呑み仲間

 






  見上げた、東南の角部屋に明かりがあった。
 来ている…!
 覚えず早足になる己に苦笑がもれたが、飛び込んだエントランスホールではエレベーターが下りてくるのが待ちきれなくて、三田村は自室のある5階までの階段を二段飛ばしで駆け上がった。





 せいせいと息を切らして部屋に飛び込めば、
「相変わらず、落ち着きのない男だな」
 焦がれてやまぬ、すらりとした美しい立ち姿のその人から、冷ややかな声が発せられる。
「俺を、待ってて、くれたのか」
 答えがわかっていながら、三田村は尋ねずにはいられない。
「阿呆」
 肉付きの薄い、形のよい唇からは、案の定、つれない言葉しか出て来ない。
「店で飲むと高くつく。それだけだ」
 思ったとおりの反応に、まだ荒い息の中、三田村はにやりと唇をゆるめた。





「鮭とばがあるのか……チャンジャも出すぞ。……もう少し、酒のツマミ以外のものも用意しておけ。これではまともな食生活が送れないだろう」
 さすがに上着はリビングのソファに掛けてあるものの、ネクタイをゆるめもせず、ワイシャツの袖口をまくりあげただけの姿で、三田村の想い人は冷蔵庫の中をのぞきこむ。
「なんだ、俺の身体を心配してくれるのか」
 軽くからかい口調で返したら、ほんのかすか、口ひげをたくわえた白皙の美貌が赤らんだように見える。
 追求したい衝動をこらえて、三田村はカウンターの上のナイロン袋をのぞきこむ。
「おー、押し寿司か! お? 握りもある! 研修所もメシはまずくないんだが、ナマモノは出ないからなあ」
 来る途中に買って来てくれたしい、三田村の嗜好にあった手土産を、三田村はいそいそとリビングのローテーブルへと運ぶ。そして、
「飲む前に、先に風呂を浴びてもいいか」
 わざと背中を向けたまま、さりげなく問いかける。
 ――追い詰めてはいけない。匂わせてはいけない。そんなことをしたら、ぎりぎりの葛藤と妥協の末に、この部屋にいてくれる、冷たくもプライドの高い、大事な人が逃げ出してしまう。
「……勝手に酒の用意をしておくぞ」
 やはりこちらを向かないままの返答に、三田村はそれでも満足して、バスルームへと入っていった。





 頭をタオルでごしごしやりながら出てきた三田村は、ローテーブルに並んだグラスと皿の数々に相好を崩した。
「おーうまそうだ!」
 一杯目はやっぱりビールだよなと、冷えた缶を手にして、
「おまえも浴びてきたらどうだ。さっぱりするぞ?」
 キッチンに立つ人に声をかけた。
 メタルフレームの眼鏡が硬質に光を弾いて、その目の表情を読ませない。だが、ややあって、三田村の背後で、バスルームの扉が開いて閉まる音がした。
「先にやってるからなあ」
 三田村はドアの向こうに明るい大声を上げた。





 風呂上りにもやはりカッターシャツにスラックスという堅い格好ながら、額に垂れかかる少し乱れた前髪や上気してしっとり艶めいた肌が、ふだんにはない柔らかな空気をいつもは冷たいばかりのその人にも纏わせている。
 テーブルの向こう側であぐらを組んだ彼を思わずしげしげと見つめてしまう三田村である。
「……人の顔をじろじろ見るのは失礼だぞ。常識がないのか、おまえは」
 すかさず相手から氷の一撃が飛んでくる。
「一週間ぶりでも、やっぱり美人は美人だと思ってなあ」
 ぽろりと本音をこぼせば、きゅっと癇性に細い眉が寄った。
「そういうつまらん文句は、女を口説く時に使え」
 三田村は黙ってグラスを空ける。「使いたい相手はおまえぐらいしかおらん」と、もう一歩踏み込んでしまいたい思いはあったが、不注意な一言でせっかく保てている均衡を崩すのはいやだった。
「……会社のほうはどうだった」
 話を無難なほうに振る。
「ああ…五月病なんぞとふざけたことは認めたくないが、やっぱりここのところ、どうにも全体に低調だったな。なんとか上半期の計画はずれずに済みそうだが、望んだ以上の成果が上がってこん。工場の現場は新入社員がようやく仕事を覚えたところだ」
 仕事の話になるととたんに饒舌になる相手に、三田村は心中、苦笑をもらす。
「おまえのほうはどうだ。今年の新入社員は?」
「研修は順調だ」
 鯖の押し寿司を口に放り込みながら、三田村はにやりと笑ってみせた。
「この一週間の泊まり研修でも、殴り合いなんぞするような馬鹿はいなかったしな」
 相手の顔に、今日初めて笑みが浮かんだ。昔の悪行を懐かしむような。
「あれはおまえが悪い。つまらん言いがかりをつけてくるから……」
「なにを言う。おまえが人を馬鹿にしたようなツラを見せるから、こっちは……」
「馬鹿を馬鹿にしてなにが悪い。しかし俺はおまえのように手を出したりはしなかったぞ」
「嘘をつけ。俺は一発殴っただけだったのに、おまえは二発も殴り返して来た上に、蹴りまで入れてきたろう!」
 目が合った。
 同時に小さく吹き出した。
「つまらんことだけ、よく覚えている」
 目を伏せて笑いながら呟く人を見つめ、三田村は視線を横に流した。
「……俺は、おまえのことは、よく覚えているんだ」
「三田村」
 咎めるような声に、三田村は、ああそうだと話題を転じる。
「熱を出したヤツがいたな。桂木が町の医者まで連れて行った」
「自己管理ができんような人間を人事部は採ったのか」
 皮肉には肩をすくめて見せた。
「おまえが絶対採ってくれと言ってたヤツだぞ?」
「…青山か」
「青山だ」
「おまえの印象はどうだ」
「おもしろいヤツだな」
「……そうか」
 水のようにグラスを空けながら、まだまだ乱れの見えない怜悧な顔に、物思わしげな色が浮かんだ。
「俺の下にもらえるかな」
「中央研究所はカタイが……あいつを欲しがってる部署は多いからなあ」
 仕事絡みの話ならば、三田村の言葉に釘を刺すセリフは出てこない。
 呑んで、つまみをつまんで、笑い、話す。
 ――ただの、友人の顔をして。ただの、酒飲み仲間の顔をして。

 



 たくさんのビール缶と数本の純米酒の瓶が空になった頃。
 酒を取りに立った三田村は元の席には戻らずに、白い肌がわずかに桜色を帯びだした人の傍らに膝をつく。
 振り向かない人の、首に手を回して引き寄せる。
 唇を奪った。
 互いの息が混ざり合う。濃い、酒精の香り。
 ――酒に酔ったふり。酒に流されるふり。それは、この関係が始まって以来の、無言の約束。
 一週間ぶり。
 三田村は熱心に、許された唇を、吸い、ねぶる。舌を引き出し、甘く噛んだ。
「……は」
 互いの唇をつなぐ銀の糸を、ぷつりと切って吐息が漏れる。
「おまえ、」
 怒ったような声は、思いもかけぬ激しさになった口付けへの、否定か、戸惑いか。
「きちんとヒゲをそれ。痛くてかなわん」
 文句を言う人は、唇の上に形よく整えられた口ひげをのぞけば、ヒゲは綺麗に剃られている。
 顎と言わず、頬と言わず、無精ひげの目立つ顔を、三田村は撫でた。
「剃ったら、好きなだけキスしてもいいか」
 尋ねれば、
「阿呆」
 怒った声が応える。
「そういうつまらん……」
 続く文句を三田村は唇で塞いだ。
 勢いで押し倒した。





 首筋に顔を埋め、シャツのボタンを性急に外す。
「……、……」
 何度も名を呼んだ。
 愛しい人はもう憎まれ口を叩いてくることもない。
 乱れた吐息にかすかに濡れた色の声が、小さく混ざるだけ。
 それさえ漏らすのは不本意とばかりに己の指を噛んでこらえようとする人の、手を取った。
「噛むな。傷になる」
 噛みたいなら、俺の指を噛め。
 歯列を割って指を差し入れれば、容赦のない歯が指を食む。
「…っ!」
 痛みをこらえて三田村は愛しい人をかき抱く。
 噛めばいい。酔ったふりでいい。
 今だけ……おまえは俺のもの。
 猛った肉棒を捻じ込んだ熱い肉の環の中で。
 三田村はしたたかに精を放った。





 ――あいつか? ああ、同期だ。呑み仲間というやつだな。






 誰に聞かれても。
 互いにそう答えるその相手を抱き締めて。
 三田村の夜は更けた。 













 

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