おまえは俺の犬だから 最終部 一話
「悠太郎、悠太郎」
呼ぶ声に岡田悠太郎はハッとする。
「政宗様!」
振り返って駆け寄ると、政宗は全裸でうずくまって泣いている。その白い太腿には真っ赤な血が不規則な線を描いて伝う。
「痛い……痛いんや、悠太郎……」
「政宗様……」
政宗を傷つけたのは悠太郎だ。躯の自由を奪って、無理矢理犯した。
「……痛い……」
「……政宗様……」
傷つけてしまった後悔と、痛みをこらえてひっそりと泣く政宗が哀れで、悠太郎はその白い躯を抱き締めようと腕を伸ばす。
「悠太郎……」
しかし、悠太郎の手は政宗に届かない。ついさっきまで悠太郎の目の前にあったはずの白い躯は、なぜか深い深い穴の底にあって、悠太郎がどれほど手を伸ばそうと届かないのだ。
「政宗様! 政宗様!」
せめて政宗のほうからも手を伸ばしてくれれば……。悠太郎は暗い穴の底でうずくまる政宗に向かって必死に呼びかける。
「……さまッ」
自分の声に驚いて悠太郎は飛び起きた。
(またこの夢)
同じ夢を何度も見ている。――やり場のない怒りをぶつけて政宗を犯し、大阪を飛び出て半年。そのあいだに何度、傷ついてうずくまって泣く政宗の夢を見ただろう。
「……ふう」
カーテンの外はすっかり明るい。隣を見ると母の布団はもうない。仕事に行ったのだろう。
悠太郎は掛け布団をはぐると台所へと立った。東京の水は大阪に負けず劣らずまずかったが、ここ静岡の水はマシな気がする。それでも近くのドラッグストアでよく特売でミネラルウォーターが出ているところを見ると、やはり水道水を嫌う人がいるのだろう。そんな贅沢とは無縁の悠太郎は、蛇口から出た水をそのまま飲んだ。
大阪を出てきたことを後悔などしていない。ようやく母と一緒に暮らせるようになってうれしい。最後に政宗をレイプしたことだって、それまでに味わわされた屈辱から思えば許される程度の意趣返しだったと思っている。
――少なくとも、起きている時の意識は。
けれど、夢の中ではちがう。
政宗をあんな形で傷つけたことを後悔し、それこそ「捨ててきた」しまったような申し訳なさに、毎晩のように悠太郎はうなされる。
関西一円を勢力下におさめる仁和組二次団体清竜会、その組長・竜田勇道の一粒種、竜田政宗に、悠太郎は十の年から七年間、「犬」として飼われていた。七年間のあいだには友人のような時間を持ったこともあるし、完全に召使い扱いではあったが同じ部屋に寝起きしていた時間もある。
だからといって、決してそれはなつかしがれるようないい時間でも関係でもなかった。政宗には恨みこそあれ、恩などなにもないというのに……なぜ自分はこんなに後味の悪い夢ばかり見るのだろう。
(あんなものを持ってきたせいだろうか)
布団を押し入れに片付けるついでに、悠太郎は大阪から出てくる時に使ったスポーツバッグを引っ張り出した。季節の合わない上着や好きな漫画が数冊、放り込んであるだけのカバンの底に、「それ」はある。
黒革の犬用の首輪。
竜田の家にいるあいだ、悠太郎は風呂に入っている時をのぞいて、布団の中でさえ、その首輪をつけていなければならなかった。政宗がそうしろと言ったからだ。
最初は細かった首輪も、悠太郎の成長とともにサイズが大きくなって、最後は大型犬用のごつい首輪しか合わなくなった。――食事はいつも、テーブルにつく政宗の後ろで床に正座して食べさせられた。政宗に「おすわり、お手」と言われたら、すぐにその場にしゃがんで命令に従わなければならなかった。首輪を自分の手ではめたりはずしたりしてはいけなくて、誰かにはめてもらったりはずしてもらうまでは口に咥えて待っていなければならなかった。……屈辱の証のようなその首輪を、それなのに悠太郎は持って来てしまっていた。
「捨てよう、捨てよう」と思って取り出しては、またカバンの底に仕舞い込むのを、もう何度繰り返しているか。
(ちゃんと捨てられないからあんな夢を見るんだ)
黒革の首輪を手に立ち上がり、今度こそ捨ててやると台所に置いてあるゴミ箱の蓋を開く。
「…………」
あとはそこへぽいっと放り込めばいいだけ。
手を放そうと思うのに、首輪を握った手は硬く閉じたまま開かなかった。
「……捨てるのはいつでもできるんだから……」
自分につまらない言い訳をして、悠太郎は踵を返す。
もう半年たつが、まだ半年だとも言える。一年たち、二年たてば、こんな首輪のことなど忘れてしまうだろう。その時には「まだこんなの持ってたのか」と苦笑いで捨てられるにちがいない。
悠太郎はカバンの底に、またその首輪を突っ込んだ。
店には四時に着けばいい。それまでの時間、悠太郎はまったりと洗濯をしたり、気が向けば掃除機をかけたりして過ごす。建築会社の事務の仕事をしている母とはすれちがいの生活だが、休みの日に一緒に買い物に行けるだけでも、ふたりにとっては贅沢なレジャー気分だった。
ヤクザの組長の家で「犬」として飼われていた悠太郎同様、夫が持ち逃げした金の穴埋めのため風俗で働かされていた母にも、この数年、自由はなかったらしい。母はあまり話したがらないが、店の寮のようなところで一部屋に数人が押し込められて寝起きし、稼ぎはほとんど店に取られていたようで、悠太郎にとってと同じように、母にとっても今の暮らしは十分に恵まれたものであるようだった。
「関口さんのおかげだよねえ」
折に触れ、母はしみじみとそう言う。
しかし、その関口に悠太郎はまだ一度も会ったことがない。
母の話では店に来て母と恋仲になった関口が、店から出られるように母の借金を清算してくれた上に、当座の生活費として百万ポンと渡してくれたという。その金と関口が用意してくれた部屋があったからこそ、母は大阪から悠太郎を呼び寄せられたのだ。
会ったらきちんと礼を言おう。母とのことを邪魔するつもりはないから、仕事さえ見つかれば自分は自分で部屋を借りてここを出て行く、そう悠太郎は関口に伝えるつもりだったのに、悠太郎が東京に出てくると同時に、関口は海外に行ってしまったらしい。
「不動産の仕事なんだよね? それでどうして海外なの?」
悠太郎が不思議に思って尋ねると、母は困ったように首をひねった。
「さあ……かあさんにもよくわからないんだけどね……なんか、フィリピンとかあっちのほうにもお仕事があるらしいの」
そう言われればそうなのかと思うしかない。
東京では二ヶ月しか暮らさなかった。
ようやく悠太郎が母との生活に慣れた頃、帰国した関口が静岡に仕事の拠点を移すので母にも静岡に来てほしいと言いだしたのだ。その時は母子ふたりが住むアパートに関口がやって来たらしいが、バイトに出ていた悠太郎はその時も会えずじまいだった。
なんにしろ、静岡にもう部屋も用意してある、母の仕事も見つけてある、引っ越し代金ももちろん心配するなと言われれば、悠太郎母子にことわる理由はなかった。言われるままにこの静岡の中都市に越してきて四ヶ月――しかし、そこまで金を出して面倒を見てくれた関口は引っ越し後、一度も姿を現さない……。
「かあさんも年だから……関口さんみたいにお金があって、男振りもいい人を女の人はほっとかないもの。一度でも一緒になろうって言われただけ、かあさん、いい思いをしたのよ」
と母は寂しげに言う。
「こうして悠太郎とまた一緒に暮らせるようになって、昼のお仕事がちゃあんとあって……それだけでもう関口さんには十分過ぎるほどしてもらってるから……」
とも。
母の言う通りではあった。
東京でも静岡でも母の仕事は関口が見つけてくれた。二度の引っ越しも費用は関口が持ってくれた。おかげで最初にもらった百万はそのまま、母子の虎の子になっている。たとえ関口が今になって母への愛想を尽かしてしまったのだとしても、文句の言える筋ではない。
(やっぱり、俺みたいな息子がいるせいかもな)
口には出さないが、悠太郎はそう思うことがある。
関口は悠太郎の存在を最初から受け入れてくれていると母は言うが、高校生にまで育った男をいまさら息子のように扱えるわけがないだろう。しかも……。
(義理の息子になるかもしれないのが、こんな半ヤクザみたいな……)
竜田の家を出て、母との新生活が始まって……悠太郎は当初、カタギとして生活していくつもりだった。きちんと仕事を見つけ、いずれは定時制の高校に入り直して……と、思っていたのだ。しかし――。
ヤクザの水で育った躯は同じ水を呼ぶのか、東京でもこの街でも、ただコンビニでバイトをしているだけなのに、「にいちゃん、いっぺん事務所に遊びに来いや」といかにもな風体の男に声を掛けられたり、「なあ岡田、ちょっと割のいい仕事しない?」とバイト仲間の友人というのに話を持ちかけられたりした。
もちろん、そんな話には乗らなかった。が、バイト先で親切にしてくれた大学生がトラブルに巻き込まれ、その相談に乗っているあいだに、気がつけば本職相手に事務所で談判などしている自分がいた。
幸い、東京での暮らしは本格的に極道の世界に引っ張り込まれる前に終わったが、その展開はこの静岡でも同じだった。
「にいちゃん、肝すわっとんなあ。なあ、うちで働かへんか」
とスカウトされて、今は地元の不良たちの溜まり場のような店でバーテンダーをしている。飲み物や軽食を出したり、店内での喧嘩を仲裁するのが「表」の仕事だが、期待されているのは、年は悠太郎とそれほど変わらぬ少年たちの中から「めぼしいの」に目をつけて組員につなぐことと、グループを組んでいる少年たちの勢力図の把握だ。
ヤクザ者の中で育ってきた悠太郎にとって、どういう少年が極道の水に染まりやすいかを見極めるのはかんたんだった。
まだ盃はもらっていない。正式に組員になるつもりもない。だが、極道に馴染みきった身にはこういう仕事が楽なのも向いているのも本当だった。
(でも、いつまでもこうじゃない。いつか……ちゃんと正業について……)
けれど、そうして「いつかいつか」と思いながらどんどん身を持ち崩していく極道者を今までにたくさん見てきた。
(俺はもう、このままヤクザな生き方してくのかなあ)
東京に出て初めて持った携帯電話のアドレスの半分はこの半年で知り合ったスジ者か、組員ではないものの怪しい職業の者で占められている。
こんな自分がいつまでも一緒にいるのは母のこれからによくないのではないか。もしまた、母を好きだと言ってくれる男性が現れても、自分が原因でこわれてしまうのではないか。高校に通おうとか、正業に就こうと思えばむずかしいが、ただ食べていくだけならひとりでもできる。大阪から出て半年。悠太郎は母から離れることを真剣に考え始めていた。
その日、悠太郎は東京暮らしのあいだに知り合ったヤクザ者と会っていた。バイト仲間が巻き込まれたトラブルを解決する時に乗り込んだ事務所で会った相手だ。
「田舎暮らしでクサってねえか? たまにゃあ遊ばせてやるから出て来い」
と連絡をもらって、ことわればいいのにと思いながら東京に出たのだ。
「なんだ、おまえ、静岡でそんな仕事してんなら、東京来て俺を手伝えよ。オヤジの盃もらってやるからよ」
来てみれば案の定、「うまい話」と「俺の子分にならないか」という話だった。駅裏の古い喫茶店で向かい合うと、男は「ちょっと危ない橋渡れば数十万の仕事だ」と切り出した。
「どおんと稼いで、かあちゃんに楽させてやれよ」
という誘い文句もありきたりだ。
「いやあ、まあ……」
のらりくらりとかわしていると、
「おまえ、大阪でヤクザもんの世話になってたって言っても、もう大阪に戻る気はねえんだろ?」
突っ込んで聞かれる。
「まあ……不義理して黙って出てきちゃったんで……」
いまさらのこのこと清竜会に顔を出すわけにはいかない。
「おう。ならいいんだけどよ……なんか大阪は揉めてるらしいから、おまえもさっさと腹くくって、こっちでビッグになってみろよ」
セリフの後半はどうでもよかった。
「……大阪が揉めてる?」
「ああ、ほら、西は仁和組ががっちり押さえてるだろう。その仁和組の中がどうもゴタついてるらしんだな、これが」
「……あそこは、でも……仁和組の総長がやり手で……」
「総長じゃねえよ、その下が揉めてんだよ」
そう言うと男は顔を寄せてきて声をひそめた。
「長いこと、仁和組では清竜会って二次組織が一番デカかったんだよ。今の平の跡目はおそらく清竜会から出るだろうってな。ところがここに来て、古参の組同士が手を組んで清竜会と張り合うようになったらしいわ。城戸と二葉っつったかな」
「……へえ。でも戦争とかなんないでしょ。おんなじ仁和組なんだし……」
一度に口の中が干上がった。心臓が早鐘のように打ち出す。悠太郎は平静を装ってさりげなく水を向ける。
「わっかんねえよ、そりゃあ。噂では清竜会の跡取りが死んだって話もあってよ、それがもし城戸や二葉のやつらの仕業だったら、ドンパチ、ありだろ」
「え……」
とっさに男の言葉が理解できなかった。
「そこでさ、うちのオヤジやその上が、関西に出るには今がいいチャンスなんじゃねえかってなるわけさ。大阪も華僑のやつらがのしてるのは同じだろうが、そんでも……」
「清竜会の跡取りが死んだって、それなに? 若頭筆頭かなにかが死んだとか?」
しゃべり続ける男の言葉など、それ以上耳に入ってはいなかった。悠太郎は男をさえぎって疑問をぶつけた。
「いや……息子だと思ったけどな。死んだっつーか、消えたらしいぜ? なにおまえ、清竜会になにか縁でもあんの?」
尋ねる男を無視して立ち上がる。
「ごめん。また連絡する。急用ができた」
ぽかんとしている男を残して、悠太郎は店を出た。
これもヤクザの習い性で、現金はなるべく多く持ち歩くようにしている。母親に「友達と遊ぶことになったから、今夜は帰らない」と連絡を入れて、悠太郎はそのまま新幹線に飛び乗った。
二度と戻るつもりのなかった大阪であり、竜田の家だったが、清竜会の跡取りが死んだと聞いてはいてもたってもいられなかった。
(政宗様が死んだ? いや、あいつも事情はよく知らないみたいだった。島崎さんか藤崎になにかあって、それで……)
(死んだか、消えたかって……もしかしたら、政宗様が家出とか……)
新幹線の中ででも足踏みしたいような焦燥に、悠太郎はデッキをうろうろした。
東京から移った静岡の街はそこそこ大きく、暴走族に入るようなヤンチャな若者も多くいたが、ヤクザ社会的には本流とは言えない団体が仕切っている街だった。地元の極道者たちが集ってできた家庭的な組が、関東の広域暴力団の流れの盃をもらって四次五次団体となっている。東京の話もほとんど聞こえて来ない街で、大阪の動向などわかるはずもなかった。
(……だから……)
声をかけられたからといってわざわざ東京まで出向いたのは、もしかしたらなにか大阪の情報が聞けるかもしれないと期待してのことだったと、ようやく悠太郎は自分に素直になって認める。
(政宗様……)
もう関係ない、死んでいようがどうしようか知ったことか。
そう無理に思ってみようとしてもダメだった。日暮れを迎えて暗くなっていく車窓を見ながら、悠太郎は「早く着け」と念じてイライラと足を踏みかえた。
新大阪に着いた時は新幹線の中から見えていた夕焼けの空はすっかり暮れ、駆けこんだ在来線は夕方のラッシュで込み合っていた。電車の中でも足踏みしたいような焦慮に、悠太郎は竜田の家の最寄駅に着くなり、全力で走り出した。誰より早く階段を上り、改札を抜け、人のあいだをすり抜けて外へと飛び出す。
しかし――かつて「飼われて」いた家が見える角まで来て、悠太郎の脚はぴたりと止まった。どのツラ下げて……という言葉があるが、まさにそれだ。いったい「どのツラ下げて」、夜中に飛び出した家に行けるというのか。そして自分がレイプしたまま放置してきた元・飼い主はどうしていますかと聞けるというのか。
せめて家の前まで行きたいが、車数台を止めることができる門前はカメラでしっかり見張られている。裏口も同様だ。しかも東京で聞いた話が本当なら、抗争に備えて警備はさらに厳重になっているだろう。
悠太郎は竜田の家が見える角まで行っては引き返し、また角まで行っては先をのぞき込んだ。
(せっかく東京から走って来たのに……)
手詰まりにイライラする。
(誰か顔見知りの組員でも出て来ないか)
幹部たちに見つかれば、それこそ「恩義を知らぬヤツ」とヤキを入れられてしまうだろうが、何度か一緒にテキヤの仕事をしたようなチンピラたちなら、こっそり政宗の様子を教えてくれるかもしれない。
そう思いついたところで、悠太郎は一筋戻ったところにあるコンビニに行ってみることにした。そこは竜田の家で寝起きする清竜会下っ端たちがよく使う店で、たまに幹部自らが買い物をしていることもあるが、基本、パシリにされるのは下っ端ばかりだ。
なるべく顔を伏せて店に入り、菓子棚の前で菓子を選ぶ素振りでそっと周囲をうかがった。
その悠太郎の横に、見るからにヤクザのペーペーですといった風体の若い男がすっと寄ってきた。やはり菓子を選ぶような素振りで悠太郎の横に座り込む。
「悠太郎さん……やろ?」
棚を見たまま、そう話しかけられた。
「なんだ、おまえ」
思わず見下ろす。見たことのない顔だ。
「こっち見んで。他人のフリしてや」
「…………」
なにか訳ありな男らしい。悠太郎はほかに清竜会の組員らしい人間がいないかと店内をそっと見まわした。
「……なんで俺のこと知ってる?」
「話はあとや。ちょっとつきおうてもらいたいんやけど」
「つきあうって……」
「悠太郎さん、政宗さんのことが気になって戻って来たんちゃうん?」
「…………」
政宗の名前を出されて、悠太郎は身体を固くした。
自分の名前と政宗との関係を知っているこいつは何者なのか。
「おまえ……政宗様……政宗のこと、知ってるのか。いなくなったって聞いたけど、それは……」
「し。他人のフリしてて」
言われて、悠太郎はその男を問い詰めたいのを我慢して、棚の商品に興味があるかのように手を伸ばして、パッケージを眺めるフリをした。
「後からついてきて」
立ち上がりざまにそう言うと、若い男は悠太郎の返事を待たずにさっさと店を出て行った。悠太郎が動かずにいると、煙草を吸う様子で店の前で立ち止まる。
(何者だ。いったい……)
このまま知らぬふりで男が行ってしまうのを待つ手もある。政宗の名を口にし、悠太郎の顔も名前も知っているなんて、怪しすぎる。わざわざ危ない橋を渡る必要はないんじゃないのか。しかし、ここでうろうろしているより、男についていったほうが政宗の消息はつかみやすいかもしれない。
数分迷って、悠太郎はやはり店を出た。
怪しい動きをされたらすぐに逃げだせばいいだけだ。
素知らぬ顔で悠太郎の先に立って歩き出した男のあとを、悠太郎は用心しながらついて行った。
その若い男は悠太郎と歩き出すと、携帯電話を取り出した。短くなにかを話したあと、大通りへと向かって行く。
「……なあ」
数メートル先を行く男に、悠太郎は声をかけた。
「おまえ、清竜会の組員じゃないのか。俺をどこに連れてくんだよ」
「話しかけんで」
「おまえ、政宗様のこと、なにか知ってんのか」
「…………」
男は返事もせず、振り返りもしなかった。そのまま大通りへと出る。帰路を急ぐ車がヘッドライト、テールライトを光らせて、数珠つなぎになっている。
(人目があるところで変なマネはしないだろうけど)
悠太郎が、この男についていって本当にいいのか、逃げたほうがいいんじゃないのかと迷い始めた時、男はくるりと踵を返した。
「政宗のことが知りたいんやろ? バス停通り越したところで待っとき」
すれちがいざまにぼそりとそれだけ言い置いて、男は来た道を戻っていってしまう。
「おい! ちょっとあんた……」
呼び止めようとしたが、素知らぬフリで歩いていく男の脚は速い。
「なんなんだよ……」
男の言葉通り、前方にバス停がある。
(政宗のことが知りたいなら)
知りたい。そのために東京から飛んできたのだ。
悠太郎は指示された場所で車道に向かって立った。
誰か来るのか、なにが起こるのかと十分ほども待ったところで、ハザードをつけた黒い軽自動車がすーっと歩道に寄ってきた。内装にはこれでもかと白いファーがあふれ、車体には国民的アイドルの子猫キャラがデコられている。が、スモークが張られた助手席の窓から顔を出したのはその可愛い軽自動車とは真逆のイメージの、スキンヘッドのいかつい男だった。
「岡田悠太郎やな?」
「そうだ」
「乗り」
と後ろのドアを顎でしゃくられる。
「……あんたたちはどこの組員だ。俺をどこに連れて行く」
「俺らは二葉……」
と答えかけて、助手席のスキンヘッドの男は、奥の運転席の、やはりスキンヘッドの男に頭を小突かれた。
「城戸組のもんや」
胸を張って言い直す。
「……どうして二葉や城戸の者が政宗様のことを知ってるんだ」
「ええから乗れて。兄貴が待っとんねん。くわしい話は乗ってからや」
兄貴とは誰だ。おまえたちは誰の指示で動いているんだ。問い詰めたかったが、ここで押し問答していても仕方がない。悠太郎は後部座席のドアを開くと、その軽自動車に乗り込んだ。
『くわしい話は乗ってから』と言ったくせに、天井に頭がつきそうなスキンヘッドの男ふたりから聞きだせたのは「兄貴が待ったはる。くわしい話は兄貴に聞けや」だけだった。
「だから! あんたらの兄貴の名前を教えてくれって言ってるだろ!」
焦れた悠太郎は後ろから助手席のシートをドンと蹴った。
「なにしてくれとんねん! このクソガキャア!」
さすがに目を吊り上げて怒鳴られる。
「くわしい話は車の中でって言っただろ! こっちはその話を聞こうとしてるだけだ!」
ヤクザの凄みなどもう慣れっこだ。怖くもない。怒声に負けずに怒鳴り返すと、運転席の男が、
「うるさいわ。ゆうとるうちに、おら、着いたで」
と車を停めた。
マンションかなにかの地下駐車場のようだった。外車や高級車がずらりと並んでいる。車を降りた悠太郎はふたりのスキンヘッドに挟まれてエレベーターに乗せられた。
そのエレベーターの内装はシックで落ち着いた上品なものだった。しかも階数表示が地下と一階のほか、homeしかない。
(直通?)
思ったとおり、降りた階には一部屋しかないらしく、エレベーターを降りたロビーには見るからにヤクザ者の男たちが黒光りのするオーク材のドアを守るようにたむろしていた。
「兄貴、お帰りなさい!」
と声をかけてくる。
(城戸組の大物の家か)
察して、悠太郎はへその下に力を入れて深呼吸した。
「入れ」
とドアを開けられて入った玄関は、玄関だけで悠太郎が母と暮らす木造アパートの部屋並みの広さだ。その玄関から毛足の長いじゅうたんの敷かれた廊下を通って、高級そうな家具の並ぶ、モデルハウスのようなリビングに通される。
「兄貴。悠太郎、連れて来ました」
スキンヘッドが声をかけると、ソファから長身の男が立ち上がった。
「久しぶりだね」
にっこり笑った顔は知っている。
「城戸……輝良……」
つぶやいた悠太郎に城戸輝良は優雅な身のこなしで近づいてくる。
「輝良さん、だよ。馬鹿野郎」
馬鹿野郎、の声とともに、だった。
笑顔のまま、輝良のこぶしに胃の真上を抉られた。
「……っぐぇ」
油断していた。息が止まるような苦痛に、悠太郎はその場にうずくまった。
つづく
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