四月一日。
もう毎日の習慣どおり、その日もおれは年下のどうしようもない恋人・青山司とともに満員電車に揺られていた。……どうしようもないって、言い方きついかもしれないが……。司は外面だけ取り出せば、どこに出しても恥ずかしくない、見た目麗しく頭脳優秀な素晴らしい人間なんだけど、内実は甘えん坊で寂しがり屋でワガママでエロエロでどスケベな、実際どうしようもない人間で、おれはその一番の被害者なんだから仕方ない。
……今だってさ。
「……いいかげんにしなさい」
小声で叱りつけるけど。
「しょうがないでしょう、混んでるんですから」
どこかで聞いたようなセリフを吐いて、司は俺の背中にべったりと張り付き痴漢まがいのスキンシップをやめようとはしない。
……ちょっと待て。満員電車だからって、尻を撫で回したり、尻の肉をつかんだり、その上……なんだよ! その硬くなった棒状のものは! そんなもん、満員電車のせいじゃないだろっ! つか、満員電車のせいにすんなっ!
おれが握り締めている吊革が怒りでぶるぶる震えようとアイツは知らんぷりだ。
それどころか……。
「ちょうど、一年になりますね」
人の耳たぶくわえんばかりにして、ほざく。
「あなたと、出会って」
うっとりした声音を聞くまでもない、うれしそうな司の顔が後ろだけど見える気がする。
「思い出しませんか、こうしてると」
思い出す、思い出すよ! おまえに味わわされた、ハラワタ煮えたぎる思いの数々!
もういいかげんにしろ。
電車を降りる頃には、おれの怒りは沸点に達していた。
ホームの端に司を引っ張って行き、おれは宣言した。
「おまえとは別れる」
まあ。四月一日だし。
前振りも念押しもなにもない、たった一言だったし。
今日の帰りにでも付き合わされて、「あなたと別れるなんてできない」と訴えられたら、「今日は何日だと思う?」と笑って言ってやろうとおれは思っていたわけで。もちろん、その後、「ひどい」とかなんとかなじられて、ご機嫌取りにあんなことやこんなことも許してやらなければならないかと、そこまで覚悟もしていたわけで。
だから。
だから。
「……おーい。桂木」
主任の三田村さんに、お昼休みの後、ひらひらと手を振って呼ばれた時も、おれにはなんの心構えもなかった。
「なんですか、主任」
三田村さんはチラリとおれを見上げた。
「あー、まー、俺も課長にことの次第を確認してくれと言われたんだが」
三田村さんには珍しく、ちょっと言いにくそうなのが不思議ではあったけれど、
「? なんですか?」
おれは重ねて聞いたんだ。……そしたら。
「中研の青山から、今日付けで退職願いが出された」
……なんて。
「……は?」
目を点にして聞き返せば、
「去年度入社の青山司から、退職願いが出ている」
三田村さんは親切に繰り返してくれて。
「おまえ、なんか知ってるか?」
知りません、知りません、それはきっとなにかの間違いです。
そんなようなことをおれは口走った気がするんだけど。
慌てて駆け込んだトイレで携帯を必死に鳴らしたけれど、『ただいま、電波が……』。
おいー!
冗談だろ嘘だろだって今日は四月一日じゃないか!
たった一言、別れるって言っただけじゃないか! おまえが嫌いだとも、ほかに好きなヤツができたんだとも、実はエッチの時にあんまりよくないんだとも、そんなウソはほかに一言も言ってないじゃないか!!!
ちょっと落ち着いて考えれば恋人同士のちょっと過激な冗談だろうぐらい、わかるだろう? わかるよな? わかってくれよ!
だいたい。
ゆうべだって、おれはおまえに抱かれてたじゃないか。
仰向けになったおまえを跨ぎながら貫かれて。もう尖りきった乳首をさらに弄られて。おれはフツー男だったら上げないような声を上げさせられて。……おれはおまえの上で腰を振った。嬌声をあげて。よがり声を上げて。おれは腰を振った。
あんな! あんな姿をさらした次の日に! あれだけ、あれだけ愛し合った次の日に! 別れるなんて言葉ひとつで、退職とかするなよ! ばか!!!
たぶん、おれの目には涙が滲んでいたと思う。
それでも必死に平静を装って戻った席で、おれは仕事のフリで中央研究所にある品質管理課に内線電話をかけた。返って来たのは、
「青山はただいま席を外しております」
の事務的な、いやまあ会社なんだから事務的でなきゃ人事部としては困るわけだけど、とにかく冷たく事務的な一言だった。
「すいません、では戻られたら、人事の桂木までご連絡下さるようにお伝えください」
そう言って電話を切って、今度はPCに向かう。社内メールにも、あいつの携帯メールにも、同じ文を送る。「連絡ください」。
頼む。頼むよ、つかさぁ……。
内線電話が鳴るたびにびくりとした。PCがメール着信を知らせるたびにどきりとした。そんなふうに必死に司からの連絡を待つおれに、無情なチャイムが定時を知らせる。
……仕方ない。
意を決しておれは立ち上がる。
三田村さんのデスクに歩み寄る。
「……すいません、三田村さん。昼の、青山君の退職願いですが、しばらくペンディングにしていただけませんか」
司の真意を確かめるまでは、せめて保留にしておいてやりたい。そう必死な思いでおれは頭を下げたんだけど……。
「ああ、あれか。けど、あれはおまえも事情を知らないんだろう?」
そう三田村さんに切り返されて、いえたぶん間違いなく、あれは自分のつまらない冗談が原因です、とも言えずにおれが凍り付いていると。
「年度頭は移動が多いからなあ、早めに処理したほうがいいだろうから、さっき部長に上げといたわ」
さらりと三田村さんが言った。
「は!?」
「だから。部長に上げといた」
三田村さんはしごくマジメに繰り返した。
「青山がどういう話の通し方をしたかは知らんが、もうあっちの部署にも話が行っとるんじゃないか」
おれは駆けた。
「あわてるこどもは廊下で転ぶ」
そんな標語を昔聞いた気がするけれど、かまってはいられなかった。
駆けて、駆けて駆けて。
「部長!」
重役会議に出ていた部長を、本社の最上階でようやくつかまえた。
「す、す、すいませっ……! っおやまっっかさの……!」
社のお歴々の前でおれは髪を振り乱し、息を喘がせ、みっともなく部長の袖をつかんでいた。
「どうしたんだ。ちょっと落ち着きなさい」
部長が目を丸くしている。
はあはあと大きく息をしながら、俺は言い募った。
「あ、青山司の……った、退職届けを……っ!」
「退職届け?」
ぐっと部長の眉が寄った。
「いつの、誰のものだ? わたしは聞いていないぞ?」
どうしようもない気分で人事部に戻ってきたら。
「どうした。社内フルマラソン大会か?」
さっきまでのマジメ顔がウソのように。ニヤニヤした三田村さんがおれを待っていた。
「……み、みたむらさん……かつぎましたね……」
肩で息をしながら、じっとりと上目遣いににらみあげれば、
「かついだ? なんのことだか」
三田村さんはひょいと肩をすくめた。
「おーそう言えば、さっき机の奥からこんなもんが出てきたわ。てっきり部長に出したつもりでおったんだが、勘違いだったようだな」
そう言ってひらひらと振られたのは一通の封書。表書きに「退職願」の文字が見える。
「いるか?」
と、差し出されて、おれはひったくるようにそれを奪うと三田村さんの目の前でびりびりに引き裂いた。
「おい、いいのか? 本人の承諾も得ずに」
しらじらしく言ってくる三田村さんをじとりと見上げて、おれは呟いた。
「……オニ」
定時後ならいいだろうと訪れてみた司の部署に、司の姿はなかった。聞けば今日は定時に上がったという。
司の部屋に寄ろうか、それともまっすぐ自分の部屋に帰ろうかと迷って、結局自分の部屋にしたのは、なにかカンのようなものが働いたおかげだった。
おれの部屋のドアにもたれて、司は長身を小さく縮めるようにうつむいて立っていた。おれの足音にはじかれたようにその顔が上がる。
「俊介……!」
泣きそうな、腹立たしそうな、なにか訴えたそうな、複雑で、でも必死な顔で、司はおれの名を呼んだ。
「俊介……」
「……待ってて、くれたの。部屋に入っててくれればよかったのに」
おれがようやくそう言うと、司の表情は泣きそうなほうにほんの少し変化する。
「だって……もう、別れるとかあなたが言うから……」
おれはひとつ深呼吸した。
ここで本当のことをぶちまけたら、きっとおれは明日からこのマンションにいられなくなるだろう、そんな気がしたから。
「……うん。とりあえず、部屋に入ろう。……話は、それから」
そう言って、おれは司を促した。――結果的にその判断は大正解で。
司は、おれがしぶしぶ……いや、おずおずと、
「……実は……ほら、今日は……だろう? だから、あれは……ウソっていうか、冗談っていうか……」
告げたとたん、
「なんですって!」
大声で叫び、それから一時間近く、泣いて怒って笑い続けた。
最後には、おれの肩に顔を埋め、
「……そんなひどいこと……冗談でも言えるなんて……あなたは、オニですか」
なじりながら、おれのシャツを涙で濡らして。
「うん。ごめん。ごめんね」
おれはぽんぽんと司の広い背中を叩き続けた。
セックスって、確かに快感を分け合う手段ではあるけれど。それより以上に、コミュニケーションの手段な気がする。言葉じゃなくて、感情じゃなくて、存在そのもので交流しあうような、理解しあうような、そういう深くて大きなコミュニケーションの、方法。
司に抱かれてると、いつも、そんな感じがする。
これは今までにつきあった女性たちとの間では感じたことがないもので。おれは最近、おれは彼女たちに本当にきちんと向き合ってつきあっていたのかなって、反省というか、幾分の申し訳なさとともに思ってみたりするようになっている。
おれは司に抱かれる。
うれしい感情や切ない感情や、そういう感情と一緒に。
時に司の愛撫や抱き方は、おれを感じさせるためというより、むさぼるとか征服するとかいう表現をしたくなるような激しさを帯びるけれど。
おれはそんな司の欲望や必死さに蹂躙されているわけじゃなくて。受け止めてる。そんな気がする。
ぶつけてこられて。受け止めて。言葉では表しきれない深い部分で、おれは司とつながる。セックスは、決してひとつに交わりきれないふたりの人間が、それでも繋がるための、有効で、大切な手段だとおれは…………。
そんなことを考えていたら。
司に四つん這いの姿勢のままガシガシと攻められて。
くたっと来たところでも許してもらえずに、顔も上半身ももうシーツにべったりついた状態に脱力してるっていうのに、腰だけ高く支えられたみっともない態勢で、もう熱をもってジンジンしてるみたいなソコをさらにむさぼられて。
「も、もう……やめっ……!」
切れ切れに制止を求める声は、
「今日はわたしの気がすむまでやめません。あなたに拒否する権利はありません」
冷たく言い放たれて。
「あっ、はぁっ……ッア、う、あああ……っ!」
おれはずるりと引き抜かれる感覚に背を震わせ、ズンと最奥まで貫かれる衝撃に身を反らして、喘ぎ続けた。
「……でも、」
よがり声を上げ続けたせいで、少し枯れてしまったような気がする声でおれは司の胸から顔を上げた。
「あれはないだろう、退職願い。冗談にならないよ」
司はほんの少し、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……冗談のつもりはなかったです。……あなたに嫌われたら、仕事も会社も、わたしにはいらないから」
タメ息が出る。
「なにを言ってるんだか……」
「本当です、あなたがいるから……!」
「バカなことを言わない」
司はよくこういうことを言うけれど、おれは軽く笑っていなす。
「仕事とか会社とか、自分の人生にも関わるようなことを軽々しく言うんじゃない」
そう言ったら、
「あなたの存在は、いまやわたしにとって人生の意義ですから」
真顔で、わかるんだかわからないようなことを返される。
しょうがないと思うけれど、今日の騒動は元はと言えばおれの軽率な一言が引金なわけで。
「……ごめんね」
素直に謝って、すりっと頭を胸にすりつけたら。
……え。
「……ウソ」
今日はもうさんざんこの身に受け入れたはずのものが、また猛々しい熱さと固さを取り戻して下腹部に当たっている。蒼ざめる思いで呟けば。
司ににっこり笑われた。
「わたしのココに、ウソは絶対ありませんから」
「もう、やめろって……オニッ!」
司に問答無用で熱い楔を打ち込まれながら、おれは叫んだ。
了
この作品はエイプリルフール企画作品として4月1日にアップしたものを再アップしました
|