「レディ、ゴー!」って言葉。
“Ready, go!” 、日本語にすると「用意、ドン!」。
だけど、ぼくはこれ、長いこと“Lady, go!”だと思ってて。なんで女の子だけ走るんだろう、女の子に呼びかけてんのに、なんで男も走らなきゃいけないんだろうって、ずーっと疑問だったりして。
あ。別に。それだけのことなんだけど。うん。
* * * * * *
ぼくのそんなおバカな話も、ケンジおにいちゃんはいつもニコニコ聞いてくれる。それで、
「じゃあさ、真澄、ドンマイが英語だって知ってる?」
なんて振ってきたりして。
「えー知らない! スポーツとかで失敗したときに言う『ドンマイ』だよねえ? あれって英語なの?」
ぼくが目を丸くすると、
「元々は“Don't mind”、気にするなっていう意味の英語なんだよ。それが詰まって『ドンマイ』なんだけどね、このmindって言うのは気にする、心配する、注意するっていう動詞でもあれば、心や精神を意味する名詞でもあるんだよ」
って、ちゃんとおバカなぼくにもわかるように答えてくれる。
カッコよくて優しくて、頭もいいケンジおにいちゃんは、ぼくの隣のウチに住んでる。ぼくが小さい時からよくいっしょに遊んでくれて、勉強も教えてくれて、ぼくはキャッチボールも逆上がりもお父さんじゃなくてケンジおにいちゃんに教えてもらった。
ぼくはケンジおにいちゃんが大好きだった。
ところが。
ぼくが高校上がったばかりの、ある日曜日のこと。
おかあさんがなんか朝からそわそわしてて。
「10時からですって。もうお出掛けになったかしら」
なんて、リビングの窓越しにケンジおにいちゃんの家のほうを何度もうかがってたりして。
「え、なに、なんかあるの?」
聞いたら、ウフフ、なんて気味悪く笑ってる。
「ナイショよ〜。お隣の健二さんね、今日ね、お見合いなんですって。お見合い。お相手はどんなお嬢さんかしら〜」
おかあさんの浮かれきった声を聞きながら、ぼくは視界がゆっくりと暗くなっていくのを感じた。……え。なに。お見合い? おにいちゃんが……?
「健二さん、まだ26なんだから早いってずいぶん抵抗なさったらしいけれど、お父様の会社のえらい方に頼まれて断れなかったって。いいわね〜若い人は」
……頼まれて無理矢理押し付けられたお見合いのどこがいいんだろう。でも、おかあさんのうっとりした顔を見たら、そんなことも言えなくて。
お見合い。
おにいちゃんがお見合い。
……どうしよう。
おにいちゃんが結婚しちゃう。
いやだ、と思った。おにいちゃんが結婚する。誰か知らない女の人のものになる。いやだった。そんなの、心の準備ができてない!
その日、ぼくはじりじりしながら、二階のぼくの部屋の向かいにあるおにいちゃんの部屋の明かりがつくのを待った。
朝の10時からだっておかあさんは言ってた。もう時計は夜の7時を回ってる。……ケンジおにいちゃん、なにをしてるんだろう、どうしてこんなに遅いんだろう。不安で不安で、涙が出そうだった。
ようやくおにいちゃんの部屋の明かりがついた時には、もう我慢できなかった。
「おにいちゃん、ケンジおにいちゃん」
ぼくは窓から身を乗り出すようにして向かいの窓に呼びかけた。
窓はすぐに開いて、ネクタイをゆるめながらケンジおにいちゃんが顔を出した。
「ケンジおにいちゃん……」
「真澄、どうかしたのか?」
ぼくの泣きそうな顔に気づいたのか、おにいちゃんが身を乗り出してくる。
「そっち行ってやろうか? それともこっち来るか?」
「……そっち行く」
ぼくはよっこらせと窓枠を越える。ほとんどくっつきそうな軒は、おにいちゃんが腕を伸ばしてくれればぼくでも簡単に渡ることができる。
「どうした? 泣きそうな顔してるぞ?」
おにいちゃんがしゅるりとネクタイを抜き取りながら、ぼくの顔をのぞきこむ。
「……ケンジおにいちゃん、結婚したら、やだ」
「え」
ぼくの思い切った一言に、ケンジおにいちゃんの目が丸くなった。
「結婚したら、やだ」
ぼくは頑固に繰り返した。
「やだ」
「ちょ、ちょっと真澄、結婚って……」
「聞いたもん」
ぼくは上目遣いでケンジおにいちゃんをにらむ。
「今日、お見合いだったんでしょ、おにいちゃん」
「……あー。かあさんに聞いたのか」
どうしようもなく哀しくなって、ぼくはうつむいた。
「……綺麗な人だった? 優しそうな人だった?」
うーん、と唸ってケンジおにいちゃんはあごの下を掻いた。
「……綺麗だし、優しそうな人だったけど……ぼくは結婚なんかするつもり、全然ないよ」
「ウソ!」
ぼくは叫んでた。
「おじさんの会社のえらい人の紹介なんでしょ! 断れないんでしょ!」
「いや……一度も会わずに断るわけにはいかないから、ムリムリ、一度会っただけで……ぼくは結婚なんかしないよ? この話はもう明日にも断るつもりだし」
ケンジおにいちゃんの言葉を聞いても、今日一日の不安はそんなに簡単に消えていかない。
「じゃあ……じゃあ、どうしてこんなに遅いの? お、お見合いした人とずっと……」
「ああ、」
ケンジおにいちゃんはにこりと笑った。
「たまってる仕事があったからね、昼前からずっと会社にいたんだ」
「……ウソ……」
「ホント」
ほっとしたのと、なんか恥ずかしいのが込み上げて来て、ぼくは顔を上げられなかった。
「ウソ……」
「ホントだって」
ケンジおにいちゃんがぼくの顔を下からのぞきこんでくる。
「それよりさ。真澄、どうしてぼくが結婚したらイヤなのか、教えてくれないか?」
「…………」
「さっき、真澄、言ったよね。ぼくが結婚したらイヤだって。それはどうしてなのかな?」
顔がゆっくり、でも、しっかり熱くなっていくのがわかる。うわ。どうしよう。きっと真っ赤になってる。
「……どうして?」
いつもは優しいおにいちゃんが、意地悪く繰り返す。
「理由が言えないならいいね? ぼくが結婚しちゃっても?」
「だ、だめ!」
ぼくは慌てて首を横に振る。
「それはダメ!」
「でも理由がわからないんじゃあ……」
ケンジおにいちゃんは意地悪そうに笑うと、背を伸ばしてしまう。ぼくはとっさにその腕を掴んでいた。
「す、好きだから……!」
ぽろりと本音がこぼれた。
「ケンジおにいちゃんのこと、好きだから……だからっ……」
おにいちゃんはもう一度腰をかがめると、視線をぼくの目の高さに合わせてくれた。
「うれしいなあ」
本当にうれしそうにケンジおにいちゃんは笑っていた。
「ぼくも真澄のことが大好きだから、すごくすごくうれしいよ」
真澄のことが大好き。その言葉を聞いて、胸の中が一度にあったかくなった。
「ケンジおにいちゃん…」
「だけどね、」
おにいちゃんは、やっぱりまたちょっと意地の悪い目つきになった。
「結婚っていうのは大事だろ? もし真澄が本当にぼくに他の人と結婚してほしくないって思うなら、真澄がぼくの奥さんの代わりになってくれなきゃいけないよ?」
「か、代わり!?」
奥さんの代わりって、なに!? どうするの!? うろたえたぼくの唇に、おにいちゃんの唇が近づいて……ちゅ。ぼくはおにいちゃんにキスされていた。
「どうする? 奥さんの代わり、真澄にできる?」
こくっとぼくは唾を飲み、小さく、だけど、しっかりうなずいた。
「が、がんばる」
そう答えた次の瞬間、ぼくはおにいちゃんに抱き上げられ、ぼくの足は床からふわりと浮いていた。
ベッドの上にぱふんと下ろされた。
すぐにおにいちゃんが覆いかぶさってくる。
キス、された。
さっきみたいな、唇が触れ合うだけのキスじゃなくて、おにいちゃんの舌がぼくの口の中を嘗め回していく、キス。
すごくドキドキして、すごく気持ちよかった。熱くて……ぬたりとして……いやらしく蠢く、おにいちゃんの舌。
「……ふ、ンッ……」
ぼくはおにいちゃんの腕にすがりついて、必死に耐えた。
だけど、おにいちゃんはキスだけじゃなくて、どんどんどんどんコトを進めてきて……、
「真澄、かわいいよ」
とか、
「ずーっと、ずーっと、真澄にこんなことしたいと思ってた…」
とか、
「真澄、かわいい……夢みたいだ、こんな……」
とか、いつものおにいちゃんとはちがう、ちょっと上ずった、吐息交じりの声で囁いてもきて、ぼくはもう、ドキドキしすぎて心臓破裂しちゃうんじゃないかと思った。
服ももう、いつの間にか脱いで脱がされてて、おにいちゃんもぼくも真っ裸で……。おにいちゃんの唇がぼくのうなじをたどる。胸の……その、尖りを吸う。
「ひゃ…っ、アンッ……うぅん…!」
ソコからびりびり、むずがゆさにも似た痺れが全身に走って、ぼくは仔犬が鳴くときみたいなヘンな声を上げていた。恥ずかしくて恥ずかしくて、どうにかなっちゃうんじゃないかと思った。だけど……こらえなきゃ。ぼくはおにいちゃんの奥さんの代わりになるんだ。いくらぼくがおバカでも、その意味くらい、ちゃんとわかってる。
――けど。いよいよおにいちゃんの手がぼくの股間に忍び込み、自分でも触ったことのない部分に触れてきた時……、
「あっ! だ、だめっ!」
ぼくは足を閉じ、おにいちゃんの手から逃げようと身をすくませていた。
「真澄……」
おにいちゃんが困ったようにぼくを見る。
「やっぱり、イヤ?」
あ……。イヤじゃない、イヤなんじゃない! けど、けど……なんていうか、まだ、心の準備ができてない!
心配そうにぼくを見てくるおにいちゃんの股間のモノが、もうしっかり大きく高くなっているのが目に入って、ぼくは泣きたくなった。
イヤじゃない、イヤなんじゃない! けど……この展開は急過ぎる、急過ぎるよ、おにいちゃん!
「……すまない、真澄」
おにいちゃんの手が閉じ合わせたぼくの膝にかかる。
「え、イヤ! ま、待って、待ってよ、おにいちゃん!」
「大丈夫だから、もう何もしないから」
おにいちゃんがぼくをなだめるように言う。
「怖がらせて悪かった。もうさっさと済ませるから……だから、真澄の、見せてくれないか」
……え?
「真澄のココはどんなんだろうって、ずっと考えてた。見てみたいなあって思ってたんだ。……だから」
ぼくは驚いておにいちゃんを見つめた。
「お、おにいちゃんはずっと……ずっと、ぼくの、その、裸を見たいなあって思ってたの…?」
おにいちゃんの口元に苦笑が浮かんだ。
「好きな相手の全部を見たいと思うのは当然だろ?」
ぼくはちょっと、なんていうか、じーんと来るものを覚えてた。
「ケンジおにいちゃんは……ぼくの裸が見たかった? ぼくと……セックス、したかった? ずっと?」
おにいちゃんは今度は優しくふわりと笑った。
「うん。そうだよ。ぼくはずっと前から真澄とこんなことしたいなあって思ってたよ。……けど、真澄はまだ子どもだから。誰を好きになるかわからないから。ずっと諦めてたんだ。……悪かったね、真澄もぼくのことを好きでいてくれるってわかって、急ぎすぎたね」
ううん! ぼくは思い切り首を横に振った。
「ぼく、ぼく、びっくりしただけだから! おにいちゃんのこと、大好きだから……だから!」
「真澄」
おにいちゃんはぼくのおでこにチュってキスした。
「ありがとう。だけど、今日はやめておこう。真澄、本当はまだちょっと怖いんだろう?」
「そ、そんなこと……」
マズイと思ったけれど、声が少し震えた。……だって。おにいちゃんの、おっきぃ……。
「無理しなくていい。この次は、ちゃんと真澄に聞くから」
「き、聞くって?」
「うん? そうだな、“Are you ready?”って」
ぼくはその日からドキドキしながら待ってる。
おにいちゃんに、“Are you ready?”って聞かれるのを。
そしたら、ぼくはにっこり笑って答えるんだ。
YESって。
了
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イラスト:<WOW!> Anis
こちらは<きす&らぶバージョン>となっております
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