男の本懐

   
「おまえは俺の犬だから」番外編








  偶然入った店だった。雨の日で、駅前の道を一本入った奥にあるその店はほかに客の姿もなかった。
 藍染の暖簾をくぐってガラスの引き戸を開けると、
「いらっしゃいませ」
 と涼やかな声に出迎えられた。その声の意外な若さと張りに目をやると、カウンターの中には三十になるならずの若さの女性が和服姿で立っていた。
「なおと、上に行ってなさい」
 店の隅でノートを広げていた小学生が、うながされて素直に立ち上がる。階段があるらしく、カウンターの奥に入って行って姿が見えなくなった。
「息子なんです」
 牽制とは感じさせないほど、さらりとした言い方だった。
「ポン酒。冷やで」
 女が欲しくて来たわけではない。少しばかり酔いたかっただけだ。
 女の若さにほとんど期待はしていなかったが、突き出しの根菜の和え物は控え目な味付けが素材の旨味を引き立てていて悪くなかった。
 客ひとりだとあれこれ話しかけてくる店主が多いなか、和服に白い割烹着姿の女店主は静かに飲ませてくれた。
 控え目なメイク、後ろでまとめた髪、地味な色柄の着物、真っ白な割烹着が派手な夜の街の女たちを見慣れた目にはすがすがしい。
 恩ある人から盃をもらって、極道の世界に入って十余年。「この人ならば」と決めたオヤジについて、組織が大きくなるのに貢献し、今ではそのオヤジの右腕として若頭の肩書ももらった。次の若頭筆頭の席は心配せずとも自分のものになるだろう。
 島崎一馬三十四歳。
 脇目もふらず「オヤジのために」と尽くしてきて、ふと、自分の立ち位置、自分がこれまで尽くしてきた組のカラーが意識されるようになってきた頃だった。どこかでヤクザ者ではない自分でいられる場所が欲しかったのもかもしれない。
 島崎はその小料理屋「北野」の常連になった。




 一ヶ月に二度三度と足を運び、静かに料理と酒を愉しむようになって一年以上が過ぎても、島崎は自分がまだ十代のうちに極道の盃をもらった「スジ者」であることも、この駅前のみならず、この一帯をシマ内に収める清竜会の金バッジであることも、女店主のるいに告げなかった。
「おまえらも飲んでき」
 「北野」に来る時は舎弟たちに小遣いをやり、店にはひとりで入る。島崎にとって「北野」は、所属する組織の方向性に悩んだり、己の立ち位置に惑ったりする「普通の男」でいられる場所だった。
 もちろん、そうして続けて通ううちに、るいと色よい雰囲気になったことはあった。島崎だけではなくほかの客の前でも、るいは決して自分の女を売り物にすることはなく、誘いをかけてくる客に対してはいつもきちんと一線を引いていたが、それでもふと物寂しくなったりすることもあるのだろう、ガードがゆるんでいると感じられることはあった。しかし、そんな時にも島崎ははぐらかして一線を越えなかった。それは肌をさらして墨をしょっているのがばれるのが嫌だったからだが、女の目にはそれが誠実と映ったか、島崎が初めて店を訪れた時には小学生だった尚登が中学に入る頃には、尚登はるいの息子ではなく腹違いの弟であること、二十代のほとんどを、独身だと嘘をついていた既婚男性に捧げてしまったこと、その妻に刺されて腹に傷跡があることなどを話してくれた。
「ほんま、アホでしょ。家には絶対呼ばれへん、親にも友達にも会わせてもらえへんところで普通は気ぃつくもんでしょ? おかしいおかしい思てんのに、自分でも自分をだまして都合のええ女になっとったん。もうほんま、救いようのないアホでしょう?」
 そう言って「もう男はこりごり」と笑うるいの顔は、女性の一番輝く時間を男の不実に潰された恨みも、嫁入り前の躯を文字通り傷物にされた哀しみも、すべて飲み込んで、静かで美しい。
 そんなるいを相手に、島崎もまた、自分が所属している組織が急成長を遂げていること、そのトップの手腕には感心しつつも、あまりに「目的のためには手段を選ばない」あこぎさに時々やりきれなさを覚えること、二代目として育てられている息子への教育方針にも疑問があることなどを少しずつ、こぼすことができた。
 そのトップの二代目――竜田の一粒種・政宗と、るいの異母弟の尚登は偶然にも同い年だった。両親ではなく、年の離れた姉に育てられていても、尚登は屈託のない、明るい野球少年だった。ヤクザの二代目として育てられている政宗にも、その政宗が「犬」と呼んで「飼っている」少年・悠太郎にも、尚登のような無邪気な明るさはない。
(ほんまはこうやわなあ)
 政宗にも、悠太郎にも、歪で過酷な環境で育てられていることへの同情は島崎の中に色濃くある。ヤクザの愛人とされながら、まだ産後数日の身で生まれたばかりの政宗を抱いて産院から逃げ出した政宗の母、その母から引き離されて修羅の家に引き取られた政宗。「極道のエリート教育」をうたって、組長の竜田勇道は政宗にそれこそトラウマものの暴力的かつ衝撃的な場面に数多く立ち合わせている。その政宗も、その政宗に犬扱いされている悠太郎も、哀れだった。彼ら自身にはなんの罪もないのに、まるで罰を受けさせられているかのようなその環境に、島崎は痛ましささえおぼえていた。
 しかし――尚登のまっすぐで素直な感情や子供らしい眼差しの純粋さに触れるたび、政宗と悠太郎がどれほどその健全さを損なわれているか、嫌でも意識するたびに……島崎の中にはそれまで思いもしなかった感情が呼び起こされるようにもなった。
 嫌悪だ。
「悠太郎は犬や」
「政宗様」
 同級生を犬呼ばわりする政宗にも、首輪を咥えて差し出す悠太郎にも、島崎は胸痛むような哀れさを覚える。なのに、尚登の健やかさを目にしたあとは、彼らの歪みが、その心の奇形が、より目につくようになってしまったのだった。
(俺はなにを……)
 政宗も悠太郎も、望んでこんな環境に生きているわけではない。深海に棲む生物が、その過酷な環境に適応するために姿や形を変えたように、彼らもまた、本来の素直さをそのままにしてはとても耐えられないような環境に置かれて、適応のために心を曲げただけなのだ。――頭ではわかっていても、水圧でひしゃげてしまった深海生物の奇怪な造形に嫌悪を覚えてしまうように、島崎は彼らのいびつさに嫌悪を感じるのを、どうしようもなかった。
 そんな、表には出せない、心の底に嫌な澱のように溜まったものを吐き出すためにも、また島崎は「北野」に足を運ぶ。
 「北野」は島崎にとってのオアシスだった。




 一度も肌を合わせたことがないままに、るいと過ごした時間だけが増える。
 島崎が「北野」に通いだして四年が過ぎ、尚登は中学三年生になった。
「いらっしゃいませ」
 暖簾をくぐって引き戸を開くと、るいの柔らかい声が出迎えてくれる。るいは店に入って来たのが島崎だとわかると、目元をわずかばかりなごませる。
「……こんばんは」
 島崎も、店に入るとまるで我が家に帰ったかのように気がゆるむようになっていた。「ただいま」と思わず言いそうになるのを他人行儀な挨拶に切り替える。
(おかしいやろ)
 深い仲になってもいないのに。
 もしも、自分が毎日帰る場所にるいがいてくれたら。自宅に帰った時に、いつもこんな柔らかく温かい空気が迎えてくれたら。そんな想像を巡らせてしまう自分に島崎は苦笑した。
(けどほんまにおかしいか?)
 ひとりで飲み屋を切り盛りしていても、るいにほかの男の影はない。るいももう三十半ば、島崎とは四つちがい。「男はこりごり」と笑う傷物になった女と、刺青をしょった男が所帯を持つのは、それほどおかしなことだろうか。
「俺、野球で推薦がもらえるかもしれんねん」
 恥ずかしそうに、でも誇らしそうに尚登が報告してくれた時、島崎は自分でも意外なほどにうれしかった。
「ほお! すごいやないか! なんや尚登、将来はプロ野球選手やな!」
「もう、島崎はん、そんなおべっか言わんといて。いい気んなったら困ります」
 苦笑気味なるいの横で、尚登は、
「プロとかはむずかしい思うねんけど、でも、推薦もらえたら学費が浮くし……」
 とはにかんでいた。
 そんな尚登の父親代わりになるという想像は、島崎の胸を温かくする。
 るいに自分が組員であることを告げて、求婚する――その決心を固めた矢先に、しかし、清竜会組長である竜田勇道の口から「駅前再開発」という名目の地上げの計画を島崎は聞かされたのだった。




 暴力団のやり方で地元住民を安い金で立ち退かせ、まとまった土地をゼネコンに高く売りつける、あるいは大きなハコモノを作って利権を貪る。それは暴力団としては「正しい」しのぎのあり方だ。
 駅前に十数軒並ぶ商店とその奥に並ぶ飲食店街は昭和の時代から建っているものばかりで、シャッターが下りたままの店舗も目立つ。駅前活性化は地域振興の要として役場も指導に乗り出している。そこに一枚噛んで甘い汁を吸おうという竜田勇道の目の付け所は、確かにいい。
「オ、オヤジ……そのシノギ、俺にまかせてもらえませんか」
 島崎は自分から名乗りを上げた。兄弟分の藤崎が露骨に嫌な顔をするのを無視して続ける。
「年末までにきっちり全員立ち退かせますさかい……」
「……ほお。おまえがやるか、島崎」
 勇道は島崎の名乗りににやりと笑った。
「ほやけどなあ……。聞いとるで。おまえのええのんがそこで商売してんねやろ? おまえのことや、女にうつつ抜かしてヘタを打つことはないやろけど、妙な仏心が出るっちゅうこともあるんちゃうかあ?」
 「北野」のことを勇道に知られている……島崎は鳩尾がすっと冷たくなった。
「確かに……常連になっとる店はありますが……そんな男と女の仲ゆうわけでは……」
「ほな口説いとる最中か」
「……とにかくきっちり、期日までに立ち退かせます。あとに禍根を残さんように……」
「ほうか。したらまあ、そこは島崎にまかせよか」
 その勇道の言葉にほっとして島崎は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「一千万や」
 その島崎の頭に、勇道の声が落ちた。立ち退き料は一千万まで出せるということか。それは条件としては悪くない。
「それなら……」
 話は早い。るいと尚登は「北野」の二階で暮らしているが「北野」の建坪は十坪もない。駅前とはいえ路地の奥だ、坪単価は五十万ほどか。一千万あれば新しい地でやり直すには十分なはず……。
「全部でや」
 しかし、島崎の計算は勇道の声にさえぎられた。
「え、全部?」
「せや。どうせ小さい店ばっかやろ。一千万でなんとかし」
「それは……」
 駅前の商店だけで十軒以上、裏の飲食店を合わせれば二十軒以上になる。その立ち退き料の上限が計一千万となれば一軒あたり五十万もない。引っ越し代金に毛が生えたほどにしかならない額だ。
「オヤジ、それはいくらなんでも無理ちゃいますか……」
 思わず言葉を返すと、勇道の目がぎりっと吊り上った。
「無理? なにが無理やねん。おまえ、俺に逆らうんか」
「すんません! 言葉が過ぎました!」
 あわてて頭を下げる。
「慈善事業しとるわけやないんやで! ……まあええわ」
 大声で怒鳴ってから、勇道はふうと息をついた。
「おまえがでけんゆうなら、この仕事は藤崎にまかす。どや、藤崎、やってみるか」
 藤崎が顔を輝かせて躯を乗り出す。島崎はあわててその前に躯を割り込ませた。
「やります! 一千万、一千万で、あの一帯、立ち退かせます!」
 叫ぶと、藤崎がこれみよがしに舌打ちした。
「そうかあ。でけるかあ。ほな、この仕事は島崎にまかそか」
「はい」
 もうあとはうなずくしかない島崎だった。




 チンピラを動かして嫌がらせを繰り返す。相手が十分に怯え、もうここでは商売はできないとあきらめかけた頃合いを見計らって、はした金をチラつかせて転居を迫る――地上げの典型的な手口だ。
 しかし、あまりにあくどいやり方をすれば後に禍根が残る。警察沙汰や裁判にされるのも厄介だ。
(どうする)
 通り沿いの商店だけで十四軒、裏の飲食店が七軒、合わせて二十一軒の立ち退き料を、いったいどうしたら一千万で収めることができるのか。そして「北野」の立ち退き料が五十万もなかったら、るいと尚登はどうやって新生活を始めるのか。
(なら俺の金を出して……)
(いや、いっそ……)
 るいと一緒になることは前から考えていた。この際、るいに求婚して、店をたたんでもらうというのも一策だ。それはもちろん、るいの同意があればだが。
 だが、それからしばらく、島崎は組の仕事でいそがしく、すぐには「北野」へ行けなかった。「駅前再開発の前に」とシマ境の抗争を勇道にまかされたせいだ。ようやく「北野」の暖簾をくぐることができたのは一ヶ月も先になってからのことになってしまった。
「……まあ、お久しぶりです。お元気にしたはりました?」
 るいはにっこり笑っておしぼりを出してくれたが、一瞬、その顔を暗い影がよぎったように見えた。
「おかげさんで。女将さんは? 変わりのう?」
「ええ、おかげさまで」
 口ではそう答えたが、その時、るいは島崎の目を見ようとはしなかった。
「尚登君も? 相変わらず野球ですか」
 尚登の名を出すと、今度ははっきりとるいの顔に動揺が走った。
「……ええ、まあ……」
「なんぞ困ったことでも?」
「……まあ、むずかしい年頃ですから。……お酒、いつもので?」
「ああ、はい」
 いい雰囲気になっていたとはいっても、実際に肌を重ねたことはない。るいの態度がおかしくても、ほかの客もいる前で、ただの常連客である島崎にはそれ以上踏み込むことはできなかった。
 どうしたのか、なにかあったのか。
 胸騒ぎをおぼえた島崎はすべての客が帰るのを待って、るいに再度、「なにがあったのか」と問いかけた。しかし、「なんもありません」と笑顔で首を振るるいに、なにを言うこともできなかった。
 その時に、るいを問い詰め、強引に迫らなかったことを、あとになって島崎は死ぬほど悔いた。
 四日後に島崎が訪ねた時にはもう、「北野」には臨時休業の張り紙があったのだった。




 たった一ヶ月、店に行けなかっただけだったのに。
 その一ヶ月のあいだに、尚登は本屋で万引きして捕まり、野球部は退部になって高校への推薦は取り消されていた。ヤケになった尚登に近づいたのは同じ中学の卒業生たちだった。高校生もいれば中退してフリーターのような者もいるそのグループは喧嘩も引ったくりもカツアゲも上等という不良集団で、尚登はあっという間にそのグループに取り込まれてしまっていたのだ。
 るいはるいで、同じ頃、店によく通ってくるようになった男といい仲になったという。尚登を心配するるいに、男が教えたのは麻薬だった……。
「嘘や……」
 店の権利を男に二束三文で譲り渡したあと、るいが男の勧めるままにソープ勤めを始めたというところまでを舎弟から聞いた島崎は呻いた。
――嘘だ。
 尚登は万引きするような少年ではないし、るいは新規の客にかんたんに躯を許すような女ではない。
(仕組まれたんや……)
 勇道の指示でシマ境の抗争で陣頭指揮に当たっていた一ヶ月。駅前の地上げの件は気になっていたが、シマを争っての他の組との抗争とシマ内の地上げでは優先度は歴然としている。地上げは内部で処理できるが、抗争は相手がある話だ。
「清竜会のメンツがかかっとんねん」
 と勇道に言われれば、若頭筆頭である島崎が出て行かないわけにはいかなかった。
 抵抗を続けていた相手の組を傘下におさめて戻ってきてみれば、「北野」だけではない、ほかの商店も事故死や自殺が相次いで、駅前は閑散としていた。地上げはすでに八割方、終わっていたのだ。
 勇道の指示で藤崎が動いたのだった。
「兄貴には兄貴にしかでけへん仕事がある。オヤジにも兄貴ばっかり頼っとったらあかん言われて、ちょーっと頑張ってみたんですわ」
 問い詰めた藤崎はにやにや笑ってそう言った。
「あ? なんぞ問題ありましたか。まあ、今回はタイミングが合わんかったゆうことで……。兄貴は優しいとこあるよって、こういうシノギは向いてへんかもしれへんって、オヤジ、心配してくれはったんとちゃいますか」
 総額一千万での立ち退きは無理だと思わず口走ったことへの報復だと、その藤崎の言葉から知れた。
 るいとは結局は店の女将と客という関係でしかなく、勇道に紹介するような仲にはなっていなかった。しかし――自分が彼らを守ろうとしていたこと、だからこそ、その地上げの仕事は自分にやらせてほしいと申し出たのだと勇道は知っていたはずだ。
(こんなあこぎな……知っとりながら……)
 金のためならなんでもあり、勢力拡大のためには手段を選ばない、清竜会がそういう組織であることも、勇道が残忍性を色濃く持っていることも島崎はとうに承知していた。だが、言ってみれば一の子分である自分に対してまで、こんな方法を取ってくるとは……。
(極道にかて、極道なりの仁義があるはずや。義理も、人情も、なんもかんも踏みにじって、ただただ強うなればええゆうもんやない)
 爪が手の平に食い込むほど握り締めて、島崎は歯噛みする。
(こんなんは、おかしい。こんなんは、極道のなかでも外道や)
 こんな組にいたくない。こんな組長をオヤジと呼んでいたくない。
 勇道の息子・政宗の代になっても、勇道は死ぬまで実権を手放しはしないだろう。よしんば、勇道が死んで政宗が跡を継いだとしても、もう中学生になるというのに、いまだに政宗は幼馴染の悠太郎を「犬」扱いしている。それが奇妙に歪んだ依存だということはわかっているが、勇道のあと、また人の心を持たぬ人間に使われたくはなかった。
(清竜会はもうダメだ。俺は……俺の組が欲しい……!)
 竜田勇道の子分となって二十年近く。それは島崎が初めて抱いた野心だった。




 清竜会を抜けて、自分の組を持ちたい。そんな野心が万一勇道に知れたら、身の破滅だ。勇道は子分の独立心を喜ぶより、自分への反抗だと怒り狂うにちがいなかった。
 勇道の逆鱗に触れることなく、清竜会を抜けるにはどうすればいいか。
 考え始めた島崎の前に、ある話が飛び込んできた。
 仁和組古参の城戸泰造が跡目を探しているという話だ。
 それは勇道の不興を買うことなく自分自身の組を持ちたい島崎にとって願ってもない好機だった。清竜会を仁和組一の組に押し上げたい勇道に、子飼いの島崎に城戸組を継がせて一気に勢力拡大を狙おうという目論見があるのはわかっていたが、いったん城戸組組長となれば、今は勇道がどんなつもりでいるにせよ、一国一城の主だ。城戸翁の後ろ盾もある。仁和組のほかの組長との折衝次第で、清竜会から離れるのはむずかしくないだろうと島崎は踏んだ。
 勇道とともに訪れた城戸邸で、一度は「清竜会からわしの跡継ぎを出してもらうことはない」と断られながら、島崎は次の日、ひとりでふたたび城戸邸を訪れた。城戸組の跡目がなんとしても欲しかったからだ。
 残虐非道な勇道から離れるために、城戸翁から「おまえをわしの跡取りとする」という言葉をもらうために、島崎は城戸邸の庭先で、半日、冷たい雨に打たれながら土下座を続けた。何度か意識が飛びそうになり、そのたび、るいの笑顔が、尚登の無邪気な瞳が、眼裏に浮かんだ。
 しかしそれだけしても、島崎の望みはかなわなかった。城戸の跡目は二葉組組長の養子である二葉輝良が継ぐことになったからだ。
 それを知らされた夜、島崎の元には別の知らせが届いた。尚登がバイク事故で死んだという知らせだった。
 その夜、島崎は鬼になることを決めたのだった。




 自分の組が欲しいなら、自分が清竜会を継げばいい。
 そのためにはなにをどうすればいいのか、島崎にはわかっていた。




 竜田勇道の一人息子・政宗。
 勇道言うところの「極道のエリート教育」を受けた政宗は顔色ひとつ変えずに泣きわめく男の指を出刃包丁で切り落とす。同い年の少年を「犬」と呼び、家のなかでは首輪をさせ、ご飯もひとり、床に座らせてとらせる。学校ではわざとトラブルを起こし、自分をいじめさせ、その尻拭いを「犬」にさせる……。
 少年本来の伸びやかな明るさも、健全な正義感も持ち合わせない、勇道が作ったいびつな人形。
 そんな彼が、しかし、精神的にとても弱い部分を持っているのを島崎だけは気がついていた。
 実母の葬儀で自分に遺された母の手紙にショックを受け、泣きながら葬儀場を飛び出した彼はその後、高熱を出して倒れた。「犬」である悠太郎の母の命乞いをしたあとはトイレで吐いた。
 飛び出した政宗を追った時も、吐き続ける政宗の背を撫でた時も、島崎は痛ましさと同時に、ある思いに囚われた。それは――「この子はこのまま死んだほうが幸せなんちゃうか」という疑問だった。
 父親にトラウマものの残虐行為をこれでもかと見せられ、時には人を傷つける行為を強制される政宗。その彼が本当に自由になるには死ぬしかないのではないのか。
 一瞬でもそんなことを考えた自分を叱りながら、島崎は道路に飛び出そうとした小さな躯を抱き留め、えづき続ける細い背中を撫で続けた。だが、母の手紙に傷つき、嫌悪感から吐く、その政宗が本当に勇道の跡取りとなって幸せだとは島崎には思えなかった。
(こんままぼっちゃんが清竜会を継いでも、ぼっちゃんも組員も、幸せにはなれん)
 それは島崎の確信だった。
 勇道を喜ばせる、政宗の人を人とも思わぬ歪んだ嗜虐心と支配欲は、組員もそしてその周辺の人間も巻き込んで不幸にする。そして同時に、勇道の息子とは思えぬ線の細さは政宗自身を苦しめるだろう。
(俺が清竜会をもらう。それがぼっちゃんにとっても組にとっても、一番ちゃうか)
 政宗を排除するのに、彼を殺す必要はなかった。ただ、壊せばいいだけ。
 そのための布石を、島崎はひとつひとつ、打つことにした。
 まずは政宗が歪んだ依存をしている「犬」を遠ざける――。
 そのためには……。




「ぼっちゃんの犬ですよ」




「……おおきに。島崎。おおきに……」
 16歳の誕生日に島崎が贈ったアラスカンマラミュートの子犬に、政宗は本当にうれしそうに頬ずりした。
「……よかったですね」
 そんな政宗に「犬」である悠太郎は複雑な表情を浮かべたが、本物の子犬に嫉妬しているようなその顔に、政宗は気づいてすらいないようだった。
(これでええ)
 鬼になる。
 覚悟を決めた男が打った一手目は、無邪気な子犬の姿で政宗の腕の中にも、心の中にも、入りこんだのだった。








                                            男の本懐 終    




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