ぽたりと涙が膝に落ちる。この数日の涙とはちがう、初めての喜びの涙だった。
「……どうだ? もう、いやか? こんな男は」
慌てて首を横に振る。
「いや……いやじゃないです……!」
もう次から次へとあふれてくる涙をそのままに、春実は顔を上げた。
「ぼくも、好きです……あなたが、好きです……!」
「――春実」
初めて名前を呼ばれる。その響きが、それだけで胸を揺する。
「ありがとう」
許してくれてありがとう。
ささやきは唇の上で落とされて、言葉の消えたそのあとに、深く濃い、恋人のキスが続いたのだった。
男の、肉厚な舌で口の中を掻き回される。
キスさえ堂上が初めての相手だから、堂上が上手なのか下手なのかそれさえわからなかったが、時に荒々しく、時にくすぐるように、春実の口蓋や舌を嘗め回していく堂上の舌に、頭はすぐにぼうっとなった。
唇を柔らかで温かな他人の唇に覆われて、口腔を思うさまねぶられる。
「ぁ……ふ……」
口からか鼻からか、震える吐息にかすかな声が勝手に混ざる。と、下唇を優しく噛まれた。
「ん、あ……」
堅い歯に柔らかな肉と粘膜を挟まれる感覚に、ざわりと首の後ろの毛が立つような感覚に襲われた。本来は不快なはずのその感覚が、しかし、甘いものになって腰の奥へと走っていく。
「春実」
唇のあわいに囁きを落とされる。
「舌を出して」
舌? 舌を出す? どういうこと?
わからないままに、言われた通りに舌先を唇の間から外に出すと、今度はそれを男の唇に挟まれて、きゅうっと音が立つほどに吸い上げられた。
「……ッ……ん、ん!」
いつ間にか無意識に握り締めていた堂上のスーツの襟をつかむ手から、力が抜ける。
「か、ちょう……」
「英一だ」
「……えい、いち、さん……」
「そうだ」
よく出来たと言うように、再び唇を吸われる。
「あ……」
力強い腕がまわってきて、ぎゅっと抱き締められた。
「春実はかわいいな」
熱い頬を摺り寄せられながらそんなふうに囁かれたら、もう腰から砕けていくようだった。
「英一さん……」
このまま時間が止まればいいと思う。が、春実のそんな思いはやはり子供じみたものなのか。男の不穏な右手は春実の背から股間へと滑っていく。
「あ!」
「――やっぱり春実はかわいいな」
堂上が含み笑いを漏らす。慣れない、性愛の色の濃いキスに、春実の股間は強張り、小ぶりながらけなげにスラックスの布地を押し上げていた。
「課長! も……さ、触らないでください!」
慌てて押しのけようとしたが、ソコを包み込むように押さえた堂上の手はびくともしなかった。
「こんなにしているくせに、意地を張らなくてもいいだろう」
やっぱり課長は意地が悪い。布越しに伝わる堂上の手のぬくもりと質感に、肉茎がますます張り詰めてくるのを感じて春実の目にはじわりと涙が滲む。
「い、いちから……一からつきあおうって、おっしゃってくださったじゃないですか……! こ、こんなの、飛ばしすぎです!」
必死の思いで抗議すると、堂上は小さく首をかしげた。
「確かに……春実の言うとおりだな。でも……どうする? この状態で帰れるのか?」
やわやわと押し揉みされて、春実の背がびくりと反った。
「課長……!」
「困るだろう? いいから……俺にまかせなさい。悪いようにはしないから……」
甘い声で優しくなだめるように言われる。
そう言われてしまえば、素直に従うしかない春実だった。
「ああ……ッ」
車の中。外からは助手席に一人座って、必死に口を押さえている春実の姿しか見えなかったはずだ。淫らな口での愛撫が立てる、いやらしい水音も車外にまでは響かなかっただろう。運転席から上体を倒した男の口に、下着の中から取り出された性器を思うさますすられ、しゃぶられているのだなどとは、傍からはわからなかったにちがいない。――ちがいないと、春実は思いたかった。
大人の性に慣れた男の口淫に、恥ずかしさを訴えることしかできず、春実は翻弄されていた。外にいつ誰が来てもおかしくない場所だとわかっていいるのに、男の唇と舌に、どんどん追い詰められ、昂ぶらされる。
「もう……で……出ます!」
必死に訴えれば、さらにきつく吸い上げられた。
つい先刻、『一からつきあおう』と言ってくれたはずの男の頭にしがみつき、春実はその口の中に快感の白濁を放っていた。
* * * *
「きのうのお話ですけど……ごめんなさい」
次の日の資料室だった。
頭を下げた春実の頭上で、はああっと長く深い溜息がつかれる。
「なにそれ、なにそれ、なにそれ」
遠藤が頭痛をこらえるかのように額を押さえていた。
「うっわあ……逆転ホームランかよ。ちぇ、俺、いいカンジだと思ったのに」
「本当にごめんなさい。でも、あの、嬉しかったです。あんなふうに言ってもらえて……」
「あのね。俺は君を喜ばせるために交際申し込んだわけじゃないのね。わかる?」
「……ごめんなさい」
春実は肩をすぼめる。
「でも……遠藤さんだったら、絶対ぼくなんかよりいい人がすぐ見つかりますって」
ちっと激しく舌を鳴らされた。
「そういうこと、無責任に言ってほしくないな。俺は好みがうるさいの!」
「……すみません……」
深く頭を下げると、「で?」と不機嫌そうな声がした。
「一からつきあうって、どういうふうにつきあうの。ゆうべはそれからどうしたの」
「え……」
ぎくりとする春実だ。
「隠すなよ! 俺には知る権利があるぞ!」
「なんの権利だ」
遠藤が息巻いたところに、低い声が割って入った。堂上が棚の横から姿を現す。
「なにって、あんたらの逐一を知る権利だよ!」
「あいにくこれと言って報告することはないな。まずはメールの交換から始めることにしたから」
堂上がしらっと言い放つ。本当になにもなかったかのように涼しい顔の堂上が、あんなに濃いキスをし、あんないやらしい……。
思い出しちゃいけないと思うのに、脳裏に次々と昨夜の情景がフラッシュバックする。
「あ、あ、あー! なになに、サハラちゃん、赤くなっちゃってんじゃん!」
目敏く遠藤に見咎められた。
「ああもう! また毒牙にかけられちゃったわけ?」
「そ、そんなことは……!」
慌てて手を振る春実の横から、
「うるさい。人を我慢のできないケダモノのように言うのはやめろ」
堂上が冷静に抗議する。
「とかなんとか言って。ちゃっかりオフィスラブの機会狙って、サハラちゃんを資料室に閉じ込めたんじゃないの?」
遠藤の指摘に堂上は素知らぬ顔で机上のファイルをめくるだけだ。
「サハラちゃん、いい? この男、こう見えてめちゃくちゃスケベなんだから。気をつけなきゃダメよ?」
「司、オネエ言葉になってるぞ。それに佐原に余計な知恵をつけるのはやめてくれ」
「なにが余計な知恵よ。先輩とサハラちゃんじゃ経験値がちがいすぎるんだから、サハラちゃんにはアドバイザーが必要だわ。ねえ?」
春実は首をひねる。
「アドバイザー……必要でしょうか」
「わかってないなあ、サハラちゃん。大人になるっていうのは大変なんだぞ? このオジサンのペースにまかせてたら、あれもこれもすっ飛ばしていきなり濃い世界に連れてかれちゃうんだぞ?」
「余計な口を出すな。佐原のペースに合わせてやる余裕ぐらい、持ち合わせている」
「あいにくと。あんたより先に俺はサハラちゃんに約束したんだ。俺が大人にしてあげるってな」
相性がいいのか悪いのか、やはり睨み合いの始まる二人の間で、春実はやはり少し困ってしまう。
「おまえに厄介になる必要はない。春実の成長には俺が責任を持つ」
「うっわ、もう春実とか呼び捨てにしちゃって。これだからオヤジは危ないんだよ。な、サハラちゃん。こんな危ないオジサンだけにまかせといたら、とんでもないことになるよ?」
「黙れ。春実、俺一人で十分だな?」」
「それは危ないって。な、サハラだって自信ないだろ?」
二人に答えを迫られる。なんと答えればいいのか混乱して、なんだか、とにかくまだまだ成長しなきゃいけない自分が悪いような気がしてきてしまう。そうだ、最初から自分が大人ならよかったのだ。
春実は小さくなって二人に向かって頭を下げた。
「あの……すみません。未熟者なので……よろしくご指導願います」
終わり…ですが、結局春実はまだバックバージ…げほ。
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