ある日の午後 ―こんなこともあったかも―

 



 「あ。やば。ここ禁煙?」
 学内のカフェテリア。煙草に火をつけた東が周りを見回す。
「ちぇ。最近はどこも禁煙ばっか。わり、一服して戻って来るわ」
 腰を浮かしかけた東にぼくはにっこり笑う。
「うん。行ってらっしゃい」
 ……別れていた数ヶ月の間に、東は髪を切り、また煙草を吸うようになっていた。
 時々、ほろ苦くなったキス。
『なんか、苦い』
 あれは初めて東の家に泊まりに行った日のこと。東とのキスが、苦かった。
『なんだよ、タバコぐらいフツーだろ』
 東は言い、でも、それ以来、キスが苦かったことも東がぼくの目の前で煙草を吸うこともなかった。
 たぶん……東はぼくとつきあっている間、煙草をやめてくれていたんだと思う。
 復活した喫煙の習慣。苦くなったキス。
 でも、ぼくはもう、東とのキスが苦いと口にすることはできない。
 東が一度やめたはずの煙草を手にした頃、ぼくは河原先輩とつきあっていた。
 苦くなったキス。
 もう一度寄り添いだしたぼくたちは幸せだったし、互いの気持ちを信じるに足るだけのものをお互いに感じ合えていた。だけど……そこになんの傷も、汚れも、ないわけではなくて……。かすかに舌を刺す苦味は、ぼくと東の間についてしまったどうしても消えない染みのように、ぼくには思えて仕方なかった。





 その日、河原先輩はなんだかイラついているようだった。
 喫煙スペースになっている学食の一角で食後の紫煙をくゆらせている東に、
「もしかして本気で煙草がカッコいいとか思ってる?」
 表面はいつものにこにこ顔で。でも、口調にはしっかり棘を潜ませて、先輩は東に絡みだした。
「…………」
 表情は変えないまま、東は咥えたままの煙草をくっと上に向けて見せた。
「未成年の喫煙は犯罪だってわかってるか?」
 東はことさらゆっくりと煙草を指に移すと、まるでキスする前のように先輩に向かって顎を軽く上げ……ふーっと煙を先輩の顔に吹きかけた。
 先輩はやっぱり慌てない手つきで顔にかかった煙を払う仕草をすると、
「ふうん?」
 なんだかすごくイヤな感じに、にやりと笑った。
「喫煙の習慣はないにこしたことはないと思うんだけどね。そのうち免許も取るんだろ? 車に匂いがつくよ」
 ひやりとした。
 それは東が最近車の免許を取りたがっているからで……単に便利を考えてのことかもしれないその理由が、ぼくにはやっぱり河原先輩絡みに思えているせいだった。東には先輩と張り合うつもりはまるでないのかもしれなかったけれど、ぼくは怖くて東の真意を問いただしたことはなかった。
「高橋はドライブ好きだろう? せっかくのドライブが煙草臭かったら、イヤじゃないか?」
 なんでこんなところでぼくが引き合いに出されるのか。とにかくマズい話の流れに、ぼくは、
「え、あ、ぼくはそんな別に……」
 とにかく、否定の気持ちを表そうと首を横に振った。でも、その、ドライブが好きだってことを否定しようとしたのか、それとも、煙草の匂いなんて気にしないってことを主張しようとしたのか、自分でもはっきりしないままの曖昧さを、先輩は見逃してくれなかった。
「でも高橋は車好きだろ。狭いから、気が散ってなかなかノリ切れないってコも多いけど、高橋は狭いとこでも全然平気だろ? っていうか、かえって燃えるぐらいだったじゃないか」
 すうっと顔が蒼ざめていくのが自分でもわかった。





 『プチストーカー』なんて言い出した先輩が、ぼくと東につきまと……えっと、ぼくたちの周りによく現れるようになって二ヶ月。
 東は「おまえ、うぜーよ」って嫌な顔を隠そうともしなかったし、ぼくも戸惑いが大きくて困っていたけれど……そんな中でも先輩が屈託のない笑顔で堂々とそこにいるようになって、二ヶ月。
 今まで先輩は、実際にぼくと先輩が過ごした数ヶ月のことを、ことさらに強調しようとしたことはなかった。こんなふうに、ぼくが先輩に抱かれていた事実をほのめかすようなこともなければ、どんなセックスをしたのか、匂わせることもなかった。先輩は東と張り合うためじゃなく、単にぼくたちをからかうのが楽しいから来てるってスタンスを崩さなかった。
 なのに……。
 高橋は車の中で燃えたろ、なんて……。
 先輩のほのめかしに東の顔が強張り、その瞳が怒気をはらんで光った。
 薄く笑う先輩。睨む東。なにも言えないぼく。
 不意に東が立ち上がった。
 椅子にかけてあったカバンを掴むと出口に向けて一人さっさと歩き出す。
「あ……東!」
 慌ててぼくは後を追った。
 早足で学食を出て行った東はぼくの声に振り向くこともない。
「東!」
 いったん外に出た東は大股でキャンバスを横切ると、次の講義の教室がある3号館に入って行く。
「東……ごめん、ごめん、東」
 駆け足で追いついたぼくは東の横に並びながら懸命に謝罪の言葉を口にした。ほかの人と付き合った、抱かれた。でもやっぱり東が好きで東の元に戻って来た身勝手を、どう詫びればいいのか……。ぼくが東を裏切っていた事実を、当事者に突きつけられた東にどう詫びればいいのか……。
「東、ごめん……」
 必死に同じ言葉を繰り返すぼくの後ろから、
「おーい」
 いたずらにほがらかな先輩の声がした。
「俺、帰るからー」
 さすがにカチンと来て振り返った。
「勝手に帰って下さい! もうぼくたちにつきまとわないで!」
 叫んだところで、ぼくは横合いから思い切り腕を引っ張られて危うくバランスを崩しかけた。
 東が無言でぼくの腕を引っ張る。
「あ、東!?」
 厚手のジャケットの上からでも、食い込む指が痛いほどのきつさだった。
 東は無言のまま廊下の途中にある男子トイレの戸を開いた。わけがわからないぼくを乱暴にトイレに引きずり込むと、今度は個室へとぼくを押し込む。カチリと鍵をかける音がかすかに聞こえた。
「え……」
 振り返ろうとしたところを、後ろから抱き締められた。フタの開いたままの便座がまぬけにぼくの前に口を開けている。膝がその便器に当たるほどの狭さの中、ぼくは東に抱きすくめられていた。
「あず……な、」
 どういうつもりなのか。東の意図を尋ねようとしたぼくの首筋に鋭い痛みが走った。一瞬おいて、東に噛みつかれたのだと悟った。
「いっ……!」
 引きずり込まれて、次に個室に押し込まれるまでの短い間に、トイレに今は誰もいないのだけは見えていた。それでも学内のトイレで大声上げるわけにはいかなくて、ぼくは迸りかけた悲鳴を必死に飲み込んだ。
 身を捩ろうとしても、後ろから東の左腕に腕ごとがっちりと戒められてかなわない。
「あず、あずま……っ!」
 抑えた、必死のささやき声で。後ろから抱き込まれ首筋に噛みつかれた態勢で。
「や……!」
 ぼくはなんとか東の動きを制止したくて訴えたけれど。
 東の自由な右手が性急にぼくのベルトを緩め、ズボンの前を開いていく……。
「あ、あずま、あずまッ!」
 呼びかける声も虚しい。
 下着ごとズボンをずり下げられて剥き出しになったお尻に、カチャカチャと今度は東のベルトを緩める音がして、すぐに、堅く熱いものが押し付けられてきた。
 首筋に歯を立てられた時以上のショックだった。東がなにをしようとしているのか悟って、全身がざっと鳥肌だった。
「や、やだっ! 東、いやだっ!」
 訴える間にも、東のソレが双丘の間にぐっと割り込んでくる。
 ほぐされてもいないソコを、オイルやクリームの助けもなしに、東の猛ったモノが貫こうとする。
「あ、アアッ!」
 むりやりだった。
 東はすぼまったままのソコに、自身を力任せに捻じ込んだ。





 どれほどたっても慣れ切ることができない、躯の中に他人の躯を受け入れる、重い痛み。頭にまで響く、躯の深奥を拡げられ、内部を穿たれる熱く重い痛み。
 だけど、大事に時間をかけて準備してもらった後のその痛みは、続く抱擁の中で、深く甘い快感に変わることをぼくはもう知っている。
 それを教えてくれたのは東だった。
 その東が……無体にぼくを貫く。
 乱暴で一方的な侵入に、もう忘れかけていた入り口を破られる時の鋭い痛みが走り、下半身が硬直した。
「ふ、うううー……っ!」
 必死に歯を食いしばったけれど、苦痛の呻きが漏れる。
 強張ったぼくの躯は容易には東を受け入れようとせず、東はそれを力ずくで押し破る。
 続く貫入の重い痛みの中には、それが甘い快感に変わるかすかな予兆すらなかった。
 一方的に挿入してきた東は一方的にぼくを揺すった。ぼくのリズムやぼくの呼吸をまるで無視した、乱暴な動き。
 今まで一度だって、東にこんなふうに強引に、まるでぼくの意思を無視したセックスをされたことはなかった。東はいつだって最後の最後にはぼくを大事にしてくれていたから。こんなふうに……薄い壁の向こうに、いつ誰が来るか知れないようなトイレの中で立ったまま、なんて……。
 愛撫なんてひとつもない、ただ犯すのが目的のような、交接。
 ――わかってる。
 東は怒っていた。ぼくの躯の自由を奪う腕にも、首筋に噛み付いた口にも、無情にぼくを貫くペニスにも……愛情じゃなく、怒りがこもっている。
 ほかの男に抱かれていたぼくに。その事実に。東は怒っていた。
 仲直りしてから三ヶ月。ぼくたちはお互いの気持ちを確かめ合い、もう一度、心と躯を添わせるために時間をかけ続けた。東は先輩に屋上で語った言葉の通り、ぼくが戻ったことを喜んでくれ、ぼくを受け入れてくれた。そしてぼくは東を傷つけたこと、裏切ったことを詫びながら、東を好きなことを告げ続けた。
 ぼくたちは決して無理はしなかったと思う。
 一歩一歩、ひとつひとつのキス、一回一回の抱擁に、ぼくたちはお互いの気持ちを確かめ、寄り添う距離を縮めていった。
 でも……時に苦くなったキスのように……そこになんの澱も傷も、ないわけがなくて……。今日の先輩の言葉は知らぬ間にぼくと東が溜めてしまっていた澱を一度に浮き立たせたんだと思う。
 東のペニスで抉られるアヌスが軋み、ぼくは切れ切れに呻きを上げた。





 一方的に揺すられるだけ。快感の兆しさえないままに、東のピッチだけが上がる。
 乱れた息が首筋にかかった。
 こんなのはイヤだと思い、でも、ぼくは本気ではいやがっていない自分の気持ちにその時、気づいた。
 乱れた息を吐きかけられて。きつく躯の自由を奪われて。無理に貫かれて。
 でも、ぼくは首筋にかかる乱れた吐息が不快じゃなかった。腕を戒める腕の力強さに腹が立たなかった。ぼくを貫くソレが……悲しかったけれど、イヤじゃなかった。
 大輔にレイプされたときとは全然ちがう。
 息だけじゃない。
 唇でも首筋に触れてほしかった。
 服越しじゃない。
 直接に肌に触れて抱き締めてほしかった。
 こんな性急じゃない。
 もっとゆっくり、もっと深く、ぼくの中に来て欲しかった。
「……っ」
 背後で息をつめる気配がして、東の腰が強張り、動きを止める。
 ずるり……東がぼくの中から出て行く。
 ゆっくりと腕が離れ、ぼくはようやく東を振り返ることができた。
 いつの間に涙が出ていたのか。視界に映る東の顔が少し滲んでいる。
「……ご、」
 滲んではいたけれど。
 東の顔を見た瞬間に、東がもうすでに死ぬほど後悔しているのがわかった。切なげで、すまなそうな、顔。
 ごめん。
 その口がそう動きそうに見えた。
 いやだ。
 謝らないで。
 ぼくは東の頬を両手でつかむと、その唇を唇で塞いだ。
 




 東。
 怒っていい。もっと怒っていい。
 君を裏切ったぼくを怒っていい。
 ぼくは君が好きだから。
 なにをされても、きっと君が好きだから。
 怒っていいよ……
 君が好きだ。





 口づけで、想いのすべてを伝えたくて。
 ぼくは激しく東にキスした。
 自分から東の口の中に舌を差し入れ、何度も何度も東の唇を吸い上げた。
「すぐる……」
 ちょっと驚いたような東の声を聞いたら、もうたまらなかった。
 こんな、中途半端じゃない。
 もっと深くに。もっと熱く。東を感じたかった。
 ぼくは東のもので、東はぼくのものだと、東にもう一度きちんと知ってほしかった。
 狭いトイレの中で、ぼくはなんとかしゃがみこんだ。
 力を失いかけた東のものを、舌で口の中に引き込むようにしながら咥えた。
「秀っ!」
 驚きと制止が一緒になったような慌てた声を聞きながら、ぼくはさっきまでぼくを穿っていたものをしゃぶった。
 東が欲しかった。
 そして東にも……ぼくが東のものであることをちゃんと感じて欲しかった。
 だけど、
「秀」
 東の手がぼくの頭を強引に後ろへと引かせた。
 目が合った。
「東が好き。東が欲しい」
 東の目が、一瞬、強い光を放った。
「……河原にも、そうやってねだった?」
 強い目の光とは裏腹に、静かな声だった。
 ううん。
 ぼくは首を横に振る。
「東だけ……。欲しいと思ったことがあるのは……東だけ」
 ゆっくり一呼吸分、ぼくたちは見つめ合っていた。
「じゃあ、」
 東が囁いた。
「勃てて」
 口元に差しつけられたそれを、ぼくは嬉々として口に含んだ。





 東に、フタを下ろした便器の上に座ってもらった。
 ズボンもブリーフも、トイレの床に脱ぎ落とした。
 東の脚にまたがって、もう一度力を取り戻していた東のソレを、自分の手で後ろの口へとあてがった。
「ふ……」
 やっぱりさっきのセックスで少し傷ついていたらしいソコは、ぴりぴりと痛んだけれど。
 ぼくはゆっくりと、東のモノを呑み込みながら腰を落としきった。
 
 
 
 
 
「んっ、んっ、ん、アァッ……!」
 腰を揺らめかすと便座のフタがぎしぎし鳴った。
 でも、そんなことにはかまっていられなくて。
 短くなった東の髪に指を差し入れ、まさぐりながら、ぼくは腰を揺すり続けた。
 東がぼくのリズムに合わせて、下から突いてくれる。
「うあ…ん、んんッ!」
 躯が奥から熱くなる。自分の中の波がどんどん高まってきて、身をよじってもこらえきれなくなってくる。
「……すんげヤラシイ顔」
 東が小さく笑う。
「や、だ…! ああっ」
 たまらず喉をのけぞらせたぼくを、東がひときわ深く下から突き上げてくる。
「あんっ! あ、ダメッ、もう……っ!」
「って、おまえが欲しがったくせに」
 笑いを帯びた声で東は言い、おもむろに、もう朦朧としかけたぼくの頭を引き寄せた。
 間近で視線を合わせる。
「もう絶対に、ほかの男にこんな顔、見せるなよ」
 うんッ……返事はよがり声なんだかうなずきなんだかわからないような高さになった。
 東はそのままぼくの頭をくっと下げさせると、キスをくれた。
 舌を絡めあったまま、ぼくはぼくと東の腹の間に白濁を吹き上げた。





 あまいんだか気まずいんだか。
 とにかく人の気配がないことにほっとして、ぼくたちはそそくさと個室を出た。
 自分の気持ちに正直だったことに後悔はなかったけれど……やっぱり……学校のトイレで二発って……なんか自分がすごく情けない人間になってしまったような気がする。
 軽い自己嫌悪を感じながら、トイレを出ると……、
「あ?」
 東がドアを振り返った。
 A4のレポート用紙がセロテープでぺたりとトイレのドアに貼り付けてある。
『水道工事中により使用不可   河原工務店』
 マジックで堂々とそう書かれたそのレポート用紙をドアから剥がした東の手が細かく震えた。
「……あの野郎……どこまでも……」
 なんていうか……もう……。脱力したいのか怒りたいのかわからない気分でレポート用紙を見ていると、裏にもなにか書いてある。
「あ、東。裏にもなにか……」
 折れた紙を広げたら、鉛筆で『悪かった』とあった。
 東の頬がぴくりと引きつった。
 
 

                                                            了






                              
ある意味、大袈裟な言い方をすれば大団円
                                        を迎えた彼らの間にも、それまでにはこんな
                                        こともあったかも……と思っていただければ。


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