風と木の高槻

第3話 「spirits」

死と暴力、妄執と絶望――澱んだ水で満たされた地下水槽のような教団施設で、僕の日々は続いていった。

昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が、際限もなく繰り返されていく、灰色に塗り潰された悪夢じみた毎日。

『精錬』と称して女性の尊厳を踏み躙り、精神強化と称して人間の人格を踏み躙り、実験と称して生命を踏み躙る。自分がついこの間まで、仮にも人間の生命を救う理想を掲げる職業に就いていたことが、性質の悪い冗談にさえ思えた。

どうということはないさ――僕は自分に言い聞かせた。

どうということはない。目も耳も口も壊れてしまった人間のように、何も感じず、心を閉ざして生きていけばいいのだ。簡単な話だ。僕ならできるはずだ――僕はそう思った。

少なくとも、そう思い込もうとしていた。



「ひどい顔だな」

ノックもなしにドアを開けて、僕の顔を見るなり、高槻は言った。

「何の用だ」

僕はベッドから半身を起こして高槻を睨みつけた。高槻は僕の問いに答えず、さらに続けて言った。

「自分が今どんな顔をしていると思う? 目の下は真っ黒、頬はげそげそ、顔色ときたら死人も同然だ」

「余計なお世話だ」

僕は吐き捨てるように言った。

「それより、こんな夜中に何の用だと訊いているんだ」

「まともに眠れていないんだろう――?」

しかし高槻はやはり僕の問いには答えず、僕の顔を覗き込んだ。

「良心の呵責か? 自分のやっていることが後ろめたいか? 死んだ実験体どもが、恨みがましい顔で夢の中に出てくるか? あぁ?」

「黙れ! 僕が眠れようと眠れまいと、それがお前に何の関係がある!」

ねちねちとした高槻の物言いに耐え切れず、僕はとうとう声を荒げた。

「おいおい、せっかく同僚を心配してきてやっているのに、ずいぶんな言い種だな」

高槻はいつも通りに、大仰に肩を竦めてみせた。

「――まあともかくだ、研究の進捗が全体的に遅れているんだ。上の連中からもせっつかれている。お前にも、もっとばりばり働いてもらわなけりゃならん。なのに最近のお前ときたら、目はうつろで手元もおぼつかず、ゾンビも同然の有様だ。

――なあ、この一週間で、何回MINMESの設定を間違えた? 何人被験者を廃人にしかけた? お前のミスの尻拭いで、どれだけ手間と時間を無駄にしたと思ってる。いつまで新入り気分でいるつもりだ――はっきり言ってな、今のお前はお荷物なんだよ!」

「…わかった」

反論の余地はどこにもなかった。低く押し殺した声で、僕は言った。

「明日からはちゃんとやる。だからもう出て行ってくれないか」

「ちゃんとやるって、今のお前のざまでそれを信じろって言うのか」

「…ならどうしろっていうんだっ…!」

俯いて、しぼり出すように僕は言った。

「――お前にいいものを持ってきてやった」

打ちひしがれる僕をしばらく眺めた後、おもむろに高槻は口調を変えて言った。白衣のポケットから、手品のように茶色い壜を取り出す。蓋が捻って開かれると、甘ったるいウイスキーの匂いが部屋の中に漂い出た。

「酒か」

内心、苦にがしく思いながら僕は言った。

「まあな」

と、軽い調子で、高槻。

「禁止されてるんじゃないのか?」

任務の遂行に支障をきたす惧れのあるアルコールは、戒律で厳しく禁じられているはずだった。それより何より、高槻がどこからどうやってこの教団施設に酒を持ち込んだかが謎だった。

「何事にも抜け道はある――」

壜から直接一口あおって、高槻は言った。

「仕事の最中に酒臭い息を吐いたり、どんちゃん騒ぎをやるのでもなけりゃ、そううるさくは言われんさ。寝酒くらいなら誰でもやってることだ」

「そうか、わかった」

僕は頷いた。

「だったらありがたく頂戴しておこう。後で飲むから、そこに置いておいてくれ」

実を言えば僕に酒を飲む習慣はなかったが、早く一人に戻りたかったのでとりあえずそう言った。高槻の顔に呆れた表情が浮かんだ。

「後で――って、もう夜中だぞ。今飲まないで一体いつ飲むんだ」

「一人になったらすぐにだ。そうしたら寝る。それでいいだろう」

投げ遣りに、僕は言った。

「やれやれ――」

高槻は首を左右に振った。僕に歩み寄りながら、またひと口、壜からウイスキーをあおり――

「!?」

いきなり頤(おとがい)を掴まれたかと思うと、僕の唇に、高槻の唇が重ねられていた。唇を割って舌が挿し入れられ、そこから甘ったるい味のする液体が流し込まれてきて、熱く咽喉を灼く。

「ぐふ…っ!」

僕は両手で思い切り高槻の体を突きとばした。咳き込みながら、手の甲で唇を拭う。

「何をするんだ!」

にやにやと面白そうに僕の様子を眺める高槻を、僕は激しい怒りを込めて睨みつけた。

「何をするもなにも、お前、俺が出て行っても飲みやしないだろうが」

「だからって…っ!」

「これが一番手っ取り早いからな」

怒りに震える僕に、平然として、高槻は言った。ウイスキーの壜をこちらに見せつけるように片手で弄びながら、急に口調を冷ややかなものに変えて続ける。

「あのな、いいかげんこっちもお前の駄々に付き合ってる暇はないんだよ。一体今何時だと思ってる? また明日も睡眠不足でへまをやらかすつもりか? とにかくお前が四の五の言わずにこいつを飲んでさっさと寝てくれてれば、俺だって面倒臭い真似をしなくて済んだんだ。解るか?」

「………」

「――で、どうする? ちゃんと自分で飲むか? それともまた、俺が飲ませてやらなきゃならないか?」

「………解った」

僕は高槻からウイスキーの壜を受け取ると、大きくひと口あおった。喉から食道にかけて、熱く燃えるような感覚が通り抜けていった後、胃袋がぎゅっと縮んで裏返りそうになる。

「…これでいいだろう」

込み上げてくる吐き気を堪えながら、僕は高槻に壜を返した。

「最初から素直に飲めばいいのに、まったく手間のかかる奴だ」

高槻は壜を受け取ると、また白衣のポケットにしまった。踵を返してドアに向かう。

「じゃあな、ちゃんと寝ろよ、坊や」

そう言い残して、高槻は部屋を出て行った。

そしてようやく一人になり、僕はベッドの上でただじっと歯を食いしばって俯いていた。

くやしかった。あの男の言うことに、何ひとつまともに言い返すことのできなかった自分が。結局、一から十まであの男にいいように扱われた自分が。 

こうなったら、意地でも眠ってなどやるものか――頑なに僕はそう思った。あいつの思い通りになど、絶対なってやるものか――

だが、数か月ぶりに摂取したアルコールは、僕の予想をはるかに越えたスピードで血流に乗って、既に体中を駆け巡っていた。酔いが、慢性的な睡眠不足で疲弊した前頭葉に軍隊蟻さながらの勢いで襲いかかって、僕の意識を溶かしていく。

こんなのは嫌だ――

僕は懸命に抗おうとしたが無駄だった。高槻の唇の感触の余韻も消えないまま、僕の意識は急速に暗黒の中に引きずり込まれていった。


そしてそれは、夢を見ることもない、久しぶりの、安らかな眠りだった。