十一月の風が、沈鬱な色をした空の下を吹き抜けていった。草原の下草が、雑踏を行き過ぎる無数の人の声のように、一斉にざわめく。僕はうっすらと閉じていた瞼を開いた。どんよりと垂れ込めた雲の隙間から射し込む午後の太陽に、また目を眇める。しかしそれは、夏の光の、あの突き刺すような眩しさからは、既に程遠くなって久しいものだった。
もう十一月か――ほっと溜息を吐いて僕は思った。あとふた月もしない内に、冬がこの草原を冷たい色に染め上げるのだ。いつからだろう、巡り来る季節が繰り返すはやさを増して、僕の目の前を通り過ぎてゆくようになったのは。
昔はこうではなかった。まだ無邪気だった日々、しん、と降るように訪れる季節を、幼い僕は躯(からだ)全体で受け止めたものだった。だが、月日を重ねるにつれ、いつしか季節は色も匂いも失っていき、やがてただ僕の傍らを通り過ぎていくだけのものになりはてていた。
そんな、喪失感にも似た感慨に僕が耽っていると――
草原のざわめきに重なって、下草を掻き分けてこちらに近づく足音があった。
「またここにいたのか、巳間――」
ふっと間近に気配を感じるのと同時に名を呼ばれて、僕は声の主に視線を向けた。痩せぎすの躯に白衣を纏った長い髪の男が、地面に寝転がる僕を少し呆れた表情で見下ろしていた。
「高槻か――何の用だ」
僕は男――同僚の高槻に向って言った。
「何の用だ、とはご挨拶だな」
僕の隣りに腰を下ろしながら、高槻は皮肉そうな形に唇の端を吊り上げた。別に皮肉を言っているわけではない時でも、この男はいつもこんな風に笑った。あるいは、高槻にとってはこの宇宙に存在する森羅万象全てが嘲笑の対象なのかもしれなかった。
「おい、髪が枯草だらけだぞ」
そう言って、高槻の細く骨ばった指が、無遠慮に僕の前髪を梳こうとする。
「やめろよ、鬱陶しい――」
僕は高槻の手をを邪険に払いのけた。
「鬱陶しいとは酷いな」
特に気を悪くした様子もなく、高槻はまた、皮肉そうな笑みをうかべた。
「それで、一体何の用なんだ?」
もう一度、僕は尋ねた。
「ああ――B‐12の検査を手伝ってほしいと思ってな。そろそろ結果の出る頃だ」
高槻は草原の外れに視線を向けた。つられて、僕もそちらを見る。窓の無い、巨大なトーチカのような建物が、灰いろをした無機質な姿で寝そべっていた。宗教法人FARGO宗団の実験施設――つまりは僕達の職場だった。
「結果、か…。今度はどれくらいもってくれるのかな」
「それこそは神のみぞ知る、というやつだ」
独りごとのように言う僕に、今度こそ、本当に皮肉な声を上げて高槻は嗤った。
僕達がFARGOの実験施設で行っていたのは、『悪魔』と呼ばれる異種生命体の持つ特殊な能力――『不可視の力』を人間に移植する研究だった。移植、というのは文字通りの意味で、『悪魔』の体細胞を被験者に植え付けることでその能力を移植するのだ。体細胞の移植はもっとも自然な形で行うことが望ましかったため、僕達は被験者に『悪魔』とセックスさせるという方法をとっていた。その都合上、被験者は女性に限られた。
表向き宗教団体に偽装したFARGOには、『不可視の力』に魅せられた女達が砂糖に群がる蟻のように蝟集してきた。「自分は他人とは違う筈だ」「人よりも優れた、特別な存在でありたい」そんな願望を抱いている女は、特に探す努力をするまでもなく、いくらでも簡単に見つけることができた。この世に存在する人間で、自分自身のありように満足している方が圧倒的に少数派だからだ。そんな女達に、僕達は精神を強化する処理を施し、『悪魔』の体細胞を移植していった。
体細胞の移植と定着までは比較的スムーズにいくものの、『不可視の力』を完全に制御するまでに到る被験者はごくまれだった。大抵は『不可視の力』に自我を乗っ取られて暴走した挙句、拒否反応を起こして死亡するのがおちだった。僕達は精神強化の度合いや移植を行うタイミングを変えたりして、完全なコントロール体を作り出すための条件を探ることに腐心した。そして折りにつけ、そんな人を人とも思わない研究を平然と行えている自分を、僕はひどく不思議に思った。
僕の隣りに座っている男は、どう思っているのだろう。あんなふうに女をモルモットのように扱うことに疑問を感じることは無いのだろうか。あるいは、そこに昏い悦びを見いだしているのだろうか――ふと、そんなことを思い、僕は高槻に、お前は女を愛したことがあるか、と尋ねてみた。
「女を愛する、だと?」
高槻はつめたい笑いを浮かべた。
「馬鹿ばかしい、あんなものは単なる射精のための道具だ」
ああ、そうだろうよ――言葉に出さず、僕は胸の内で呟いた。お前が誰かを愛するなんてこと、あるはずがない。だってお前は自分自身しか愛していないんだから。
「馬鹿言ってないで仕事に戻るぞ」
高槻は腰を上げると実験施設に向かって歩き始めた。僕も起き上がって高槻の後を追った。
僕がFARGOに入ったのは、二年前のことだった。
当時僕は、インターンとして勤務していた大学病院の医療ミス騒動のとばっちりを食らって籍を失い、途方に暮れていたところだった。製薬会社と癒着した教授が患者に無断で新薬の臨床試験をしていたのだが、予想していなかった副作用のせいで患者の容態が急変し、死亡こそ免れたものの、患者には深刻な後遺症が残ることになってしまったのだ。
こうしたケースの多くがそうであるように、全ての責任は下っ端の僕らに押し付けられ、教授が傷を負うことは無かった。つまりはよくあるトカゲの尻尾切りだ。教授は周到に証拠を隠滅した上、ご丁寧にも僕が二度とこの業界で働けないよう関係各所に根回しをした。インターンの過程を終えたあとなら過疎地域の診療所にでも勤める手があったかもしれないが、僕にはそれも不可能だった。そもそも僕にはまだ、一人前の医師として働く技量も無かった。
孤立無援の身で半ば自暴自棄に陥っていた僕に、ある日見知らぬ男から電話がかかってきた。とある研究機関で研究員として働いてみないかという誘いだった。まともな状態だったら絶対に相手にしないところだが、切羽詰っていた僕は、そこがどんな研究機関で何を研究しているのかさえ碌に聞かず、二つ返事で誘いに乗った。何か問題があるようなら尻をまくればいいだけのことだとたかを括ってもいた。
そして、北関東の山奥にあるFARGOの研究機関に赴いた僕は、同僚として一人の男を紹介された。それが高槻だった。
「お前、F大の大学病院にいたんだって?」
初対面の僕に、高槻はいきなり何の挨拶も無しに、嘲るような口調で言った。
「それで、あの医療ミス騒動に巻き込まれてスケープゴートにされたわけか」
僕は鼻白みながら、そうだ、と答えた。すると高槻は声を上げて嗤った。
「間抜けな奴だ――そもそもあんなクズどもの下で働いていたお前が馬鹿なんだよ」
高槻の言葉に、僕は唖然としていたせいで、ひと言も言い返すことができなかった。そしてかろうじて、ここで自分が何をすればいいのかを尋ねた。すると高槻はさらに馬鹿にした口調で、「お前、何も知らずにここに来たのか」と言った。それから痩せこけた顔に残酷そうな笑みを浮かべると、「いいだろう――教えてやる。ここがどんなところなのかをな。案内してやるからついて来い」と言って歩き出した。高槻の物言いに反発を覚えはしていたものの、特段表立って逆らう理由もきっかけも見つけることができず、僕は大人しく高槻に随った。
その後の小一時間で、僕は自分が後戻りのできない地獄に来てしまったことを知った。
「どうだ、素晴らしい職場環境だろう」
ひと通り見学が終わった後、案内された個室で、ベッドに腰掛けて言葉もなく蒼ざめる僕に、高槻はわざとらしくにやにや笑いながら言った。
「こんなことが、許されるはずがない」
僕はようやく、押し出すように言った。すると高槻は心底蔑んだ口調で、
「許されるはずがないって――お前、一体誰に許しを請うつもりなんだ?」と言った。
答に詰まる僕に、高槻はさらに続けて言う。
「倫理だの、良心だの、ましてや神だの、まさかお前、そんなありもしないものを後生大事に信じ込んでるんじゃないだろうな? そんな寝言をほざくような奴に、科学者を名乗る資格なんか無いんだよ。いいか? 科学はな、世界に対する人間の挑戦――人間が、世界から与えられたままの自分であることを超えようとすることなんだ。そこにわざわざ、善悪なんて卑小なまやかしの観念なんか持ち込んでどうする」
「そんなのはただの詭弁だ」
さすがに僕は反論した。
「科学が善悪を見失ったら世の中は滅茶苦茶になってしまう。人間は科学者の玩具じゃない。そんな理屈がまかり通るのは、この施設の中だけだ」
「ほぉう…」
しかし高槻は薄く笑って言った。
「だったら、外の世界の、お前のいわゆる善悪を弁えた連中が、一体お前に何をした? ご立派な、大学病院の教授さまがだ。あいつらが、どんな倫理感を持っていたっていうんだ? 自分がどうしてこんなところに来るはめになったか、まさか忘れたわけじゃあるまい? …まあ、あんな俗物どもが科学者だなんて、俺は認めちゃいないがな――」
そう言われてしまうと、僕は黙り込まざるを得なかった。高槻が続けて尋ねる。
「どうしてお前一人が詰め腹を切らされるはめになったか解るか?」
「…僕が何の力もない下っ端だったからだろ」
弱よわしく僕は答えた。
「違うな」
短く切って捨てるように高槻は言った。
「どうしてお前が全部の責任を押し付けられるはめになったか――それはお前が、倫理だの善悪だの、ありもしないまやかしに囚われている阿呆だったからだ。そんなものは存在しないし、実際腹の底じゃ誰も信じちゃいない。哀れな夢見る夢男のお前以外はな。お前は本当の意味じゃ何も見えちゃいなかったし解ってもいなかった。生贄にするには実にうってつけの人材だよ。もしほんの少しでも周りの見える奴なら、自分が屠殺場に連れて行かれようとしていることに気付いて逃げ出すだろうからな。そんなわけで奴らは、たまたま都合よくそこにいたお前に、ことの責任を押し付けた――つまりはそういうことだ」
「お前なんかに何がわかる」
吐き捨てるように僕は言った。だがそれは反論などではなく、ただ悔し紛れに毒づいてみせたに過ぎなかった。何故僕がやってもいない医療ミスの責任を押し付けられることになったか――高槻の言うような極論まではいかないものの、僕が甘ちゃんだったからという理由については自分自身でも認めざるを得なかった。医局を追い出されることになるまさにその直前まで、僕は自分にそんな悪意が向けられるとは、これっぽっちも予想していなかったのだから。
「なるほど。自分でもわかってはいるがどうしても認めなくない――そういうことか」
表情を固くして俯く僕に高槻は言った。
「いいだろう――だったら俺がお前を解放してやる」
「解放?」
不意に近くで高槻の声が聞こえた気がして、僕は顔を上げ――そして息を呑んだ。高槻のぎらぎらとした双眸が、三十センチと離れていない距離から僕の顔を覗き込んでいた。僕は思わず身を引こうとしたが、高槻の両手が素早く動いて僕の肩を掴むと、そのままベッドの上に押し倒した。
「何をするんだ!」
僕は慌てて高槻を撥ね退けようとした。だが、被験者を扱うので慣れているのか、高槻は見かけに似合わない腕力で僕の躯をいとも容易く組み敷くと、頑丈な皮革製の拘束具であっという間に手足を縛り上げた。
「いいか、俺は今からお前を犯す――」
ベッドの上で、左右の手首をそれぞれの足首に繋がれた、裏返しになったカエルみたいな無様な格好で身動きも取れない僕を見下ろして、高槻は言った。
「もちろん、お前に惚れたからなんてわけでもなければ、俺が見境無しのホモだなんてわけでもない。刑務所の囚人みたいに、とにかくセックスと名のつくことさえできれば、相手が女じゃなくても構わないわけでもない。犯して構わない女なら、ここには掃いて捨てるほどいるからな」
「だったらどうしてだ」
僕は恐怖にすくみ上がりながら尋ねた。高槻は痩せこけた顔の上に、毒蜘蛛が脚を広げたような笑みを浮かべた。
「解らないか? 俺にはそれが可能だからだ。俺はお前を犯すことができる。だから俺はそうする――それだけのことだ。すぐ目の前に『可能なこと』があるのに、なんでわざわざ理由だの動機だの、後付けの理屈をこじつける必要がある? そんなものがまるで無意味だってことを、今からお前に教えてやる。手垢のついた幻想からお前を解放してやる」
言いながら、高槻は僕のシャツをまくり上げると、露わになった胸板に唇を這わせ始めた。ほそ長く骨ばった指が巧みに動いて、ズボンのベルトを外し、ファスナーを下ろしていく。
「やめ…ろお…っ! お前っ…狂ってる…っ!」
「倫理だの善悪だのに囚われたお前にはそう見えるのかもしれんな――」
舌先で僕の乳首を弄びながら、嘲弄するように、高槻は言った。
「だが所詮まやかしはまやかしだ。ある時代のある国での、なんでもないことが、別の時代の別の国では、死に値する罪になる――何の意味もないことだ。誰かがその場の都合ででっち上げた法や道徳にどんな価値がある。本来自由な存在であるべき人間が、何故そんなものの犠牲にならなければならない――」
呪詛するように続けられる高槻の言葉を聞きながら、僕は、熱い舌が体の上を這いまわる未知の感覚と必死に戦い続けた。声一つ、立ててはいけない。このおぞ気立つような感覚に、決して反応してはならない。一度でも反応したが最後、僕の躯はまったく別な、僕の知る自分自身ではないものになってしまう――そんな恐怖が、辛うじて僕を繋ぎとめていた。
だが――
「くっ…!」
太腿の裏側から股間にまわされた高槻の指先が、これまで誰にも触れさせたことのないすぼまりを探りあてた時、僕はとうとう声を上げてしまった。
「素直になれ――あるがままの自分を受け入れろ。自分を偽ってまで、お前は何を守ろうというんだ」
笑いを含んだ高槻の声が耳朶をくすぐる。
「…っ、だま…れぇっ!」
異様な感覚に息を喘がせながら、僕は言い返した。だが、その間にも高槻の指は、僕のアヌスをくじり立て、揉みほぐしていく。飽くまでも優しく丹念に、そして執拗に――
「やめろ…」
僕は屈辱に歯を食いしばって呻いた。だがそれは高槻に対して言ったのではなかった。僕の意思を裏切って、徐々に高槻の指先を受け入れ始めている、自分自身の躯に対してだった。
「よし…そろそろいいか――」
高槻が言い、そしてジッパーを下ろす音と、次いで、もそもそと衣擦れの音がしたかと思うと――
「――――――っ!!!!!」
突然、指ではない熱い何かが、僕の躯を貫いた。もっと太くて長い、固くいきり立った物だった。疼痛を伴った強烈な挿入感に、僕は声にならない声を上げて身をよじった。息ができない。腑(はらわた)が口から飛び出しそうだ。
躯の奥底までえぐり入れられたそれは、一旦、粘膜をこすり上げながら半ば近くまで引き抜かれたかと思うと、再び、深ぶかと根元まで突き入れられた。そしてまた引き抜かれ、突き入れられる。抜く――挿れる――機械的なまでに淡々と、その行為が繰り返される。
「…っはっ…! も、もう…っ…やめ…」
苦しい息の下で、僕はついに懇願の言葉を口にした。だが、高槻の行為は止むどころか、さらに激しく、抽送の速度を増していく。
「ぐう…っ…! …っはっ…!」
死んでしまう――苦痛に喘ぎながら僕は思った。僕は死ぬ。きっとこのまま、腑を引きずり出されて死んでしまうのだ。
やがて――
「うっ…!」
低く呻いて、高槻が動きを止めた。高槻の腰が、僕の腰にぎゅっと強く押し付けられる。一瞬の間をおいて、粘っこく火のような熱さをもつものが、自分の躯の中でどくどくと迸り出るのを僕は感じた。
「後始末はしておけよ。そのままだと腹を下すからな」
身繕いを整えながら、こともなげな口調で高槻は言った。僕は拘束を解かれた後もベッドに横たわったまま、声もなく、一方的に加えられた暴虐の余韻にただ身を震わせていた。
「じゃあな。ゆっくり休んでおけ。早速明日から仕事だからな」
高槻は白衣に袖を通すと、そのままドアに向かった。ノブに手をかける。
「待て――」
僕は声をしぼり出すようにして高槻を呼び止めた。
「何だ?」
高槻が怪訝そうにこちらを振り返る。僕はどうにか顔を上げると、高槻を睨みつけた。
「お前は――いつもこんなことをしているのか」
「まさか――」
高槻は呆れたように眉を上げて言った。
「男を抱いたのはこれが生まれて初めてだ」
そして、返す言葉もない僕に背を向けると、高槻はドアを開けて部屋を出て行った。
高槻が言った『解放』という言葉の意味が、僕には今も解らない。何故なら高槻が僕を抱いたあの夜、僕と人間社会を隔てて分厚い鉄の扉が閉ざされ、がちりと冷酷な音を立てて錠がおろされたのだから。僕は永久に、暖かい血の通う人間の世界から追放されてしまったのだ。
確かに、人間を縛る法や道徳に遵う必要がなくなったという意味で、僕は自由になったかもしれない。だがそこにあったのは、全てが許される理想郷などではなかった。法や道徳や、自分自身の良心にさえ背いてありとあらゆる行為に手を染めなければならない、人でなしの鬼が棲む無間地獄だった。
そしてこの僕も、ここにいる以上、既にその鬼の中の一匹であるのは、間違いなかった。