飯場の仇花

 



 日に焼け、けばだった畳。こもった熱気をかき回すだけの扇風機。大勢の男たちの汗の臭いが、どれほど窓を開けていても抜けて行かない部屋。
 土木・建築会社が用意している飯場は、どこも似たり寄ったりだ。
 そして、そこで寝泊りして仕事をもらっている俺たちも、みんな、似たり寄ったり。
 うまく次の飯場に移れなければ、後はドヤ街に転がり込むか、公園でダンボールにくるまるかしかない、家族も家も持たない者たち。あるいは、俺のように、故郷で食い詰めて出稼ぎに来、細々と仕送りを続ける者たち。
 『俺たちに明日はない』っつってなあ。今日いちんちのおまんまがおいしく食えりゃ、まあ、御の字って連中ばかりだ。





 そんな連中の中で、あいつはちょっと目立ってた。
 なにが目立つって、あいつ、本、読んでんだぜ、本。いや、そりゃ、マンガや雑誌の類は床に散らばってるし、競馬新聞やスポーツ新聞を読んでるヤツはたくさんいるけどさ。
「おい、なに読んでんだよ」
 夜、マージャンや花札でにぎやかな部屋の隅で、一人、壁に背もたれて本を広げているあいつに、ついに俺は尋ねた。
「『インドとイギリス』」
 本の背表紙を見せてくれながら、あいつが答える。背表紙には『インドとイギリス 岩波新書』とあった。
 俺は数秒、俺と同じに顔も首筋も、肩も腕も、真っ黒に日焼けしたあいつの顔をまじまじと見つめた。
「……おもしろいのか、それ」
「おもしろい」
 澄んだ目で俺を見返してあいつは即答した。
「列強、つまり欧米だな。その先進国の身勝手さとそれに苦しめられる後進国の図式がよく出ている」
「……おもしろいのか、それ」
 俺は同じ質問を繰り返した。ふっとあいつの目が笑みになごんだ。
「おもしろいぞ。同じ図式が、今の日本の都会と地方の関係に当てはまると思うと、余計にな」
 俺はちょっと押し黙った。
 俺の家は代々漁師をしていた。俺も高校を出るとすぐ、船に乗った。けれど岬の端に原子力発電所というのができて、魚はぱたりと獲れなくなった。電力会社からは漁業補償金ってのが出たが、それは持ってる船のトン数に応じて支払われ、俺のうちのように、他人の船に乗って稼いでいた者への補償は、ほんとにスズメの涙程度しかなかった。
 なんかおかしい。なんか、ヘンだ。そう思っても、俺にはなにがおかしいのか、うまく言うことができなかったが。
「……俺んちは、漁師だった」
 俺はぼそぼそと話し出していた。
「発電所ができて魚が獲れなくなった」
 今度はあいつの口元にも笑みが浮かんだ。
「俺の畑はダムの底に沈んでる」
 俺はあいつの本に目を落とした。
「それ……おまえが読んだら貸してもらえるか」
「ああ」
 それが俺とあいつの初めての会話だった。





 仕事を振り分けられる時、俺はあいつの姿を無意識に探すようになった。
 同じ列に並ぶ。
 現場でのあいつは、ムダ口を叩くこともなく、ただ黙々と身体を動かしていた。黄色いヘルメット、汗じむランニング、それは骨惜しみのない働き方だった。
 そのうちに、俺とあいつは一緒に高層ビルの建築現場に回されるようになった。足腰が丈夫で、そこそこ若く、高い所が平気な者がその仕事を割り当てられていたからだろう。俺たちは目のくらむような高さで、クレーンで吊られてくる鉄骨をワイヤーから外し、資材を運んだ。
 登っている時はトイレにも好きには行けない。上に上げてもらえる物も限られていて、水だって飲み放題ってわけにはいかない。
 そんな時、同じ飯場から来ている十代出るか出ないかの若いのが、ふらふら倒れ込みやがったことがあった。夏の盛り、炎天下での作業。足元も周りも剥き出しの鉄骨で、安全靴を履いてても足の裏がじりじり焼け付くような気がする暑さの中のことだ。見ればその若いのは、真っ赤な顔してふうふう言ってやがんのに、汗は全然かいていやがらねえ。
「こりゃ……」
 異常を察して駆け寄ってきたあいつと、俺は目を見交わした。
 あいつの動きは素早かった。
 たったひとつ置いてあるジャグをひっつかんでくると、あいつは栓を回すのももどかしげに蓋を開け、中のお茶をじゃばじゃばとそいつの頭と言わず腹と言わず振りかけた。
「班長には俺から謝る!」
 あいつの勢いに押されるように、俺はしゃがむとそいつに背中を向けた。
「負わせろ。下まで運ぶ」
 あいつは一瞬、目を見開き、だが、わかったとうなずいた。
 背に負った身体の異様な熱さが一刻の猶予もないことを改めて告げてくる。
「気をつけて行け。班長に伝えて俺も追う」
 その頃、俺たちが作業していた階は二十何階かの高さだったろうか。十階までは作業用エスカレーターが設置してあったが、そこまでは鉄の階段で下りなければならなかった。
 身体には自信のあった俺だったが、成人男性一人を背負って五階分も降りると情けないことに膝が笑い出した。
「代わろう」
 後ろから追いついてきたあいつが言う。
「頼む」
 俺が言う。
 ぐったりした若者を背負い代えて、俺たちは下を目指した。
 現場監督に付き添われ、救急車で運ばれていくそいつを見送って、俺とあいつはほおっとその場にしゃがみこんだ。
「……助かるかな」
「……どうだろうな」
 あいつは頭に巻いていたタオルを取ると、ぶるんと顔を拭き、脇の下の汗もぬぐった。
「運を祈ってやるさ」
「だな」
 その日、飯場に戻ってから、俺たちはその若いのが数日の入院は必要なものの、意識も戻り助かったという話を聞いた。
 二人で乾杯した缶ビールはやたらとうまかった。





 そんなことがあったせいだろうか。
 いや。
 一人、本を読んでる姿が目についてた頃からだろうか。
 俺はあいつのことがやたらと気になるようになった。
 気が付くと目で追っている。
 なんで三十越えた、俺とおなじようなおっさんを俺が気にしなきゃなんないのか自分でも不満だったが、無意識に視線がいっちまうものはどうしようもなかった。
 盛り上がった、首から肩への筋肉。真っ黒に日焼けした顔や腕。一日二日ですぐ目立つ髭。見ていて心楽しいものでもないのに、どうしても目が行ってしまう。
 雑魚寝(ざこね)に近い飯場の夜は、すぐに隣の人間とぶつかる。
 隣り合って寝ている俺とあいつも、よくぶつかった。
 ごつ。堅い脚に、脚がぶつかる。
 ――寝ているのか。あいつの脚は動かない。
 俺はそろりと自分の脚を動かしてみる。
 ざり……。
 脛毛が擦れ合う。触れていて心楽しいものでもない。……だが。
 ざり……。
 俺はまたそろりと脚を動かしてしまう。
 伝わってくるあいつの体温と、かすかな汗の匂いが、なぜだか鼓動を早くする。
 触れ合う脚。
 寝ているのか。
 あいつの脚は動かなかった。





 夏が終わる前だった。
 昼、監督に呼ばれて行ったあいつが、無表情に戻ってきた。
「――嫁が、産気づいた」
 俺も無表情に話を聞いた。
「上のガキが、まだ三歳なんだ」
 そうか、とうなずいた。
「明日の朝、戻る」
 そうか、と俺はまたうなずいた。
「出産費用は、稼げたのか」
 ああ、とあいつはうなずいた。
 よかったな、と俺は言った。
 よかったな……。





 短い者は一週間、長い者でも数ヶ月で、飯場を移る。中には数年という、ヌシのようなヤツもいるが。
 俺のように故郷に家族を残し出稼ぎに出ている者は、故郷で稼げる季節は故郷で働き、日銭が入らなくなると出稼ぎに出るから、同じ飯場に半年以上いることはない。次の年、出稼ぎに出るときには、仕事に応じてまた別の飯場に入ることになる。
 同じ飯場で、ずっと一緒に過ごせるわけは、最初からないのだ。
 ――そうと、わかっていて。
 胸に広がるわびしさを、俺はどうしようもなかった。
「飲みに行かないか」
 その日の仕事が終わったとき、俺は初めてあいつを誘った。飯場でコップ酒や缶ビールをあおることはあっても、少しでもたくさん故郷に送りたい俺たちは、めったに店で金を落とすことはなかった。だが、その日だけはどうしても、飯場でみんなと一緒に騒ぐ気にはなれなかったのだ。
 あいつはどう思ったのだろう。
「ああ、いいな」
 酒はあまり好きではないはずなのに、あいつはそう答えてくれた。
 ガード下の串かつ屋で、肩を並べて飲んだ。
 関節の太い、指の背も堅い毛で覆われた、あいつの指。その指で、あいつは本のページをめくるのだ。『インドとイギリス』。俺はまだ半分も読めていない。
 店を出て、二人で歩いた。
 肩がぶつかった。
 よけたらいいはずなのに、何故だか俺もあいつも距離を取ろうとはしなかった。
 肩は何度もぶつかった。
 汗に濡れた肌の感触。
 角を曲がった時だ。
 街灯が切れていた。
 細い道だった。
 人影がなかった。
 俺の首にあいつの腕が回ったのが早かったか、俺があいつの腰を引いたのが早かったか。
 噛みつくように。
 俺たちは互いの唇に吸いついていた。





 金に余裕があれば。
 タクシーに乗ってホテル街まで飛ばしたろう。
 だが俺たちには、タクシーに乗る金もホテルを使える金もなかった。
 たっぷりと唾液の絡んだキスの火照りが、俺たちをいっそう無口にしていた。
 公園があった。
 入った。
 公園の外周を囲む木立の中に、公衆便所があった。
 切れかけた電灯がチラチラする中に、広いスペースを備えた個室もあるのが見てとれた。
 どちらからともなく、俺たちの足はそこへ向いていた。





 顔と言わず、首筋と言わず、俺たちは舐めあい、吸いあった。
 腹筋の堅さ、胸板の厚さ、少し饐えたような、汗の匂い。
 それがあいつのものだと思うだけで、俺は興奮した。
 作業ズボン越しに、お互いの興奮したものがゴリゴリと擦れ合った。
 俺は震える指であいつのベルトを外した。
 ずり下げたパンツから、猛り立った男根が飛び出して来た時には、心臓がひときわ大きく打った。
 エラの張った、赤黒く、スジの立った、雄根。
 ごくりと唾を飲んだ。
 膝をついたのは無意識だ。
 目の前にそそり立つあいつのモノ。
 しゃぶりたかった。
 衝動のままに、俺はそれを咥えていた。





 唇でしごいた。舌も使いながら吸い上げた。下腹の陰毛に鼻先を埋め、根元まで横ぐわえした。
「……うぅ……」
 あいつの漏らす小さな呻きに励まされて、俺は熱心にソレをしゃぶった。
 髪をつかまれて、そこから顔を遠ざけられた時には、ちょっと不満に思ったほどだ。
 しかし、
「おまえのも、見せろ」
 そう言われて、俺は嬉々としてズボンを脱いだ。
 俺の猛ったものに、あいつの手が絡む。
 しごかれて、俺はたちまち昇り詰めそうな感覚にあえいだ。
 あいつのモノにも手を伸ばした。
 互いに擦り合いながら口付けを交わした。
 厚い舌を舐めあった。垂れる唾液をすすりあった。
 先にイッたのは俺だった。
 あいつの手の中で俺は爆ぜた。
 あいつの手を汚す、とろりと粘る白濁。
 その感触を確かめるようにあいつは指を擦り合わせる。鼻先に持って行ってクンと嗅ぐ。
「……おまえの匂いだ」
 胸が痛くなった。
 明日の朝には、見送らねばならない相手。
 俺はあいつに背を向けた。手を洗面台についた。
「おまえは俺の中で逝け」
 迷いはなかった。
 俺はあいつに向かって、尻を突き出した。




 押し入られる圧迫感と痛みに喰い締めた歯の間から呻きが漏れたが。収まりきってしまえば、耐えられないほどのことはなかった。
 俺の腰をあいつがつかむ。
 がくがくと揺すられた。
 俺の尻とあいつの腹が当たって、パンパンと音が響いた。
「うっ、うっ、お、お……っ!」
 痛みではなかったが、腹を中から突き上げる熱い塊に、短い叫びが上がるのはどうしようもなかった。
 はっはっはっはっ。あいつの短く荒れた呼吸が背に当たる。
 あいつの律動。腰に食い込む指の強さ。俺の中を抉る、熱いモノ。
 忘れるものかと思った。
 絶対、絶対、忘れない。
 抜き差しが、ひときわ速く、激しくなった後、ズンッ……! 最奥まで突かれて。
「…くぅっ!」
 あいつが呻いた。
 どくどくと、あいつ自身が震えて精を吐き出すのが感じられた。
 あいつが、イッた。
 俺の、中で。
 俺に、感じて。
 目尻に熱いものが溢れてきて、俺は顔を伏せた。
 背に、あいつがもたれかかってくる。
 後ろから、まだ、あいつに刺されたまま、抱き締められた。
 その腕を、俺はつかんだ。
 気のせいだろうか。荒い息づかいだけじゃない、汗だけじゃない、なにか……もっと熱いものが、背に一筋、流れてきた。
 ぐっとまわった腕に力がこもる。
 その腕を俺もまた、ぐっとつかみ返して。
「……帰るなよぅ」
 俺は細く小さく、言っていた。





 次の日の朝。仕事の割り振りを待つ俺たちの列の横で、あいつは清算してもらった給料を受け取っていた。
「また、お世話んなる時は、よろしく頼んます」
 あいつは頭を下げる。
 またいつか。また。
 そんな日は来ないのを知っていて、言うのだ。
 俺たちは流れていく。別の飯場へ、別の現場へ。
 最後に、目が合った。





「元気でな」
「おまえもな」


 

 
 俺たちは精一杯の挨拶を交わしたのだった。











                                     了








 



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