ぼくたちの真実の証明<12>
 





 エレベーターは最上階までしか通じていない。ぼくは屋上に通じる階段を駆け上がり、体当たりする勢いで外への扉を押し開けた。すぐ後から東が続く。
 急いで周囲を見渡す。
 屋上には洗濯物が干せるようなステンレスのポールがずらりと並び、周囲は高さ1メートルを超える壁がぐるりと囲んでいる。
 その壁の前に。
 ちょうど、ぼくが出てきた扉と向かい合う位置の壁の前に、先輩が立っていた。
「河原先輩!」
 叫んで駆け寄ろうとしたぼくを、先輩が振り返る。
 そして、ほんの軽いひと動作。
 ひょいと先輩は壁に乗り上がってしまった。
「それ以上、近寄らない」
 片膝ついた姿勢で先輩はぼくたちに命じる。
「おまえ……!」
 一歩前に出ようとした東に、
「東」
 先輩はきつい眼差しを向けた。
「おまえに余計な口出しはされたくない。俺は本気で飛び降りる」
「…………」
 数瞬、先輩と東は鋭く睨み合った。
 その合間にも冬の冷たい風が屋上を吹き抜けて行き、いつ先輩のバランスが崩れるかとぼくは怖かった。
「先輩……お願いです、そこ、降りて下さい。危ないです」
 ぼくは先輩を刺激しないように、なるべく落ち着いた声で、でも、必死に訴えた。
「飛び降りるなんて、言わないで……」
「高橋」
 先輩はぼくにどこか疲れたような笑顔を向けた。
「こんなことになって、おまえには悪いと思ってるよ。街で偶然おまえに再会した時には、自分がこんな気持ちになるなんて、俺自身、思いもしなかった。最初は本当に、おまえは可愛い後輩でしかなかったんだよ。それまで男を好きになったことは一度もなかったし、好きになれるとも思ってなかった。だけど……優しい先輩の顔でおまえを慰めてるうちに、俺はおまえに本気になった。おまえが可愛くて仕方なくて、ずっと一緒にいたくなった」
「先輩……」
「おまえが東を好きなことは知っていたよ。付き合っている間も、いつかおまえは東のところへ帰って行くだろうと思ってた。わかってたんだけど……」
 先輩はふっと目を伏せた。
「しょうがないな。いざ、おまえに別れを切り出されたら、耐えられなかった。……俺は、おまえが欲しい。それがかなわないなら……」
 先輩の視線が壁の外へと流れる。
 このマンションは十数階の高さがある。先輩に見えているだろう、眼もくらむような高さから見下ろした風景を想像して、ぞっとした。
「先輩! ば、ばかなこと考えないで、こっちに降りて下さい! 早く!」
「高橋にとってはばかなことかもしれなくても、高橋と過ごせないこれからの人生なんて、俺にとっては意味がないんだ。……もしも、」
 言葉を切って、先輩は真剣な眼差しでぼくを見つめた。
「……もしも、おまえが俺のところに戻って来てくれるって言うなら、話は別だけど」
「あ……」
 言葉も出ないってこういうことだろうか。ぼくが先輩のところに戻るなら? 戻るなら、先輩はここから飛び降りたりしない? でも、ぼくは、ぼくは……。
「河原!」
 茫然としてしまったぼくの横で、東が凛と声を張った。
「おまえが本気で飛び降りると言うなら、俺も本気で言いたいことがある。いいか」
 鷹揚に、先輩は東に向かってうなずいた。
「俺の本気をわかってくれたなら、どうぞ。おまえも言いたいことを言えばいい」
 もうやめてほしい。本気で飛び降りるとか、そんな怖いことは、もうやめてほしい。
「秀」
 やっぱり、ぴんと張りのある声で、東はぼくの名を呼んだ。きつい調子のその声は、泣きたいような気持ちで、この場から逃げ出したくなってるぼくの背中を、見えない手で支えてくれるようだった。
「秀。人は死んだら、それまでだ」
 東がなにを言い出したのか。わからなくて、ぼくは東を振り返った。真摯な光をたたえた瞳がそこにあった。
「死後の世界だとか、生まれ変わりだとか、そんな話が嘘か本当か、俺は知らない。俺が知ってるのは、人は死んだらこの世からいなくなるっってことだ。消えてしまって、もう二度と戻って来ないし、どんなに親しい人でも、二度と会うことはできない。だから人は人が死ぬと悲しいんだ」
 東の視線が先輩に向けられた。
「……こんな腹の立つ男でも、こいつにも家族がいる。こんな馬鹿な死に方でも、こいつが死んだら、家族は泣くだろう。何年も何年も、こいつがいなくなったことを悲しむだろう。人の死は……それだけ、重い」
 重い。母親をなくした東だから、その言葉の意味が胸に迫る。
 東は先輩に向けていた眼をぼくに戻した。まっすぐに見つめてくる瞳の、強い光。
「人が死ぬのは簡単なことじゃない。大勢の人が泣いて悲しんで、家族は深く傷ついて……それを背負っていくのは、それこそ死ぬよりつらいことだろう。俺だって、母親が誰かのせいで死んでたとしたら、そいつを一生、許せなかったと思う」
 うん。小さくひとつ、ぼくはうなずく。東の嘘のない言葉が、まっすぐにぼくの胸の中に入ってくる。
「人が死ぬことの重さとか悲しさとか、残された家族の痛みとか……それがハンパなものじゃないことは俺も知ってる。だから、本当なら俺は今、おまえに河原を見殺しにするなって言うべきなんだと思う。人の死を背負うようなことになるなって言うべきなんだと思う」
 冬の日を受けて、東の瞳が光る。強く、まっすぐ、ぼくに向けられる瞳。
「だけど、俺はそうは言わない」
 ぐっとその瞳が力を増した。
「一生、一緒に、その重さ、背負ってやる」
 ああ……。
「人ひとり、死なせた重さも、痛みも、後悔も、罪も、全部一緒に背負ってやる」
 力強い声。強い眼の光。
 東が差し出してくれる気持ちが、すぐに挫けたり流されそうになる、情けないぼくの心をしゃんと奮い立たせてくれる……。
「ありがと、東」
 ぼくもまっすぐに東の目を見返して、ぼくは精一杯の感謝の気持ちを短い言葉に乗せた。ありがとう、そこまで言ってくれて。ありがとう、そこまでの気持ちを持ってくれて。ぼくは本当に君が好きだよ。いつも流されて、考えなしで、うろたえてはとんでもないことばかりしてしまうぼくだけど。君の言葉のおかげで、今は自分の気持ちに真っ直ぐになれるような気がする。
「河原先輩」
 高い壁の上にいる先輩へと向き直った。
「ぼくは先輩と付き合います」
「秀!」
 横から東が非難するように叫んだけれど、ぼくは先輩への視線をそらさなかった。
「付き合います」
「それは……」
 先輩が考えるように小首をかしげる。
「気持ちは東に残したままで、お人形のように俺のそばに躯だけ置いてやるってこと?」
「お人形のよう……じゃないと思います」
 正直にぼくは答える。
「ぼくは先輩のことが嫌いじゃないです。先輩と一緒にいて、先輩が冗談言ったら、ぼくは本気で吹き出しちゃうと思います。先輩と……」
 さすがにちょっと言いづらかったけど、思い切って続けた。
「先輩と……セックスしたら、ぼくはやっぱり感じて、喘いじゃうと……思います。きっとぼくは先輩といて、怒ったり、泣いたり、笑ったり、感じたりして、人形みたいではいられないと思います。ぼくはきっと、そこまで先輩のことを嫌いになれないから」
 その時、バカ、と風にまぎれて横から聞こえたのは……気のせいだろうか。東のほうを振り返らないまま、ぼくは言葉をつないだ。
「でも、ぼくが一番好きなのは東です。恋してる相手は東です。これから誰と付き合っても、今のこの気持ちほど純粋に好きになれるとは、思えない」





 先輩はとても静かに、口をつぐんだぼくを見つめた。
 ぼくも先輩を見つめ返す。
 言わなきゃいけないことだけは全部言えたと思う。その時のぼくに、後悔はなかった。
「……高橋は、もう一度、東と別れて、俺と付き合ってくれるの?」
 先輩の確認に、ぼくはしっかりうなずいた。
「……でも、高橋が本当に好きなのは東なわけで……でも、俺のことも嫌いじゃないから、それなりにはにこやかに付き合ってくれて、セックスの相手もいやがらずにしてくれると」
 ぼくはもう一度、深くしっかりとうなずいた。
 だけど、先輩が『あーあ』と天を仰ぐように溜息をつき、
「高橋は、俺がそれで満足すると思ってるの? 少しは俺の性格、理解してくれてるかと思ったのに」
 そう言った時には、流されるだけじゃない、自分の気持ちを伝えられた、そう思っていたぼくの高ぶりはすーっと醒めていくようだった。
「先輩……」
「他の男に気持ちを残したままの相手を有り難がって抱くほど、俺のプライドは低くないよ」
 いっときの高ぶりが醒めるどころじゃなかった。じわりと、忘れていた恐怖が甦る。
「せ、先輩……ご、ごめんなさい。とにかく、そこから、降りて来て下さい。は、話はそれからゆっくり……」
 先輩はぼくの言葉を笑った。
「降りて? やっぱり東しか好きじゃないおまえと、なにを話すんだ?」
「先輩!」
 ぎゅっと胃を掴まれるような恐怖に、ぼくの声は裏返った。
 改めて蒼くなるぼくに向かって、先輩はにっこり、きれいに微笑んだ。
「しょうがないね。俺はわがままなんだよ。さようなら、高橋」





 もう、声を上げる間もなかった。
 
 
 
 
 
 先輩の躯は、吸い込まれるように壁の向こう側へと消えて行った。













 叫ぼうとしたけれど、声が出なかった。
 壁に駆け寄りたかったけれど、脚が動かなかった。
 茫然と、ついさっきまで先輩がいた空間を見つめる。先輩が消えた空間を見つめる。
 さようなら、なんて……。
 飛び降りる、なんて……。
 全身が細かく震えだすのを、止めることができなかった。膝から力が抜けて、ぼくは震えながらその場に膝をついた。
 河原先輩……先輩……。
 先輩を呼ぼうとしても、唇も震えるばかりだった。





 パニック寸前の真っ白な頭にはなにも浮かんで来ない。
 そうして、ただ先輩が飛び降りた壁を見つめるぼくの視界に、東の背が入って来た。
 東は迷いのない足取りで壁まで行くと、首を突き出すようにして下を覗き込んだ。
 ぼくはあんまり茫然としすぎていて、その次の東の行動の意味もまるでわからなかったけれど。
 東は壁の外に向かってぐっと手を差し出した。そのまま、重いものでも持ち上げるみたいに、東の肩が盛り上がるのが見えて……。
 壁の向こうからなにか黒いものが出て来たと思ったら、さっき、壁の上に飛び上がったのと同じ身軽さで、ひょいとまた河原先輩が。今度は壁の向こう側から、河原先輩が。東に手を引っ張られた河原先輩が。壁の上に現れた。
 ……え?
 なにが起こったのかわからない。
 怒ったように乱暴な動作で、東は先輩を壁のこちら側に引きずり下ろした。バランスを崩してセメント張りの床の上に倒れた先輩を、東が襟首つかんで引き起こす。そして、手加減なしの一発を、東は先輩の顔に拳で見舞った。先輩の躯が大きくのけぞって、また床に倒れこむ。
 その一部始終を、ぼくは口を閉じるのも忘れて、やっぱり声も出せず、身動きも出来ないまま、ただ見つめていた。
 倒れたのは先輩だけじゃなかった。
 東も先輩を殴りつけた右腕を抱えるようにして座り込む。――ギプス、外れたばっかりじゃ……。
「おまえ……!」
 痛みに顔をしかめながら、東が叫ぶ。
「今度、こんな人を舐めくさったマネしやがったら、俺がぶっ殺してやる! いいか! 殺してやる! くそったれ!!」
 河原先輩は殴られた頬を押さえながら、身を起こした。ゆっくりとぼくに向かって歩いてくる。
「高橋、真っ青だよ」
 先輩はぼくと目線を合わせるように片膝ついた。
「驚かせて、悪かったね」
 ちょっと申し訳なさそうな笑みを浮かべて。優しく、ぼくを見て。
 くっきりした二重に縁取られた黒い瞳。口元に浮かんだ笑み。
 ぼくはまだ信じられないような思いで、眼の前の先輩を見上げた。
 ――よかった……よかった。先輩が死んでなくて、ここにいて、笑ってくれてて、よかった。
 気づけば、ぼくの目からはボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
「せんぱ……よかっ……」
 こみあげる嗚咽で、言葉が途切れる。
「生きてて……よかっ……」
「うん。高橋、俺は生きてるよ」
 無意識にぼくは両手を先輩に向かって伸ばしていた。
 先輩の手を握り締める。
 涙がぽろぽろと零れ続けた。
 よかった。よかった。先輩が死んでなくて。先輩が生きててくれて。
 握り締める手のあたたかさがうれしい。耳に響く声がうれしい。
 その嬉しさの中には、ぼくのせいで先輩が死んでしまったという大きな自責の念からの解放感や安心感も確かにあったけれど、ぼくはとにかく先輩が生きててくれているのが嬉しかった。
「いつまで手ぇ握り合ってんだよ!」
 東に上から踏みつけるように蹴られるまで、ぼくは先輩の手を握って泣いていた。
「余裕ないなあ、ほんとに」
 痛みと怒りですごい形相になっている東を見上げて、先輩はわざとらしく溜息をついた。
「抱き合ってるならともかく、手ぐらいいいじゃないか。だいたい、おまえがよけいなことを言うから、俺はこんな危ないことをしたくなったんだし」
「ああ?! なにが俺のせいだ! おまえが踏ん切り悪く……」
「高橋を泣かすなって言ったろ」
 東の言葉をさえぎって、先輩が言う。あ?の形に東の口が開いた。ぼくの目も丸くなる。
「あれ聞いてね。そう言えば、高橋が俺のために泣いてくれたことは一度もないなあと思ってさ。くやしいじゃないか。高橋はおまえのためにしか泣いたことがなくて、俺はそれをずっと慰めてただけなのに、当のおまえに泣かすななんて言われたら。一度ぐらい、ホントに俺のために泣いてもらいたいと思うのは普通じゃないか?」
 今度はぼくも口をぽかんと開けるしかなかったけれど、東は切れた。
「狂言自殺が普通のことか! 人のせいにしやがって!! 生き死にで人をコントロールしようなんざ、最っ低だ! クソ野郎!!」
 言いざま、東の脚が空を切る。
 その東の蹴りを先輩はのけぞるようにしてかわした。
「こらこら。あんまり暴れるんじゃない。腕、痛いんだろう? 骨折したんだってな。ギプスが外れたばっかりじゃないか? せっかくくっついたところがズレてないといいな」
「うるせーんだよ……この野郎……」
 東の歯がギリッと鳴る音が聞こえた。
「てめえはもうしゃべんな。マジにもっぺん突き落としてやろうか」
 そこでようやく、疑問が湧いた。
「そういえば……先輩、飛び降りたのに、どうして……」
「行って見てみろ」
 東がくいっと顎をしゃくった。
「この屋上の壁は建物の端から5、60センチのところに立ってんだよ」
「は……」
 なんか改めて背中から力が抜けた。ぺたんと座り込む。
「おまえに教えてやりたかったんだけど……こいつが口止めみたいなことするから」
 ああ……そう言えば、『おまえに余計な口出しはされたくない。俺は本気で飛び降りる』って、先輩が言ってたっけ……。
「俺としては、東にももうちょっと怖がってほしかったんだけどねえ。さすがに住んでる場所のことは知ってるよな。前にここに下見に来た時に、これは使えると思ったんだけど」
 え、と思った。
「……下見?」
「そうそう。2、3週間ほど前かな」
「そ、そんな前から……!」」
 つい声が高くなった。だって、2、3週間前って、その時にはぼくは別れ話なんて全然まだ考えてもいなかったのに!
「だから、東におまえを泣かすなって言われた後だよ。くやしくてねえ。なんとか高橋を俺のために泣かせられないかといろいろ考えたんだよ」
 なんかもう……なにを言えばいいのかわからない。
「……富永もグルか」
 東が不愉快そうに先輩に尋ねる。
「わざとらしく電話してきやがって」
「ああ、やっぱりあいつから連絡あったんだ? でも、ひろちゃん、ああ、富永のことね、あいつは今回、なーんにも知らないよ。俺が今日の約束をドタキャンしたもんだから心配して俺の部屋に飛んで来て、後は、俺がわざと置いて行った携帯とおまえの家の住所を見て、勝手におまえたちに連絡しただけ。結果としては、ひろちゃんが上手におまえたちの不安をあおってくれたみたいで、俺としてはラッキーだったけど」
 あっけらかんと悪びれない物言い。
 先輩は……いつもそうだ。ふざけて飄々として、なにかに熱くなったり自分を見失ったりすることがないように見える。今の発言だってそうだ。
 ……だけど。
 なにもかも、自分の計算のうちのように言う河原先輩の言葉がすべて本当だとは、ぼくには思えなかった。きのうの夜と、そして今朝と、ぼくを抱く河原先輩の瞳の奥に、ぼくは狂気にも近い光を確かに見た。飛び込んできた富永先輩に向かい合う河原先輩は本当に苛立っていたとも思う。
 応援団長を降ろされた河原先輩が牛乳を飲みすぎておなかを壊したり、少しでも身長を伸ばそうと鉄棒にぶら下がって肩を脱臼した話を、ぼくは驚きながらもどこかで納得もしながら聞いていた。
 いつも余裕があって、冗談ばっかりな河原先輩の、本気の部分。不安定で、熱くて、暴走しそうな部分。なにもかもわかってて、達観してるような河原先輩が、それでも自分でコントロールできない部分。それは先輩自身も自分に認めたくなくて、人にも知られたくないような部分なんじゃないだろうか。
 壁に上がった先輩が本気で死ぬつもりだったとは思わない。けど、全部が全部、狂言だとも、ぼくを泣かすための計画的な行動だとも、やはりぼくには思えなかった。
「この野郎……」
 東がまた先輩の胸倉を掴み上げた。
「なにがラッキーだ。どれだけ人を馬鹿にしたら気がすむ?」
「東!」
 拳に握られた東の手に、ぼくは飛びついた。
 東が怒るのはすごくよくわかる。ぼくだって先輩が言ったりしたりしてることはひどいと思う。だけど、先輩にだって先輩の行動が止められなかったのだとしたら……。先輩もまた、自分自身の気持ちに追い詰められていたのだとしたら……。
「ぼ、ぼくも悪いから……! だから……!」
 制止の言葉を口にしかけて、ぼくは凍りついた。
 ここで東に怒らないでと懇願するのがどれほど身勝手なことか。東は自分のために怒ってるんじゃない。
 鋭くこちらを見返した東と目が合う。
 鳶色の瞳はやっぱり怒りをはらんでいる。その怒りの大半はぼくのためのもので、こんなことが起こった原因は100%ぼくのせいで、それがわかっていてなお、怒らないで、なんてどの口で言えるのか。
 でも、ぼくは東に先輩を殴ってほしくなかった。
 勝手で、ごめん。本当にごめん。
 ぼくは必死な思いで東の瞳を見つめた。
 見つめ合ったまま、東の腕から、ゆっくりと力が抜けていく。短い舌打ちは『しょうがねーな』という東の呟きだろうか。
 ごめん。ありがとう。目顔でお礼を言って、ぼくは先輩に向き直った。
「先輩……ごめんなさい」
 心からの謝罪を口にした。
「本当に、ごめんなさい」
 苦しかった時に、助けてもらった。何度も、何度も、自分の気持ちと向き合いたくない時に、ぼくは先輩の胸の中に逃げ込んだ。そして最後には、やっぱり東への想いが断ち切れなくて……。
「いっぱい、いっぱい、勝手して、ごめんなさい。なのに……やっぱり、やっぱり東が好きで……ごめんなさい」
 ごめんなさい、ごめんなさい。ぼくは何度も繰り返した。一度は止まったはずの涙が、先輩への申し訳なさに、またぽろぽろとこぼれ落ちてくる。
 ぼくは何度もごめんなさいと繰り返した。
 先輩が笑って、もういいよ、俺も悪かったからって、ぼくの頭に、その大きな手を置くまで。
 
 
 
 
 
 うーんと、思いっきり背伸びしてから、
「でも、まあ。高橋が本当に謝らなきゃいけないのは俺じゃなくて、東のほうなんじゃない?」
 先輩は、さらっと言った。で、なんでもないことを言うように、
「よく許せるよな。俺なら数ヶ月、他の男と過ごした元カノなんていらないけど」
 強烈な嫌味を放った。
 ……先輩に言われるまでもなく、それは本当にその通りで。
 蒼ざめる思いのぼくの横で、東は、でも、
「おまえと俺はちがうから」
 静かな声で先輩に応じた。
「俺はおまえみたいに、別れ際にこんな騒ぎ起こして、あわよくば、なんてやれない。嫌われたんならしょうがない、別れたいならしょうがないって、すぐ思うよ。死んでく人間をこの世に引き止められないように、離れてく人間は止められないって思っちまう。……でも、だから逆に、戻って来てくれるなら、何度でもやり直せる。ぶっちゃけ、ムカついてる部分もあるけどさ。けど俺は秀が戻って来てくれて、うれしいよ」
「……よくもぬけぬけと」
 半ば呆れたように呟いた先輩に、東は本気でちょっと不思議そうに問いかけた。
「おまえさ、ゾンビでもいいから生き返ってほしいって思った相手とか、いねーの?」
「……じいちゃんばあちゃんは好きだったが、ゾンビになったらごめんだな。愛犬のペロも可愛かったが……」
 先輩はぎゅっと眉を寄せた。
「やっぱりゾンビはごめんだな」
「そうか。……俺は秀がゾンビになる前に戻ってくれて言うことねーけど」
「ふーん。ゾンビに比べたら、他の男にキスマークべたべたつけられた躯でも有り難がれるわけだ」
「もう2、3発、殴ってやろうか」
 先輩は笑って首を横に振った。
「さっきの一発で十分だよ。……高橋」
 いっそ懐かしささえ感じるような、先輩のおだやかな視線だった。
「ゆうべから今朝のことは謝らない。だけど、今やったことだけは悪かった。……驚かせて、試すようなことをして、すまなかった」
 ぼくはもう、小刻みに首を横に振るしかなくて。
「東と、お幸せに。……まあ、そんなこと言わなくても幸せだろうけど」
 じゃあ、と手を振り、こちらに背を向けかけた先輩に、
「あ! ありがとうございましたっ!」
 慌ててぼくは頭を下げた。そしたら、
「なにお礼言ってんだよ!」
 って、後ろから東に叩かれた。





「え……っと、その……」
 屋上で二人きりになると、急に気恥ずかしさが込み上げてきた。
 東がまたぼくを受け入れてくれたことはすごく嬉しかったけれど、先輩に言われるまでもなく、自分から無邪気に東に抱きついていけない申し訳なさも、やっぱりしっかりある。
 その上に、さっき先輩が壁の上にいた時に東がぼくに言ってくれた言葉を思い返すと、もう……なんて言って、それだけの言葉に報いればいいのか、わからなかった。
「えっと……その、いろいろと、ありが……」
 それでも、なんとかお礼の言葉を口にしようとしたけれど。
「……わりぃけど」
 東が顔を引きつらせていた。
「腕。ちょっとヤバイかも」
「え!」
 シャツを捲り上げた東の右腕は、嫌な感じの赤さで、パンパンに腫れ上がっていた。





 結局、東の腕はまたギプスをはめられることになった。





 それは……なんだか、不思議な時間だった。
 もし、あの屋上での騒ぎの後、そのまま東の家に戻り、勢いでいわゆる……その、仲直りエッチ……っていうのになだれこんでいたら……ぼくと東はセックスすることで、別れていた数ヶ月の溝を埋めようとしていたかもしれない。でも、「今度こそ大事にしないと、後遺症が残るよ」と医者にしっかりクギを刺されて、ぼくたちはその、大事だけど、ある意味、お手軽な仲直りをするわけにはいかなくなった。
 もちろん、東は、
「腕なんかどうでもいいって。大丈夫だって」
 と、無理をしようとしたし、
「じゃあさ。おまえ、跨ってよ。俺、寝てるから」
 とか、ムチャも言ったけど。
「ダメだよ! また痛めたらどうするんだよ」
「そ、そんなの、無理っ! 絶対、無理っ!」
 ぼくはある時は断固として、ある時は焦りまくって、東の求めを拒絶した。
「ちぇ」
 って、東は口をとがらせたけれど、それ以上の無理強いはしようとしなかった。
 それは……先輩がつけた痕を、それでもやっぱり見られたくないって思うぼくの気持ちを、どこかでわかってくれていたせいだろうか。それとも、東も、ぼくがそうだったように、二人の間に出来てしまった溝の深さや幅をこわごわ探っているようなところもあったんだろうか。
 ぼくたちは互いの躯の気持ちよさや肌の馴染み具合を知りながら、まるで、手順を踏んでつきあいを深めて行く、今始まったばかりの二人のように、キスの熱さや、もたれかかる重さを、ひとつひとつ確かめ合っていった。
 本当に、ぼくはまたここにいていいんだよね。
 本当に、おまえ、俺でいいんだよな。
 もう一度、ギプスが外れるようになるまでの10日ほど、ぼくたちは口には出さないまま、相手にそう問い掛けながら過ごした。互いの瞳に互いの不安を見つけた時、もし躯を重ねることができたら、それは一番手っ取り早い不安の解消になっただろうけれど、ぼくたちは二人一緒にいる時間に、一緒になにかして過ごす、その時間そのもので自分達の不安を解消するしかなかった。
 いっぱい、しゃべった。いっぱい、キスした。互いにもたれかかってテレビを見たり、肩を触れ合わせるようにして料理したり、その時間にぼくたちは互いがそばにいる嬉しさとあたたかさを分かち合った。
 ゆっくりと、離れていた時間が埋まっていく。
 セックスのない、恋人の時間。裏切って、離れて、そしてまた一緒にいる、恋人の時間。どこか切ないみたいな、でも、ほんわりあたたかい時間を、ぼくたちは一緒に過ごした。
 一時の熱で、すべてを流してしまうやり方に比べて、それはもどかしいほどの時間だったけれど。そうやってゆっくりゆっくり、ひとつひとつを確かめながらヨリを戻すことで、ぼくも東も、相手の裏切りが許せなかったことも傷つけあったことも過去のこととして、やり直したい気持ちを確認しあうことができたのだと思う。
 ――そうして……ようやくまたギプスが外れ、しっかりとテーピングされてはいるものの、東の右腕が自由になった、その日。
 一緒に病院から帰って来たぼくたちは、なんだか妙に無口になって、東の家のドアを入った。
「さ、寒かったね。な、なにかあったかいもの……」
 ふだん通りに振舞おうとするのに声が裏返りかけて、ぼくは慌てる。けど、
「俺、もっとあったかいのがいい」
 腰に回された手で、ぐっと東に引き寄せられた。とたんに至近距離になる顔に、心臓はもうバクバク言い出して。
「しよ」
 額をくっつけて、互いの息さえ混ざり合う中で、東がささやく。
「俺、おまえの中に入りたい。おまえとまた、ひとつになりたい」
「あず……」
 ま、の音は触れ合う唇の間にくぐもる。
 口付けは、すぐに濃いものになった。
 東の動きに応えたくて、東の求めに応えたくて、ぼくは吸われるより強く吸い返し、探られるより深く探り返した。
「……な、このまま……」
「だめ、シャワー……」
「いいじゃん、後で……」
 けれど、東の手がトレーナーの裾をくぐって来た時、ためらいからぼくは躯を引いた。
「……まだ……少しだけど……消えきってなくて……」
 毎晩、お風呂に入っては蒸しタオルを押し当てたり、ていねいにマッサージしてみたりして、先輩がぼくの躯中につけた痕はずいぶんと色薄くなってきていたけれど……まだ、ぼんやりとベージュ色になって残っている跡もあった。
「いいって。全部、俺が上から付け直すから……」
 東はそう言って、ぼくの首に唇を押し付けてくる。――懐かしいくすぐったさ。短くなった髪先が顎に触れる、その感触は以前とはちがうけれど、間近に感じる東の匂いは以前とまるで変わりない。
「あず、ま……東……」
 ぼくはとんでもないことをした。
 東を信じられなくて、その苦しさからも逃げて、先輩と付き合った。
 そんなぼくを、それでも好きだと言ってくれる東。
「東……大好き……!」
 よかった。本当になくしてしまわなくて。
「秀……」
 ソファの傍で東が体重をかけてくる。せめて東の部屋で、とか、シャワーを、とか、もうぼくにも言い立てる気はなかった。
 もう一度、触れ合えるなら。もう一度、ひとつになれるなら。
 ぼくは半ば自分から、ソファの上に倒れこんだ。





 まるでそれを見計らっていたかのように。
 インターホンが鳴った。エントランスロビーに誰か来ている。
「無視する」
 東はそう言ったけど、
「……誰なのかだけでも、見ておいたほうがよくない?」
 そう言うと、舌打ちの音とともに立ち上がった。
 キッチン脇のカメラで、来訪者を確認した東が、怪訝そうに振り返った。
「郵便屋だ。なんだろ」
「さあ……でも、居留守使っちゃ悪くない? 向こうも仕事なんだし……」
 ロックを解除すると、郵便局員さんが上がって来た。
「書留だ。俺あて? なんだろ」
 玄関から首をひねりながら戻って来た東の表情が、封筒を裏返したところで一度に堅くなった。無言で差し出されたそこにあった名前は……
 河原 宏二。
「あの野郎……どこまで邪魔したら気がすむんだ……」
 東が憤懣やるかたないといった口調で毒づく。
「と、とりあえず、開けてみたら……」
 消極的に促すと、東は乱暴な手つきで封を開いた。
 中から出てきたのは旅行の予約書とチケット、そして手紙。
「はあ? 24日って、明後日? は? フォーシーズンホテル……ガーデンビュー、ツイン、一泊……なんだこれ?」
 チケットを見ていた東が、心底わけがわからないというように言う。
 ぼくは何か言いたくて。でも、予約書を持つ手が震えて来て。
「そっちは、なんて?」
 のぞきこんでくる東の眉間に、ぐっと皺が寄った。
「予約人、東 洋平……って、なんだよ、これ。俺、知らねーよ」
 ぼくはなんとか予約日のところを指差した。
 11月25日。一ヶ月も前の日付。
「せ、先輩……」
 喉の奥がなにかで塞がっているようなのを、無理に声を押し出した。
「ク、クリスマスは一緒に過ごそうって……フォーシーズンなんかどうって……そ、それまでに東とよりを戻しちゃいけないよみたいなこと言って……」
「……わっけわかんねーな。この頃って、おまえらまだ付き合ってたろ? なんで俺の名前でイブの予約なんか……」
 気のせいだろうか。視界がにじむ。
「……わ、別れたいって言ったら……せ、先輩……た、高橋が東のことを好きなのはずっと知ってたって……そんなことは承知してたって……」
 付き合ってた。先輩はぼくに対してすごく積極的だった。でも、ずっと、ぼくが本当に好きなのは東だって、ぼくは東のことを忘れてないって、先輩は知ってて……ぼくを拘束しようとする言葉の裏で、クリスマスの予約を東の名前で取っていたなんて……。
「気に入らねーな」
 東がチケットを放り出した。
「あんだけの騒ぎを起こしといて、でも実は、秀と俺がよりを戻すのはちゃーんとお見通しだったよとでも言いたいのか?」
「……手紙には、なんて……?」
 東は不機嫌な手つきで手紙を開いた。
 無言でざっと目を走らせている東の横からのぞきこんだ。
 一枚目は短かった。
 
 
 
 『人の生死が掛かっているのに、
  堂々と、見殺しにしろと言った東と、
  嘘のひとつもつけなかった高橋。
  
  おまえたちの真実の証明に、
  ささやかながら、
  プレゼントを贈らせてほしい。
  
  メリークリスマス』
    


「……だから、このキザったらしさがムカつくんだよ!」
 東はそう毒づいたけど……ぼくはもう、鼻まですすり上げるしかなかった。
 けど……それも、東が一枚目をめくるまでで……。



 『正直に言う。
  このチケットを自分で使えるようにと祈っていた。
  望みがかなわなかったのは、非常に残念だが、
  仕方ない。
  あれだけ往生際悪く引っ掻き回したんだから、
  それで溜飲を下げておこう。

  それに、嬉しい言葉ももらった。
  高橋。
  俺のことを嫌いじゃないと言ってくれて、本当に
  嬉しかった。
  顔も見たくないほど嫌われても仕方ないと思って
  やったことを、許してくれてありがとう。
  俺も高橋のことは嫌いじゃないよ。
  嫌がられるだろうけれど、実は東のことも嫌いじゃない。
  その証拠に、東に殴られた後、口の中が切れた写真と
  頬が赤紫色に張れた写真を撮り、治療を受けた医療機関で
  診断書も発行してもらったが、いまだに東は警察に
  呼ばれていないだろう?
  
  俺の好意を信じてもらえたと思う。
  
  友人が増えるのは嬉しいことだね。そう思わない?
  また連絡する。
  
             河原宏二』
  


「………………」
「………………」
 どれほど長いこと、ぼくたちは無言でその手紙を見つめていたろう。
「こいつ、ありえねー」
 ようやく漏れた東の呟きは、理解の範疇を超えるものを目の前に突きつけられた人間の当惑に満ちていた。





「でも……どうする? この宿泊チケット……もう支払とか済んじゃってるんだよねえ? 今からキャンセルとか出来るのかな。あ、でも、まずはチケットを先輩に返さないと……」
 親指の爪を噛みながら、むずかしい顔でソファに座り込んでしまった東の前で、ぼくは手紙とチケットを両手におろおろしていた。
「連絡してくるって、どういうことだろう……?」
「……あわてんな。あわてると、河原の思うツボだろ」
「え、え、あ、そうか」
 ぼくは溜息をつきながら座り込んだ。
 東がぐっと身を乗り出してくる。
「ホテルはありがたく使わせてもらう。おまえがどんな揺さぶりかけてきても平気だって、河原に示してやる」
「う、うん。そうだね」
 うなずいたけれど、落ち着かなさはやっぱりあった。先輩が本当はどういうつもりなのか。東が言うように、ぼくたちに揺さぶりをかけてるんだろうか。……なんとなく、ホントになんとなくだけど、先輩が純粋に楽しんでいるような気も……。
「いいか」
 ぼくの表情に納得しきれていないものを感じたのか、東がぼくの目をのぞきこんでくる。
「なんにも変わらない。どうってことない。俺はあの時言ったように、おまえが重い荷物しょってくなら、一緒に担いでく。俺にはおまえしかいないから。それがわかったから。……おまえもそう思ってくれるなら……俺たちは堂々としてればいい。自分達の気持ちに素直でいればいい。それがあいつに対しても……たぶん、自分達同士に対しても、俺たちの真実を証明し続けていくことになるから」





 うん、とうなずきかけて気が付いた。
「あ。でもそれじゃあ、ずーっと証明終わりにはならないよね?」
 東はきれいに微笑んだ。
「ああ。ずーっと」





 ずーっと。ずーっと。
 互いを大切に想う、その気持ちのままに……。
 







                                    お読みくださり、ありがとうございました!


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