裏切りの証明<10>
 





  
   
  振り返れば、鋭く目を光らせた東が立っている。
 だけど、先輩は小さく吹き出した。
「おまえ、隣の組のヤツは入ってくんなって教室の入り口で通せんぼしてたタイプ?」
 カッと東の眦が切れ上がる。だけど先輩は止まらなかった。
「ガキくさ。小学生並みだな」
「先輩!」
 わざと東を怒らせたいみたいな先輩の言葉をさえぎりたくて、ぼくは声を上げた。そしたら先輩はすぐ、
「ああ、悪かった」
 謝ったけれど。
「あんた一体、なにしに来たんだ」
 先輩を睨みつける東の表情は険しくなるばかりで。
 と、先輩はぼくたちにくるりと背を向けた。え、と思ったら、
「ケンカ腰になる前に、人の少ないところに案内しなさいよ」
 肩越しにからかうような口調で言う。
 ギリッ、東の奥歯が鳴るのが聞こえた。
 
 
 
 
 
 キャンパスの端の、植え込みが連なるあたりまで、3人で無言で歩いた。
 人気のないところで、先を歩いていた東が振り返る。
「……どういうつもりだ」
 東の、怒気をはらんだ低い声が先輩に向かう。
「どういうって?」
 先輩は不思議そうな表情で問い返す。
「近くまで来たから寄ってみただけだよ? 朝から高橋に連絡つかないから、なにかあったのかとも思ったし」
「なんであんたが秀に連絡とらなきゃならないんだ」
「友達に連絡とるのに理由がいるとは思わなかったなあ」
 先輩は驚いたように目を丸くして見せた。
「君と高橋が付き合ってるのは知ってたけど、なに? 君の恋人は友人関係まできっちり君に管理されなきゃならないのか?」
 堅く握られた東の拳が震えた。
「……しらじらしいこと、言ってんじゃねーよ!」
 声が荒ぐ。
「あんたが秀にちょっかい出してんのは知ってんだよ! どうせ絵梨を取られた腹いせに……」
 エリ? 突然出てきた名前にぼくが驚くのと、先輩の手が東の顔に向かって伸びたのが同時だった。
「……言っていいことと悪いことの区別もつかないか?」
 先輩の右手はがっしり東の顎を捕らえていた。
「……ぐ……」
 東の口を塞いだまま、先輩はぼくを振り返った。さっきまでとはちがう、やっぱり先輩も怒ったような表情で。
「絵梨って言うのはね、高校で君たちの一年上、ぼくの一年下にいた福田絵梨のこと。学校一と言われてた美人で、俺と付き合ってたんだけどね、東に取られて、俺は振られた形で終わったわけ」
 福田先輩のことはぼくも覚えていた。高校生離れした大人びた雰囲気の、華やかな美人だった。
「……で、つまり、」
 先輩の目が東をにらむ。
「おまえは、その時の恨みで俺が高橋に手を出したって言いたいわけか。自分を有利にしたいのはわかるが、その理屈は高橋を傷つけるだけだとわからないか?」
「……うるせっ!」
 先輩の手をようやく振り払った東が叫ぶ。
「ならどういうつもりでこいつの周りをうろちょろしやがる! あんた、ホモッ気ないだろうが!」
 先輩は無言でしばらく東の顔を見つめていたけれど。やがて。にっこり、笑顔を浮かべた。
「だから言ってるだろう? 友達付き合いだって。気の合う後輩と友達として付き合ってるだけなのに、過去の恨みもホモッ気も関係ないだろ」
 実際ね、と先輩はにこやかに続けた。
「絵梨のことは君が言い出すまで忘れてたよ。もしも君が絵梨のことで俺に勝ったつもりでいたなら、悪かったね、忘れてて」
 東の白い頬が先輩の言葉にカッと赤く染まる。
「誰が……!」
 先輩は東の言葉をさえぎるように、軽く手を上げた。
「とにかく。俺と高橋は友達付き合いしかしていない。そこまで君が干渉する必要はないと思う」
 ぐっと深く東が一歩踏み込んだ。先輩の胸元を掴み上げる。
「……そんな嘘が通用するか。あんた、コイツとヤッてるだろ。バレてないとでも思ってんのか」
 先輩は落ち着いた表情で至近距離の東を見返した。
「君が最初から、俺に対してケンカ腰だった理由はそれか?」
 一瞬、東は先輩を殴りたそうな様子を見せたけれど。ひとつ、息をつくと、
「あんたが最初から、俺に対して妙に余裕かましてる理由はそれだろ」
 低く静かに言い返した。
 並ぶと少しだけ、河原先輩のほうが背が高い。でも、そんな身長差なんか関係なく、二人はにらみ合った。
「……君がどう思おうと、俺と高橋はただの先輩後輩だよ」
「…………」
 東は無言のまま、先輩を突き放すように胸元を捉えていた手を放した。
「……だったらさっさと帰れ。後は俺とこいつの問題だ」
「そうだね、それは君と高橋の問題だね、」
 先輩は薄く笑ってうなずいた。そして、去り際に一言だけ、付け加えた。
「まだ、ね」





「あの野郎……!」
 先輩が去った後、東は手近にあった楓の木に思い切りコブシを叩きつけた。
「東……」
 ぼくはその手をそっと両手で包み込んだ。
「……手、傷めるよ……」
 けど、東はその手をすっとぼくの手の間から引き抜いて。
「おまえが呼んだのか」
 そう言った。
 瞬間、意味がわからなくて怪訝な顔になったぼくに、
「河原。おまえが呼んだんだろ。イチャつきたいなら俺のいないところでやれよ」
 東の冷たい言葉が突き刺さる。
「ち、ちがう! 呼んだりしてない!」
 東は信じられないと口で言う代わりに、顔ごとぼくから背けようとした。
「東!」
 たまらなくて。ぼくは東の両腕をつかむと、正面から東の顔を見つめた。
「ちゃんと聞いて! ぼくは先輩を呼んだりしてない! ゆうべ…ゆうべは確かに先輩と一緒だったけど……」
 そこでひとつ息をつくと、ぼくは腹を決めた。
「……一度。一度だけ、ぼくは東を裏切った。ぼくは、先輩と、一度だけ、セックスした」
 ぼくは東の瞳を見つめて、はっきりと告げた。けど。東の瞳は不審げにきゅっと細くなって。
「……一度?」
 ぼくはこくりとうなずく。
「そうだよ。一度だけセックスした。でも、それだけなんだ、本当に。何回か、先輩と遊びに行ったことはあるけれど、それは先輩が言うようにただの先輩後輩として、友達として遊びに行っただけで……」
「ヤッてもらえなかったのか。元はあいつ、ノンケだもんな」
 東の嘲笑の意味が理解できたとたん、ぼくは東の頬を平手で打っていた。
「な……ひ、ひどいよっ! なんで、そんな、ぼくが……ぼくが、まるで……」
 勝手に息が荒くなって言葉が途切れる。
 そんなぼくに東の視線はどこまでも険しくて。
「ひどいのはどっちだよ。おまえ、もうずっと、俺に抱かれてても上の空だったじゃん。ホントはあいつのこと考えてたんだろ。あいつに抱かれたかったんだろ」
「ちがう!!」
 大声で叫んだ。悔しくて、悲しくて。涙が出そうだった。
「先輩は関係ない! ぼ、ぼくはマスターのこと聞いてから……聞いてからずっと……」
 ぼくは一生懸命、自分の気持ちを表す言葉を捜した。
「ぼくは東に裏切られたような気がしてた。東にも、マスターにも、二人に一度に裏切られたような気がしてた。どうしてもっと早くにきちんと教えてくれなかったんだろう、どうしてずっと二人の秘密にしてたんだろうって、ぐるぐるぐるぐるして、苦しくて…………ちゃんと聞いてよ!」
 視線をそらそうとする東の前に回りこんで、ぼくは続けた。
「東のこと信じたいと思うのに、裏切られた気がしてどうしようもなかったんだ! ほかの人のことなんか、考えてない!」
 東の口元が皮肉な笑みに歪んだ。
「ほかのヤツのことは考えてない、けど、俺のことも信じられない。だから天井のライトでも見てたってか」
 殴られたような気がした。
「東……」
「いいよなあ、おまえはさあ。黙ってた俺が悪いんだもんな。ほかの男に抱かれようと、おまえはどこまでも被害者ヅラできるもんな」
「…………」
 反論したいのに。そんなんじゃないと言いたいのに。東の言葉の毒が刺さって、口も身体も、痺れたように動かない。
「河原じゃなくても、おまえを慰めてくれるヤツはたくさんいるんじゃね? 付き合ってた相手、昔ネコだったんです、いまさらでしょう? おまけにファザコンだったんですよ、ひどいでしょう? そう言って回れば? そんな気持ち悪い相手と付き合ってたの、かわいそうだねえって言ってもらえるだろ」
 声はすぐには出なかった。出なかったけれど。
 ぼくは必死に首を横に振った。
「……ちが…ちがう……!」
「なにがちがうんだよ」
 今朝見たのと同じ目をして、東はぼくを見つめた。痛みをこらえるような、寂しそうな……。
「俺の腕の中で、おまえ、自分がどんな顔してたか、わかってる? 河原のことだって……おまえが俺に黙ってあちこちふらふら遊びに行ってんの、俺が気がついてないとでも思ってた? もしかしたら、おまえが河原と…って、俺、ずっと疑ってたよ。ゆうべ、おまえが河原に似たヤツと一緒にいるってタケシに聞かされて……」
 東の褐色の瞳が、本当に胸に痛みが走りでもしたかのように細くなった。
「けどさ……まだどこかで、もしかしたらもしかしたらって、俺、思ってた。なあ、秀。本当に河原とただの友達だったって言うならさ、なんで話してくんねーの? 今朝だって、一時間、隣に座ってたじゃん。ゆうべライブ行ったんだって、話してくれりゃいいじゃん」
「……東……東……」
 息が苦しくて。胸が苦しくて。ぼくは大きく息をつく。
「なあ、それってさ……やっぱ、おまえ、河原に気があるってことじゃねーの? 一度だけだったって言うけどさ、それがおまえの中で大事なことだったってことじゃねーの?」
 なんだかもう、まっすぐ立っているのもつらくて。
 ぼくは膝に手をついた。
 言い訳のしようがない部分を、自分で作ってしまっていたことに、そしてそのことで東を傷つけていたことに、ぼくはようやく気が付いていた。
 それでも。それでも、このまま黙っているわけにはいかなくて……、
「……なんで……?」
 なんとか顔を上げた。
「東だって……マスターのこと、ぼくに話せなかったじゃないか。ずっと、ぼくに黙ったまま、ぼくにマスターを紹介したよね、マスターの店で働いてたよね。東だって……言えなかったんだろ、ぼくに。マスターに抱かれてたって、ぼくに言えなかったんだろ? だったら、なんで……」
 なんでぼくが話せなかったことを、わかってくれないんだ。
 ぼくの問いに、その場に東はしゃがみこんだ。立てた膝に腕を乗せる姿勢で俯いたぼくの顔をのぞきこむ。
「何度も言ったろ? 昔のことだったから、もう終わったことだったからって」
「嘘つき。本当はマスターのこと、東にとってすごく重くて大きなことだったんじゃないか。だから簡単にぼくに話せなかったんじゃないか。ちがうの?」
「じゃあ、おまえが河原のことを話せなかったのは、やっぱりそれが重くて大きなことだったからか」
 ぼくはぎゅっと目を閉じる。東を責める言葉はそのまま自分に返ってくる。
「……マスターの弟さんが亡くなった時……東、飛んで行ったろ? おまえにはわからないって、そう言ったろ? 突き放されたみたいに感じたんだ」
「……俺、おまえに話したよな? マスターとどうして始まったのか、俺がなにを求めてたのか。その話聞いて、おまえが気持ち悪いと思ったらそれまでだって、俺、覚悟してた。おまえは気持ち悪いとは言わなかったけど……俺が手を出すと、それまでよりもっと、躯を堅くするようになった。……拒否られたって、思った」
 ぼくと東はじっと見つめあった。
 東はしゃがんで。ぼくは膝に手をついて。
 低い位置で、ぼくたちは見つめあった。
 同じ思いが互いの瞳にあるのを、見つめあった。
 
 
「……東が……」


「……秀が……」


 瞳にあるのは、胸にあるのは、寂しさ、悲しさ、やるせなさ……そして、相手への非難。
 おまえがああしたから、こうしたから、そうしなかったから。
 思いのまま、同時に相手の名を呼んで、ぼくたちは悟る。
 
 
 
 
 
 先に立ち上がったのは東だった。
「……おまえが言えよ」
「やだ」
 ぼくは最後の駄々をこねる。
「おまえが俺を裏切ったんだから、おまえが言えよ」
 上からの声に、ぼくはようやく膝についていた手を放し、背を伸ばす。
「東。それ、水掛け論だから」
「……ああ、」
 そうかと、前髪をかきあげる東の姿に、早くも目頭が熱くなる。
「……しゃあねえな……」
 東は呟き、横目でぼくを見た。そして、ひとつ、大きく息を吸い、吐いて。
「……別れよう、俺ら」
 ポン、と言葉を置いた。
 ぼくも大きく、息を吸って、吐いて。
「……うん」
 うなずいた。
 
 
 
 
 
 ぼくたちが目にしたのは、相手の裏切りの証拠ばかり。
 許せない、裏切りの証拠ばかり……。
 
 
 
 
 
 いつの間にキャンパスを出たのかすら、覚えていないけれど。
 気がついたら駅から自宅への道を歩いていたから、電車にもちゃんと乗れたんだろう。
 あと一つ角を曲がったら数十メートルで家、というところで、一台の車がすっとぼくの脇に寄ってきた。なんだろうと思ったら。
「家に帰る?」
 ドライバー側のウィンドウが降りて、河原先輩がぼくを見ていた。
「ドライブ行きたい気分とかはない?」
 ……なんで、ここで。このタイミングで、とは思ったけれど。不審より疑問より、先輩のおだやかな笑みがあたたかそうで……。
「……行きたい……」
 ぼくは考える間もなく呟いていた。
「じゃあ、どうぞ」
 先輩が助手席を指し示す。
 ぼくはふらふらと車の前を回ってドアを開いた。
「行きたい場所のリクエストある?」
 先輩に聞かれて黙って首を横に振った。
 車はすぐにスピードに乗って走り出した。
 ――河原先輩とドライブに行くのか……。
 改めてそう思って。
 でも、これはもう、東への裏切りにはならないんだと思いいたった瞬間、ぼくの目からは堰を切ったような涙が溢れ出した。





 


 

 
                                                       了





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<後書きにかえて>
今回の連載終了にあたっては、
いろいろなご感想もあるかとは思いますが、
次作のタイトル予定が
「ぼくたちの真実の証明」というところで
ご容赦願えればと、
思うわけです、はい。