きっと、たぶん、それはヤキモチ
        

 




「夢みたいだ……」
 うっとりと、嬉しげな声が耳朶にささやく。
「あなたとこんなふうに……」
 熱心な唇は、ささやきを切るときゅうっと俊介の首筋に吸い付いた。
「あ。こら。痕はつけるなって」
「いいじゃないですか別に。キスマークのひとつやふたつ、いい大人についていても誰も責めたりしませんよ」
 それは確かにそうだが。別に誰に責められなくても、あまり生々しい情事の跡を衆目にさらすというのはいかがなものかと、俊介は思うのだが。
「それとも、」
 声がかすかに険をはらんだ。
「キスマークを見られては困る相手でもいるんですか」
 顔を上げ、上から見下ろしてくる表情に不機嫌がにじみだしているのに気づく前に、
「ああ、三田村さんには見られたくないな」
 俊介は即答していた。
「……三田村さん? あの人には、見られたくない……?」
 低く険悪に問い返されて、俊介は自分の失言を知る。
「ち、ちがうっ! そういう意味じゃないっ! あっあの人は、ほら、子どもっぽいところがあって、一度、加藤っていうのがキスマークつけてたら、もう大騒ぎして冷やかして……!」
 だからつまり純粋に、キスマークを見られるとうるさい相手という意味で!
 必死に言い訳しているところを、ぎゅっと抱き締められた。こすりつけるように唇を重ねられる。
「誰にも…誰にも渡さない」
 激しい口調の激しい声が、キスの合間に宣言する。
「あなたが好きです」
 いや、だから……。渡すも渡さないも、ふつー、男は男を欲しがったりしないから。
 そうなだめる間もなく。回数と粘度を増したキスを唇どころか全身に浴びせられ、たださえ執拗な手でまさぐられ……俊介は観念して目を閉じた。
 夢みたい。
 確かにそうだと俊介は思うのだ。
 男の恋人を持ち、男に抱かれて、つまらない失言にやはり男相手にヤキモチを焼かれて……本当にこれが夢ならよかったのに、と……。
 
 



 五つ年下の新入社員、青山 司に求愛され、ついに受け入れてしまったのが梅雨の始まる頃だった。以来、雨の降らない日はあっても、青山の声を聞かない日はないという日々を、桂木 俊介は送っていた。
 そしてこれも同様に。梅雨の気まぐれな天気は、近づく夏を思わせてカッと暑い日があるかと思えば、妙に肌寒い日があったりもするのだが、青山の俊介に対する熱のほうは、上がる一方、落ち着いたり下がったりする気配をまったく見せなかった。
 それがわかっていたのだから、もっと注意を払うべきだったのだとは思わないでもないが。
 しかし。
 想定外だ。
 ぼやきたくなる俊介である。
「あなたはわたしとの約束を破って……」
「破ってないだろ! ちゃんと終業時間前にメールも入れたし、電話もしたよ!」
「あなたはわたしより、他の人を優先して……」
「優先してないだろ! 君とは三日とあけず食事を一緒にしてるし、今日だってこうして会う予定だったんだから、きのうの夕飯ぐらい……」
「ぐらい」
 言葉尻を繰り返されて、俊介は思わず天井をあおぐ。
「わたしがあなたとの時間をどれほど大切にしているか……」
 青山の非難はまた振り出しに戻る。
 せっかくの土曜日なのに、俊介はもう数時間を青山になじられて過ごしていた。
 昨夜、俊介は青山との約束をキャンセルして、職場の人間と食事に行った。確かにそれは申し訳ないと言えば申し訳ないが……。
「だから、しょうがないだろう。松田さんは落ち込んでたし、ほっとけないじゃないか。みんなで慰めようってことになったんだから、俺だけ知らんぷりはできないだろう!」
 発端は、同じグループで働く、俊介からは4年後輩にあたる松田という女性社員の凡ミスだった。月締め前には処理しなければならない伝票を彼女は処理し忘れ、それは普通なら赤を切るぐらいで済む程度のミスだったのだが、どういう絡みの伝票だったのか経理の部長が怒鳴り込んでくる大騒ぎになってしまった。
 謝罪と弁明の間は気丈に背筋を伸ばしていた松田さんだったが、経理の部長が去り、直属の課長から慰め半分注意半分の言葉があって……俊介の隣の席に戻ってくるなり、ぽろぽろっと大粒の涙がその瞳からこぼれた。
「まあ……会社ってのは、誰でも一度や二度は泣かされるとこだから」
 主任である三田村がそう言いながら、真っ赤な目と鼻をしてトイレから戻ってきた松田さんの肩をぽんぽんと叩いたときには、同じ島のみんながうんうんとうなずいた。
「あれだな、ふつーなら居酒屋で一杯なんだが、俺が誘うと、これはあれだろ、セクハラだろ」
 なあ桂木、と話を振られて、俊介は、そうですね、とうなずいた。
「松田さんはミスしたばっかりの女性社員ですからね、その上司である三田村さんが誘えば、セクハラと訴えられる要件はそろいますね」
 面倒くせえよなあ、と三田村は頭をかき、
「じゃああれだ、おまえらも来い」
 と俊介たち一同に言い渡してきた。
「それこそパワハラじゃないですか!」
 冗談半分にツッコみ返しながら、でも、まだ涙の乾ききらない松田さんをほうっておくのも忍びなくて、結局、都合のつく俊介と三田村、松田さんの三人で、一緒に夕飯をとることになったのだった。
「ドタキャンは悪かったよ。だけど、それは……」
 言いかけた俊介に、青山はとがった目を向けてくる。
「どうしようもない付き合いだったというんですか。夜中の二時まで?」
 それを言われると弱い。
「だから……悪かったよ、心配かけて」
 歯切れ悪く、俊介はまたも謝罪の言葉を口にした。





 松田さんとは9時過ぎに別れた。
 まだ早いし、明るいところばかりだから大丈夫だという彼女を俊介は三田村とともに最寄の地下鉄の駅まで送った。
 そこからだ。
 携帯をチェックして、青山からのメールを開いていた俊介に、三田村が、
「せっかくの金曜の夜だしなあ。一杯、呑みに行かねえか」
 と言い出したのだ。
 磊落な三田村と呑むのは楽しい。久しぶりの機会でもあったが、青山のことも気になる。とっさに返事をしかねていると、
「無理ならいいぞ?」
 そう三田村が言い添えてきて、それが妙に人寂しげに俊介には聞こえた。
「無理じゃないですよ、付き合いましょう」
 俊介は携帯を畳み、手近な飲み屋に二人で入ることにした。
「おまえ、それ、」
 店のカウンターに並んで落ち着いたところで、三田村は先ほど俊介が携帯を滑り込ませた背広の胸ポケットを指でさした。
「恋人でもできたか。最近、よく連絡はいるみたいじゃねえか」
 見ていないようで周囲の様子はよく把握している三田村だったが、その指摘は突然で、俊介は少々慌てた。
「そんな…いい相手なんか、いませんよ」
 青山が研修期間中ずっと、セクハラまがいのアプローチを俊介に仕掛けていたことを三田村は知っている。俊介は否定の言葉を口にした。
「照れんなよ、いいなあ、若いのは」
 三田村は深く探ってくるつもりはないらしく、軽く流す。
「三田村さんだって若いじゃないですか」
「その言い方が人をオヤジ扱いしとるだろう」
 俊介は笑い、その後は、当たり障りのないおしゃべりに花が咲いていたのだが……。
 11時近くだったろうか、また青山からのメールが入った。そう言えば、さっきのメールに返信していない。どうしようかと思っていたら、今度は呼び出しの着メロが流れ出した。
 出て来い、と三田村に促されて、すいません、と会釈して店の戸口を出た。案の定、電話の相手は青山で、今日はもうちょっと遅くなると言ったらとたんに不機嫌になられた。
「いい加減にしろ! 職場の人間と食事に出ることぐらい、普通だろ!」
 きつく言えば、
「……何人、一緒なんですか」
 低い声で問われた。
「誰と一緒なんですか」
「み、三田村さんと……」
 そう答えて、しかし、なにもやましいところはないのに、俊介は、
「松田さんと一緒だよ」
 付け足していた。
「……わかりました。じゃあ、家に帰ったら必ず一度、連絡を下さい」
「いや、今夜はもう遅くなるから、明日の朝……」
「いいですから! 今夜中に連絡下さい! いいですね!」
 わかったと約束して通話を切ったら、思わずタメ息が漏れた。
 よほど浮かない顔でもしていたのだろうか、席に戻ったところで、
「早く帰って来てって連絡だろ。おまえの恋人はなかなか大変そうだな」
 三田村にそう冷やかされた。
「いえ…だから、別に恋人ってわけじゃ……」
 実際、恋人というより、デカい犬になつかれているというほうが正しいんですけど。そう続けそうになって、俊介は急いで口をつぐんだ。酒のせいだろうか、なんだか口の滑りがよくなっているようだ。だから、
「恋人なんかいません。ほんとに」
 真顔で否定の言葉を続けた。
 と、三田村の口元に、笑みが浮かんだ。どこか、切なげな……。
「そう思いっきり否定すんな。相手が聞いたら傷つくだろうが」
 そう言って、くっと冷酒のコップを空けた三田村の横顔には、珍しくも翳りのようなものが浮かんでもいて。
「世間体が気になるのもわかる。自分の気持ちだってそこまで盛り上がってるかどうか、自信がないのもわかる。……けどな、付き合ってる相手なんかいない、好きな相手なんかいない、そうはっきり口に出すな」
 俊介をたしなめる言葉で。しかし、三田村が誰かに切々と訴えてでもいるようで。――これは、三田村自身の痛みだ……。俊介は悟り、
「……別に……でも……嫌いってわけでも、当然、ないんですが……」
 慰めになるのかどうかわからない言葉を口にしてみる。
「ああ、」
 三田村は小さく吹き出すように笑った。
「おまえはまた気が優しいからなあ。そうやってフォローすんだろうなあ」
 胸を突かれたような気がした。
「三田村さんの恋人さんはフォローしてくれないんですか」
 また三田村のコップが空になった。
「……だからよ……ハナから恋人じゃねんだよ。フォローもなにも、いらねえだろ」
 苦い口調、苦い言葉。うつむく三田村にかける言葉が見つからなくて、俊介も黙って隣で冷えた酒を舐める。
「……おまえの相手はいいな」
 ふと三田村が漏らした。
「おまえは……人当たりが柔らかい。それだけでも……いいよな、ほっとするだろ、相手は」
 そう言う三田村が、常になく、なんだか疲れても、傷ついてもいるように見えて。言葉に迷って俊介は、バン! その背中を叩いた。
「三田村さん、ヤンチャだから!」
 お?と三田村が顔を上げる。
「すぐわがまま言って相手を困らせちゃうんでしょ。だから恋人じゃないみたいに言われちゃうんですよ、きっと」
 三田村の唇が不満げにとがった。
「俺はヤンチャか?」
「ヤンチャじゃないですか! すぐに子どもみたいなダダ言うし」
「言うか」
「言ってますよ!」
 今度は翳りのない笑い声を三田村は立てた。
「なら、ちっと、俺も反省せんとなあ」
「そうそう」
 軽口を交わしながら、いつもはざっくばらんに豪快な三田村の、思わぬ深部をのぞいた気のする俊介だった。





 そんな話があったせいか。
 今まで潰れた姿を見せたことのない三田村が、店を出た時には足元をふらつかせていた。
「ああもう、大丈夫ですか?」
 肩を貸しながらタクシーを止め、俊介は三田村をマンションまで送って行った。
 三十男の一人住まいにしてはこざっぱりと片付いている部屋に三田村を放り込んだところで、
「水……」
 お約束の依頼があった。俊介はタメ息をつきながら、玄関で座り込んでいる三田村に、キッチンから水を運んだ。
 一気にグラスを空けた三田村は多少しっかりした顔で、
「悪かったな、迷惑かけて」
 謝ってきた。
「いえいえ。ヤンチャ坊主から脱皮するこれからの主任に期待してますから」
 俊介はふざけて頭を下げた。顔を上げたところで、意外に力のある三田村の目と目が合った。
「……終電ももうないだろ。……泊まってくか」
 力のある、重い視線。声にも何か、こちらの肌に絡んでくるような湿りがあるようで……。
 どうしたのかと思いながら、俊介は、
「いえ、タクシーで」
 誘いを断る言葉を口にした。
「そうか」
 三田村がうなずいた途端に、重い視線が切れた。
「気をつけて帰れよ」
 その声はもうまったくふだん通りの軽さで。
 がちゃんと閉まったドアを背に、今日の主任は寂しかったんだろうなあとだけ、俊介は思ったのだった。





「だから、なんで二時なんですか」
「悪かったってば」
 今朝から何回目かのやり取りをまた繰り返す。
「あなたは……」
 また始めから繰り返されそうな気配に、
「君は、」
 俊介は初めて切り返しを試みた。
「恋人を信じられないのか?」
 青山の鳶色の瞳が大きく開いた。
「……恋人……?」
「ちゃんと俺は連絡もしたし……ぶ!」
「恋人!」
 叫んだ青山に突然抱き締められ、俊介は言葉を切った。
「恋人。初めてですよ、あなたがそうおっしゃってくれるのは!」
「そ、そうかな? 初めて?」
 ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる青山の、容赦のない腕の力に苦しさを覚えながら聞き返せば、
「そうですよ!」
 感激した面持ちの青山に、そのままリビングのラグの上に押し倒された。
「あなたは……優しいから……」
 俊介の上になって、男でも「美貌」という言葉がこれほど当てはまる容貌があるのかと思わせる秀麗な顔を、かすかに上気させて青山が言う。
「わたしを可哀想に思って、仕方なくわたしの気持ちを受け入れてくださっているだけなのかと、実はちょっと思ってました」
「そん……」
 ちょっとドキリと来たものを押し隠しながら、俊介は言い返す。
「そこまで俺もいい人じゃない」
「……嬉しいです」
 ゆっくりと俊介の上に覆いかぶさってきながら、青山はささやいた。
「あなたが、わたしを、ちゃんと恋人と呼んでくれて……」
 唇が寄せられてくる。絹糸のようになめらかな青山の髪の間に指を滑らせながら、俊介はその口付けを受けた。
 ――恋人。こいびと。……思いっきり否定するなと三田村は言った。では……三田村は誰かに否定されたのだろうか。想う相手に……拒まれたのだろうか。
 青山の舌が口の中を縦横に嘗め回していく。
 知らず、自分からもきつく唇を吸い返しながら、俊介は胸に呟く。恋人……。こうして躯を重ね、肌の熱を分け合い、獣の快を共にする自分たちは……そうだ、確かに恋人だ。自分たちに、ほかにどんなふさわしい言葉がある?
「……好きだよ」
 口づけの合間にささやく。
「俊介……」
 そうだ、自分たちは……好き合っている、恋人だ……。
 
 
 
 
 
 事後のけだるさの中で、ラグの荒い毛足がかえって心地よくてごろごろしていたら。
「……もうこれで蒸し返したりはしませんが……ゆうべはあなたから電話があるまで、気が気じゃありませんでした」
 責める口調ではなく、しみじみと青山が言うので、え、と俊介は振り返った。
「三田村さんと一緒だったんでしょう。あの人は油断ができません」
「油断って……いい人だよ、あの人は」
「いい人なのは知ってます。でも油断がならない」
「えー」
 俊介は肘をついて身を起すと、傍らの青山の顔を覗き込んだ。
「どこが? あの人は信頼できる人だと思うけどなあ」
 青山は小さくタメ息をついた。
「……あなたの無邪気さが怖いですよ。狼のそばに大切な仔ウサギを置いてる気分だ」
「なに、その仔ウサギって」
「自覚がないあなたは格好の獲物だってことです」
「なにをバカなことを言ってる」
「バカじゃないですよ。いいですか。三田村さんには気をつけてくださいね」
 俊介は笑った。ばかばかしくて笑うしかなくて、青山の鼻をつまんだ。
「君のそれはね、」
 ゆっくりと言い聞かせる。
「ヤキモチだよ。単なるヤキモチ」





 そんなことはないですと、言い返しながら鼻をつまみかえしてきた青山に、笑って抵抗しているうちに。
 素裸のままの躯がまた重なりあって、上になり、下になり……。
 土曜の長い午後は抱きあう肌の間にゆっくりと過ぎた。
 














 

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