用もねえよなあ」
 以来、互いの家を行ったり来たりしながらの付き合いが続いている。
 信吉母子の暮らしぶりはつましかったが、吾助はついぞ愚痴めいたことを信吉の口からもその母の口からも聞いたことがなかった。だから吾助は、珍しい海山のものが手に入るたび、「お裾分け」と信吉の家へと持って行った。
「いつもありがとうございます」
 吾助がなにかかにかと持って行くと、信吉の母は年下の吾助に丁寧に頭を下げた。信吉のように大きな息子がいるとは見えぬ美しい人だったが、その顔には常に寂しげな影のようなものがあり、大きなお武家屋敷に勤めている間に殿の寵愛を受けるようになって信吉が生まれたが、正妻の悋気がひどく、命の危険もあって逃げて来たのだ、などという噂がまことしやかにささやかれるのも無理からぬ風情があった。
 吾助はその噂について信吉母子に確かめてみたことはない。貧乏暮らしをしていても信吉にはおっとりした品があり、それが血筋のゆえだと言われれば十二分に得心がいったが、信吉は信吉だ、誰の落し胤かなど知ったこっちゃない、と吾助は思ったのだ。
 そして今となっては、噂の真偽は確かめようがない。
 信吉の母は小さな飯屋を手伝い、言い寄る男になびく素振りも見せぬまま、身持ち堅く過ごしていたが、二年前の冬、流行り病でぽっくり逝ってしまったからだ。
 その頃には飾り職人として独立していた信吉の嘆きようには一方ならぬものがあった。母と子、二人でひっそり肩を寄せ合うようにして暮らして来たのだ。ほかに係累もおらぬ。信吉の悲しみは吾助にも痛いほどに察せられた。なんとか慰めてやりたいと思いながら、吾助は、
「俺がいるじゃねえか」
 その言葉だけは何度もぐっと飲み込んだ。
 信吉が女であれば。歳の頃も合う。口説き落として夫婦になって所帯を持つのも悪くなかったが、なにしろ、信吉は男だ。折々に訪ねて話をするぐらいは出来ても、将来を約束する言葉など、口にできる道理もなかった。
 吾助にはただ、ほら花見だ、夏祭りだと、引きこもりがちな信吉を連れ出すぐらいしか技はない。だが、そうこうするうち、信吉には笑顔が戻ってき、吾助をほっとさせた。
 なんにしろ、と吾助は思うのだ。歳経てむさくるしくなるどころか、そろそろ二十歳を迎えようかというのに、ますます美男ぶりに磨きがかかって来ている信吉だ、こうして間近でその笑顔を拝めるというのはそれだけで眼福ってやつじゃねえかと。
「いろいろと、ありがとうね、吾助さん」
 改めて礼を言われれば、よせやいと、照れるしかない吾助であったのだ。





「ごちそうさま」
 串だけ残った団子の包みに、信吉は行儀よく手を合わせる。
「そうだ、おばさんの具合はどう?」
「あー」
 問われて吾助は口ごもる。
「……あんま、よくねえかなあ」
「そう……」
 元気が取り柄のような吾助の母が寝付いて、もう三月になる。最初は、娘を嫁がせた安堵からちょっと気が抜けたのだろうぐらいにしか思っていなかった吾助も、食欲が落ちたまま戻らぬ母に、そろそろ本気でなんとかせねばという思いに駆られるようになっていた。
「医者はよう……高麗人参なんか効くんじゃねえかって言うんだが……高えんだよ、あれは」
 信吉の眉間がくもる。
「……おかしな話だよね。御政道に文句を言うつもりはないけれど……まじめに一生懸命働いているのに、薬ひとつ、思うままに買えないなんて」
「しょうがねえよ。それが世の中っつーもんだから」
「しょうがなくないよ!」
 珍しく激しい口調で信吉は言い返してきた。
「金持ちはどんどん金持ちになって、貧乏人はどんだけ働いても貧乏なままなんて、おかしいよ! ……ごめん」
 信吉の勢いに目を丸くしていた吾助に気づくと、信吉は頬をさっと染めて俯いた。
「あ、まあ、うん。そうだな。おかしいな。けども、まあ、手柄もねえ、岡っ引きの子分なんてやってんだから、御政道うんぬんより、俺が親不孝だってことだあな」
 吾助は自嘲気味にパン!と膝を打った。
「なんか手柄がありゃあなあ。親分もそろそろおまえも独り立ちしてみねえかって言ってくれてんだけどな。なんの手柄もねえままじゃ、奉行所もおいそれと十手を預からせてはくれねえからなあ」
「手柄……」
「おう。大盗賊とか人を殺めた下手人とかをよ、こう、首尾よくずばっと捕まえて……そうだ、奉行所からよ、なんでもいい、天狗小僧の手がかりを見つけて来いってお達しがあったんだ。あいつを捕まえられりゃあなあ」
 信吉は目をぱちぱちさせて吾助を見ている。
「……天狗小僧って、近頃、噂の……?」
「ああ。大店ばっかり狙って盗みに入って、盗んだ金はバラまいてく、あいつのことよ」
「その……吾助さんは天狗小僧はやっぱり悪いと思う?」
 改めて信吉に聞かれて、吾助はうーむと腕を組んだ。
「天狗小僧が自分の私服を肥やすために盗人を働いてるんじゃねえってことは、俺にもよくわかってらあ。義賊ってんだろ、ああいうの。……けどなあ。そりゃさっきおめえが言ったように、きちんとまじめに働いてんのにちっとも貧乏から抜け出せねえのは、御政道のせいかもしれねえ。けど、だからって、法を犯しちゃなるめえよ。あっちが悪いからこっちも悪いことをするじゃあ、世の中はぐだぐだになっちまわあ」
 吾助がそう締めくくると、いつもなら吾助の言葉にうんうんとうなずいてくれる信吉が俯いてしまっている。
 居心地の悪い思いで、吾助はもぞりと足を動かした。
「……だから、お白洲ってのがあると俺は思うんでえ」
 え、とようやく顔を上げてくれた信吉に、吾助はとつとつと続ける。
「天狗小僧には天狗小僧の言い分ってのがきっとあらあな。けどな。盗みは悪い。俺たち十手持ちは……俺はまだ半人前だがな、法に背いたことをした奴らをふんじばるのが仕事なんだ。そんで、そういうしょっぴかれた奴らの言い分もちゃんと聞いて、その上でお奉行様がお裁きを下さるのがお白洲だろう。俺たちはちゃんと善悪きちんと裁いてもらうために、下手人をひっつかまえるんでえ」
「……そうだね。十手持ちの仕事って、そういうことだよね」
 内心どきどきしながら言葉を切ったが、信吉はしみじみとうなずいてくれて吾助をほっとさせた。
「じゃあ、吾助さん、がんばって手柄を上げないと」
 もうすっかりいつもの調子で信吉が言い、
「おう、まかせておけやいってな、言いてえけどな、どうだかなあ」
 吾助もいつもの調子で軽口交じりに首をひねってみせた。
「おや。吾助さん、自信がないの?」
 笑いながら信吉は上目遣いに吾助を見やる。思わぬあだっぽさが目元に漂い、吾助は内心どきりと来たが、何食わぬ態を装うことにはもう慣れている。
「いやさ、……実はな、」
 吾助は信吉の耳元に口を寄せると声を潜めた。
「いっぺんだけな、俺、見たことあんだよ。あいつが逃げてくとこ」
「逃げてくとこ……」
「おうよ。ほんとに天狗みてえだったよ、こう、ひらっ、ひらっと屋根から屋根へ飛び移ってよ。ありゃあずいぶん身の軽い奴だなあ」
「へえ……」
 驚いたように声を上げる信吉に、吾助はちっと舌打ちしてみせた。
「ちゃーんと地べたを走ってくれりゃあ、ゆめ取り逃がすことはねえんだが。屋根の上はいけねえや。こっちは猫じゃあるめえし」
 子どもの時分から『韋駄天の吾助』と仇名されていた吾助である、地べたの上を走ってくれたら取り逃がすことはないという自信はあった。
「そうだねえ」
 信吉も優しく笑って請け合ってくれる。
「吾助さんが走ったら、それは天狗小僧でもかなわないだろうねえ」
「あーあ。首尾よく捕まえられりゃあ、こっちは十手持ちなんだがなあ」
 嘆息して、吾助はごろりと破れ畳の上に転がった。





 そんな話を交わしてしばらく。
 吾助に見合い話が舞い込んだ。これが思ってもみない良縁で、間口の広い小間物問屋の一人娘が、吾助を婿に欲しいと望んでいるという。しかも、先様は吾助が十手持ちの親分について走り回っていることも、病気の母を抱えていることもつとに承知で、母親も一緒でかまわない、岡っ引きの婿というのもおもしろいだろうと、鷹揚にかまえてくれているという。
 これで気持ちが揺らがないといえば嘘である。
 母も十分に見てやれる、岡っ引きの夢も諦めなくてよい、しかも、向こうから望んでくれている縁だ。
 しかし吾助は、仲人に立ってくれた世話役の親父に、すぐにはうなずくことができなかった。
 悪い話ではない、悪い話ではない、けれど……。
「吾助さん、いい話が来てるんだって?」
 心中の葛藤を持て余し、訪ねた先の信吉は、吾助の顔を見るなりそう言った。
「え」
「聞いたよ。縁談」
「ああ、まあ……」
 今日は仕事台を持ち出して、やすりや目打ちを手に仕事をしていた信吉は己の手元をのぞきこみ、
「よかったじゃないか」
 口元に笑みを浮かべた。
「これでおばさんも安心だ。十手持ちの婿を歓迎してくれるなんて、豪気な家だよねえ。おまけに娘さんは船場小町って呼ばれるほどの美人だっていうじゃないか。よかったねえ、吾助さん」
 なめらかに一息に言い切られ、吾助はぐっと眉を寄せた。
 人の気も知らねえで。
 そうなじってやりたいのだが、それではまるで二人が恋仲でもあるかのようだ。
「……まだ話を受けるとは決めてねえ」
 憮然と呟けば、「おや、どうして」とやはり顔を上げぬまま、信吉は明るい声を上げた。
「贅沢を言っちゃいけないよ。吾助さんもいい歳なんだから。そろそろ身を固めないと」
 信吉に言われるまでもない。そろそろ所帯を持って落ち着くべき頃合なのは自分でもよくわかっている。よくわかってはいるが……ほかの誰でもない、信吉にそれを言われるのが腹立たしかった。
「ひとつ所に落ち着くってのが、俺にはどうにも……」
 苦々しく呟くのに、
「吾助さんのいい男振りに、向こうさんが一目惚れだって聞いたよ。隅に置けないねえ」
 信吉の口調はあくまで明るい。吾助の中で何かが切れた。
「好きな時に、ここに来れなくなんだろ」
 ぴたりと信吉の手が止まった。
「婿になんか入っちまったら、今みたいに、おめえに会えなくなんだろ」
 吾助は言い募った。
 うつむいたままの信吉は微動だにしない。
「なあ!」
 なにかに突き動かされるように吾助は信吉の元へと這うと、その肩に手をかけた。
「おめえはなんも思わねえのか!」
 ぐいっと肩を引けば、初めて信吉の顔が上がる。
 明るい声とは裏腹、涙に濡れた瞳があった。
「……思わない、わけがない……!」
 引き絞るような声だった。
 
 
 
「信吉……っ」



 脛が当たって仕事机ががたりと鳴ったが、構ってはいられなかった。
 両腕いっぱいに信吉を抱き締めて、抱き締められて、二人して破れ畳の上にどうと倒れた。
「信吉、信吉……!」
「吾助さ……っ」
 夢中で唇を合わせた。思い切り吸い上げた。
 眩暈さえ覚える至福を感じながら、これがずっと自分の欲しかったものなのだと、吾助は悟っていた。



 が。
 
 
 
 唇の合わせを変えて、より深くその口中を探ろうとした時だ。
「……だ、めだ……」
 濡れた唇は吾助を避け、背に回っていたはずの腕は、吾助の胸を押しやる形に堅くなっていた。
「だめだ、だめだよ、吾助さん……」
「なんで……」
「十手持ちになるんだろう? おっかさんの病を治してやるんだろう?」
 吾助ははっと息を飲む。そんなもの、と言下に切って捨てられぬ。十手持ちへの夢も、病の母のことも。
 強張った吾助の腕の中から信吉はするりと抜け出す。
「……もう、お帰りよ、吾助さん」
「信吉……」
 うつむいた上に顔を背けられては、信吉がどんな表情をしているのか、吾助には見えない。
 一瞬の熱は、しかし、確かにあったのだ。
「……信さん」
 戸口で吾助は振り返った。
「俺ぁ、十手持ちになる。縁組なんか必要ねえ。俺ぁ、自分の甲斐性で、おっかあに高麗人参を食わせてやる」
 うつむいたまま、じっと動かぬ信吉はなにを思うのか。
 やがて小さくうなずいて顔を上げた信吉は、吾助ににっこり、笑顔を向けた。
「うん。励みなよ、吾助さん」





 御用だ御用だ!
 提灯が揺れる。
 ピーッ!
 呼子が鳴る。
 捕り物だ。
 先頭を、吾助は走っていた。





 芝居の演出のひとつに、わざと役者の動きをゆっくりと緩慢にして、その場面を印象づける手法がある。
 その夜のことを思い返すたび、吾助の脳裏には、その芝居の手法さながらに細部まで鮮明な情景がゆっくりゆっくりと浮かび上がる。
 最初は、そう、屋根の上をひらりひらり飛ぶ、黒い影。
 夜道を駆ける、己の足音と捕り物方の足音が、「御用だ、御用だ!」の声と鋭く鳴り響く呼子の合間に耳まで届く。
 地べたさえ走ってくれりゃあ。
 歯噛みするように思った、己の思考の跡さえ、吾助の記憶には鮮明だ。
 直後だ。
 まるで声なき吾助の声が聞こえたかのように。
 ひらっ。
 黒装束に身を包んだ盗人は、辻へと舞い降りた。
 もう逃がさねえ。
 大きく踏み込めば、ぐっと細い背中が近づいた。
 一歩ごと。近づく背中。
 なぜ、とちらりと思った。屋根から降りた?
 ――まるで捕まるためのような……。
 地を蹴った。
 低い姿勢で、相手の腰にむしゃぶりついた。
 倒れこむ。
 ぐっとその身に乗り上げて、顔の下半分を覆う黒布を、
「天狗小僧!」
 叫びながらむしり取った。
 蒼い月の光に浮かんだ顔に、一瞬、自分がどこにいて、何をしているのか、わからなくなった。
「……あれ?」
 間の抜けた己の声と、
「どうぞ、お縄を」
 落ち着いて静かな信吉の声が、今も鮮やかに吾助の耳に聞こえてくる……。





 何かの間違いではないのかと、吾助は思ったが。
 『天狗小僧』は奉行所の詮議にすべての罪を認めたという。
 なにもかもが信じられなくて。なにをどう考えたらよいのか、わからなくて。
 魂が抜けたような数日を過ごしていた吾助の元に、一人の男がやって来た。
「これをあんたに渡してくれって頼まれたんだ」
 差し出されたのは一通の手紙。表に町名と袋屋の屋号、そして吾助の名がある。
 その筆跡(て)には見覚えがあった。
「こ、これ、誰に、いつ……!」
 勢いこんだ吾助に、どこぞの店の番頭でもしているような風体の男は、
「やたらきれいな若い男がうちの店に来て頼んで行ったんだよ。少なくない金子ももらった。きっちり十日後にあんたに渡してくれってさ。じゃあ確かに渡したからね」
 そう答えた。
 男の姿が店先から消えるとすぐ、吾助は手紙を開いた。
 乱れのない墨の跡は、まず詫びの言葉から始まっている。具体的な言葉はないが、ずっと隠し事をしていてすまなかったと。申し訳なく思っていたと。
 父のように世のため人のためになるような働きをと、母に言われて育ったが、長じるにつれ、世の中の歪み、理不尽に怒りの気持ちばかりが湧き、己なりに己の道を探ったゆえのことだと、これもまた、なにがどうと判じられるような言葉は伏せたまま語られている。
 そして、礼の言葉があった。
 世話になった、気にかけてもらった。
 なんの恩返しも出来ないが、きちんと所帯を持って、親を大事に暮らしてほしいと。
 最後に、ずっとかなわぬと諦めていた夢が、一瞬だけでも現(うつつ)となったと。うれしかったと。もうこの世に未練も恨みもなにもない、吾助にただ達者に暮らしてほしいと、手紙は締めくくられていた。
 思わず手紙をくしゃりと握り締めた。
 現になった夢……? 一度だけ、思い切り抱き締めた細い躯、柔らかであたたかな唇の感触がまざまざと甦ってくる。
「……おめえ一人の夢だったとでも……?」 
 呟き、やにわに立ち上がった吾助はそのまま店を飛び出した。がむしゃらに奉行所への道を駆けた。息が切れようが、人にぶつかろうが、立ち止まることはしなかった。
 番所に飛び込み、吾助は叫んだ。
「信吉に、会わせてくれ!!」





 どれほど待たされたか。
 玄関脇の小部屋で待つ吾助の元に現れたのは、髪に白いものが混ざる、くたびれた裃姿の同心だった。
「待たせたの」
 老人はおだやかに言うと、吾助の前によっこらせと腰を下ろした。
「天狗小僧に会いたいというのは、おまえか」
「はい。岡っ引き九兵衛の元で使いっ走りをしております、吾助と申します」」
 平伏した吾助に、よいよいと、老人は顔を上げるように手を振った。
「天狗小僧、飾り職人の信吉とは幼い頃からの馴染みとのことだが……」
「はい」
 老人の眼にかすかに同情の色が湧いた。
「信吉はおまえなど知らぬと申しておる」
 吾助は耳を疑った。信吉が、俺を知らない!?
「そ、そんな馬鹿なことは……!」
「確かに、近所に袋屋の吾助という男がいることは知っているが、顔を合わせても会釈をする程度、親しく口を利いたことなどない、とな」
 小刻みに首を横に振る吾助に、老同心は、
「……察してやれ」
 ぼそりと呟いた。
 は、と胸を突かれた思いの吾助である。
「今度の手柄で、おまえは近々に十手を預かる身となろう。……あれは盗人ながら聡い男だの」
「…………」
 節の空いた床を、吾助は茫然と見つめた。
「……あいつは……すぐ熱を出すんです。冷えに弱くて……」
「覚えておこう」
「ろ、牢の中では、い、いろいろ仕置きとかされんじゃねえでしょうか! 割れ竹でぶたれたり、石ぃ抱かされたり……!」
 たまらぬ思いで顔を上げた吾助に、老人は、
「案ずるな」
 ゆっくりと言った。
「調べの途中に、多少手荒なことがなかったとは申せぬが……罪をすべて認め、裁きを待つ者に、それほどの無体はせぬ」
 もう、すがるように老武士を見つめるしかない吾助である。
「……それにの、これはわしの独り言じゃが」
 ふっと目線を横に流し、老人は声を潜めた。
「昔、わしがお城に勤めておった時分、まるで芝居絵から抜け出て来られたかのように、男ながらに見目麗しい殿がおられての。阿波の守であられたかと記憶しておるが……今は確か、若年寄にまでご出世なされておられるはず。……あれほどの美男はそうはおらぬと思うておったが、いやいや、世の中には似た顔が三つあるとは本当のことかもしれぬ」
 老人の言葉の意味するところを悟り、吾助は息を飲んだ。昔聞いた、信吉母子にまつわる噂も頭に浮かぶ。
「……お裁きはそれほど重くはならぬだろうと、わしは読んでおるよ」
 微笑みながらうなずかれて、吾助はもう、うなだれるしかなかった。





     *     *     *     *     *      *     *     *     *






 数年の後のこと。
 一人の男が箱根の関を越えていた。
 山道も苦にせぬ健脚が、男の頑健さをうかがわせる。
 宿で一緒になった者が聞いた。
「ずっと寝付いてた母が、半年前にあの世にいっちまいましてね、身軽ンなったところで、ちょいと旅にでも出てみようかと。ええ、まあ、尾張にね、どうやら昔馴染みがいるみてえで……いえ、ちょいと腕のいい飾り職人なんですがね、訳あって江戸の町にいられなくなっちまって……ほう、赤味噌ですかい。そりゃあ楽しみだ」





 信吉……!
 吾助さん……!
 
 
 
 
 将軍様のお膝元、花のお江戸で、噂にもならぬのは……所払いを喰らった盗人と、よい親分さんなのにと惜しまれながら十手を返した目明しが、遠く尾張の地で共に暮らし出したという話。
 
 






 
                                                            了






<あとがき>
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
多分にエセ臭い江戸ものでしたが、そのあたりは大目に見ていただけると嬉しいのですが……。
さて、このお話は、二次ジャンルでお付き合いいただいている
<茶碗としゃもじ>の麦飯さまからいただいた案を元に書かせていただきました。
『火付け盗賊改め方だか岡っ引きの手下だかが主人公で、ねずみ小僧みたいなヤツを追っかけてるんだけど、
実は幼馴染の優男がその正体。主人公はそれに気付かず恋しちゃってて、幼馴染は罪悪感もありつつ
でも隠しながら恋し合ってるって話とかいいなあ』
といただいて、萌え萌えしちゃいまして、「こ、こんな感じ?」と書いたものがコレです。
うん。現代ものとは違う文体で遊べて(エセですが)とっても楽しかったですv

以下、某ジャンルに興味ない方は読み飛ばし推奨ですが。
キャラのね、名前を考えててね。うお!と思いました。
半・利・秀・伊・文・仙・長・小・雷・三・庄・兵・団……使えねえ漢字が多過ぎる!!!
文中に出てくる「九兵衛親分」ですが、最初「久兵衛」と打って、なんか目玉くりっとしたのが
浮かんできて、慌てて変換したことをここでコクッておきます。
あと、告白ついでに。書いてるとき、実は、信吉を伊吉、吾助を文助にして楽しんだりもしました。
いや、名前って怖いっす。
たとえばこれを「半吉」にしたら……
「なにを血迷っているんだか。わたしは男だよ?」とか言い出しそうだし、
同じく利助にしたら……
「わたしが好きなのはあなたなんです! 十手なんか……あなたの前ではどうでもいい!」とか
言いそうだ(笑)……そこ、無理にも笑うように。

とにもかくにも、麦飯さま、楽しいご提案をありがとうございました!
機会があれば、ほかの「江戸恋唄」にも挑戦してみたいと思います


 
 
 


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