『ホモ』――とその紙には書かれていた。
使用済みのプリントアウト用紙の裏面に黒のマジックでふた文字、ぞんざいに殴り書かれていた。それが僕の部屋のドアに、絶縁テープで貼りつけられていたのだ。
かっと頭の中が熱くなるのと同時に、膝から下が妙に頼りなくなった。一体どこのどいつが、こんな下衆な真似をしたのだ。
一瞬、高槻のしわざかとも思ったが、すぐにそうではないと思い直した。いやがらせをするにしても、あの男がこんな稚拙で芸のない真似をするはずがない。それに、僕のことをホモだと触れ回ったりすればあいつは自分で自分の首を絞めることになる。僕の相手をしているのは、他ならぬ当の高槻なのだから。だがそうすると一体誰が――
考えてみたがまったく見当もつかず、僕は張り紙を破り取って白衣のポケットに突っ込むと、もやもやした不安と疑惑を胸に抱えたままラボに向かった。
午前中にラボでデータのとりまとめを終え、MINMESの調整のためにB棟に向かう途中、僕は通路の向こうから、小太りの男が歩いてくるのに出会った。電気技師の泥村(ひじむら)だった。
「巳間さぁん、身体のほうは大丈夫ですかぁ」
泥村は僕を見るなり、赤ん坊をそのまま拡大したような歪つな童顔に薄ら笑いを浮かべて話しかけてきた。
「――何のことだ?」
僕は泥村を見つめ返して眉を顰めた。最近、病気に罹った憶えも体調を崩した憶えも無いし、挨拶のつもりなら「調子はどうだ」と尋ねるのが普通だ。
だが僕に答えず、口を尖らせた妙にねちゃねちゃと粘っこい喋り方で、泥村は 「身体のほうは大丈夫ですかぁ」 と同じことを繰り返した。
「それがお前に何の関係があるんだ?」
込み上げてくる不快感をおし隠して、僕はつとめて事務的な口調で言った。
「だぁからぁ、身体のほうは大丈夫ですかぁって訊いてるんですよぉ」
いやらしい笑いを浮かべたまま、もう一度、泥村は言った。
この泥村と言う男は、この施設全体の電気系統の管理を受け持っている技師――高槻に言わせると「巡回員どもと似た寄ったの虫けら」――だったが、その性格を端的に表すなら、歪んだ劣等感の塊だった。
僕や高槻のような研究員に対しては、 「どうせぼくなんかただの下っ端ですからぁ」 が口癖で、そのくせ巡回員達に対しては横柄な態度をとるので、連中からは毛嫌いされていた。
そして、もって生まれた性格とおそらくはその容貌のせいもあるのだろうが、特に女性に対する劣等感がひどく、自分を相手にしない女達に対する復讐心と鬱屈した性欲を満足させるためか、基本的に巡回員が担当する 『精錬』 に、何かにつけ自分も加わろうとした。
さらにこの男の歪んだ性癖はそれだけにとどまらず、十代半ばかそれ以下の少女に対して特に強い執着心を持っていて、まだ中学生になったばかりの信者が入信してきた時に書類を偽造してまで自分一人で『精錬』しようと画策した前科まであり、以来、周囲からは影で 「精錬豚」 もしくはただ単に 「豚」 と呼ばれていた。
僕としても、ことさらに言葉や態度に出してまで蔑んでやろうとは思わないものの、さりとて個人的に関わりを持ちたくなるような相手でもなく、仕事上どうしても必要なこと以外で言葉を交わそうとも思わなかった。もうとっくに三十路を過ぎているはずなのに、自分のことを甘ったれた口調で「ぼく」と呼ぶのにも、自分も一人称に「僕」を使っているだけに、なおさら嫌悪の情が募った。
そんなわけで、特別に用事もない以上、あまりこの男と顔を合わせていたくなかったので、僕は訳のわからないたわごとを繰り返す泥村を黙殺して足早にその場から立ち去ろうとした。だが、泥村は僕に追い縋ってさらに話しかけてきた。
「あれれっ、無視しちゃうんですかぁ。冷たいなぁ。それともぼくみたいな下っ端と話すことなんて無いっていうんですかぁ」
何なんだ、こいつは――
あまりの執拗さに薄気味悪ささえ覚えながら、僕は足を止めて振り返ると、今度は嫌悪感を隠しもしない口調で言った。
「そんなことはどうでもいい。さっさと持ち場に戻ったらどうだ。それと、用も無いのに信者の周りをうろつくのはやめろ。信者の管理はお前の仕事じゃない」
それを聞いた泥村の目に、たちまち陰気な憎しみの色が浮かんだ。
「ええ、ええ、いいですよぉ。どうせぼくは嫌われ者の精錬豚ですからぁ。
――でも少なくともホモじゃない」
「…何の話だ」
僕は泥村をまっすぐに見つめ返して言った。
「だぁからぁ、身体のほうは大丈夫ですかぁって訊いてるんですよぉ。だってホモって痔になるっていうじゃないですかぁ。お尻の穴が爛れてるんじゃないですかぁ――?」
この上なく嬉しそうに――吐き気を催すような陰湿な喜びを満面に浮かべながら、泥村は言った。
「あの張り紙をしたのはお前か――」
僕は泥村を睨みつけた。
「あれぇ、何のことですかぁ? ぼく知らないなぁ」
泥村がわざとらしく目を丸くする。
「とぼけるな。僕の部屋のドアにホモって書いた張り紙をしただろう」
「それって何か証拠でもあるんですかぁ? それにぃ、怒ることないじゃないですかぁ。だって本当にホモなんだからぁ」
「それこそ、僕がホモだなんて証拠がどこにある――」
「でもぉ、ぼく見ちゃったんですよねぇ。昨日ラボで巳間さん達がしてるとこ。ずいぶん可愛い声を出してたじゃないですかぁ」
「何だと――」
僕は背中に冷たいものが流れるのを感じた。
昨日、ラボでデータを整理している時のことだった。急に高槻がやってきたかと思うと、 「お前、自分じゃ『精錬』に参加していないんだって? 随分たまってるんじゃないのか?」 そう言って、いきなり後ろから僕を抱きしめてきたのだ。僕は抵抗しようとしたが無駄だった。どうせ一度抱かれてしまっているのだ――そんな捨て鉢な思いもあったかもしれない。高槻の巧みな愛撫に、抗おうとしながらも徐々に体から力が抜けていき、そして僕はされるがままに絶頂に導かれてしまった。その痴態の一部始終を、よりにもよってこの下衆に見られてしまったのだ。
「男同士って、やっぱり女とセックスするのと違うんですかぁ? ――ああ、巳間さんは女役だから、違ってあたりまえかぁ。ねぇ、教えてくださいよぉ。いつもあんなふうにいじりっこしてるんですかぁ? ケツに挿れられて、感じて射精とかしちゃうんですかぁ?」
愕然とする僕の顔を覗きこみながら、楽しそうに泥村が続ける。
「――ねぇねぇ、今どんな気分ですかぁ? ぼくなんかに弱みを握られて悔しいですかぁ? ねぇ、研究員なのにぼくみたいな下っ端の技師風情に馬鹿にされて、どんな気持ちがしますかぁ?」
「黙れ」 ねちねちとした泥村の長広舌を遮って僕は言った。 「言いふらしたければ言いふらせばいいさ。好きにすればいい。だが誰がお前の言うことなんか信じると思う? 自分が他人からどんな風に見られているか、解らないのか? 『精錬豚』。見下げ果てた変態の豚野郎だ。僕がお前だったら、とっくの昔に自殺しているだろうよ。――ああそうさ、僕はホモかもしれない。だがお前はどうだ? 男だろうが女だろうが、一体誰がお前なんかの相手をしたがる? 一度でも素人の女を抱いたことがあるか? どうせ外の世界でも、風俗嬢くらいしか相手をしてくれなかったんだろう? 当たり前だ。お前みたいな気持ち悪い奴の相手をしたがる人間なんて、この世に一人だっているものか――」
「言ったな!! ホモのくせに、ぼくを馬鹿にしたな!!」
激昂して、泥村は叫んだ。興奮した豚の鳴き声そっくりの金切り声だった。怒りで顔をどす黒く紅潮させながら、泥村は腰のホルスターからリボルバーを引き抜いた。
僕も慌ててリボルバーを抜こうとしたが、ホルスターの中で指先が空を切って舌打ちをした。銃は常時携帯が義務付けられていたが、なにしろ重くてかなわず、ここのところ『不可視の力』の移植を行っていないせいで実験体が暴走する気遣いがないのをいいことに、ホルスターだけを装着して、肝腎の中身は個室のロッカーに入れっぱなしにしていたのだ。
「ぼくの勝ちだ! ざまあみろ、間抜けなホモ野郎!」
泥村はリボルバーを振りたてて快哉を叫んだ。
「馬鹿な真似は止めろ。こんなことをしてただで済むと思っているのか」
突きつけられた真っ黒な銃口を見つめながら僕は言った。
「今ならまだ何もなかったことにしてやる。だから銃を下ろすんだ」
「嘘をつけ!! 絶対通報するくせに!! ぼくを馬鹿にするな!!」
さらに興奮して、泥村が喚きたてる。
最悪だ――絶望が僕を襲った。こうなったからには、こいつは僕を射殺しなければ収まりがつかないだろう。主任研究員クラスの人間に、下の階級の者が装弾された銃を向けるだけでも重罪だ。降格や懲罰房入り程度の処分ですむはずがない。つまりこいつにとっては、ここでやめようが僕を殺そうが、大して違いはないのだ。だったらこいつが、やっと巡ってきた“他人”に対する復讐の機会を、易々と見逃すはずがなかった。
説得が不可能な以上、隙を見て力ずくで銃を奪い取るしかない――僕は覚悟を決めた。泥村が持っているリボルバーに込められている弾薬は、対ロスト体用の強化弾だから、胴体に当たれば急所でなくてもまず間違いなく即死、手足だったとしても、二度とまともな体には戻れないだろう。
だが――やるしかない。
僕はさり気なく身構えると、全身の筋肉を引き絞った弓のように緊張させて襲撃の機会を窺った。そう、ほんの一瞬でいい。こいつだってまばたきくらいするだろう。だからその瞬間を見逃さず――
ガツッ!!!
突然、目の前に火花が散って、僕は床に倒れ込んだ。泥村がリボルバーの銃把で僕の頭を殴りつけたのだ。
「見え見えですよぅ、巳間さん。銃を持った人間に素手でかかって、勝てるとでも思ってるんですかぁ? テレビの刑事ドラマじゃあるまいし。研究員って、意外と馬鹿なんですねぇ」
ぶざまに床の上に転がる僕を見下ろして、泥村が嘲笑った。子供のようにはしゃぎながら続ける。
「ざまあみろ! 研究員がどれだけのものだって言うんだ! いつも人を見下しやがって! ぼくの方がお前らなんかより、ずっとずっと頭がいいんだ!」
今度こそもう駄目だ――泥村の喚き声を聞きながら、僕は思った。こうなっては諦めるしかないだろう。どうせ碌な死にかたはしないだろうとは思っていたが、人生の最後に見た人間の顔が、この泥村の顔だというのが、どうにも情けなくやりきれなかった。
「それじゃ、さようなら。ホモの、ネコ役の、巳間さん」
僕の頭に銃口が突きつけられ、撃鉄を起こす音がした。
「やれやれ、騒がしいと思って来てみれば――お前ら何遊んでるんだ?」
聞き覚えのある声が、悠長な口調で言った。
泥村が弾かれたように僕から飛び退いて、銃口をそちらに向ける。
僕は倒れたまま、声のした方に頭を巡らせた。
通路の向こう側で、高槻が白衣のポケット両手を突っ込んで、呆れたようにこちらを見ていた。
「これはこれは――」
引き攣った笑みを浮かべて、泥村が言った。
「白馬の王子様の登場ってわけですかぁ。よかったですねぇ、巳間さぁん」
「ああ? 何言ってるんだ、お前?」
高槻が眉を顰める。
「逃げろ高槻――」 殴られた頭の痛みに呻きながら僕は言った。 「警備の連中を呼んで来るんだ。こいついかれて――ぐぶっ!」
言葉の途中で、鳩尾を蹴り上げられて、僕は悶絶した。
「駄ぁ――目ですよぅ――、せっかく愛し合う二人が感動の再会を果たしたって言うのにぃ、無粋な邪魔者なんか呼んじゃぁ」
へらへらと病的に笑いながら、泥村が言う。
「なるほどな――おおよその察しはついた」
何か熱いものから顔を背けるような、辟易とした表情で高槻は言った。
「さぁすが、高槻さん。巳間さんと違って物わかりが早いですねぇ。それじゃまず、ポケットから両手を出して下さい。ゆっくりとです」
「ああ、わかった」
高槻は両手をポケットから抜いた。
「そうしたら、両手を頭の後ろで組んでこっちに来て下さい」
泥村が銃口を振って指図する。高槻は特に緊張した様子もなく、むしろリラックスした表情でこちらに歩いてくると、泥村の前で立ち止まった。
「そら、来てやったぞ。次は何だ」
「じっとしていて下さい――」
高槻に銃口を向けたまま、泥村は反対側の手で高槻の腰周りをさぐった。と、泥村の眉が怪訝そうに顰められる。
「おや――? 銃は持っていないんですか?」
「まあな」
「それはよくありませんねぇ。ちゃんと携帯しないとぉ。規則違反ですよぉ」
「あんなクソ重いもの、いつもいつも持ち歩いていられるか。お前みたいな下っ端じゃあるまいし」
「下っ端だと――?」
高槻の言葉に、上機嫌だった泥村の顔が、たちまち憎しみに醜く歪んだ。
「…お前らはいつもそうだ。そうやっていつもぼくのことを見下すんだ。ぼくがいなけりゃ、灯りひとつ点けられないくせに。コンピューターもMINMESもELPODも、全部ぼくがいるから動かせるんだ! おまえら研究者がえらそうな顔をしていられるのも、全部ぼくのおかげなんだ!」
「わかったわかった――で、どうしてほしいんだ?」
げんなりと、高槻は言った。激昂して、リボルバーを振りたてながら泥村は喚いた。
「ぼくをもっと敬え! ぼくのことを尊敬しろ! 呼び捨てじゃなく『泥村さん』って言え! 二度とぼくのことを豚って言うな!」
「そうか――だがそれには少しばかり問題がある」
高槻はしかつめらしく眉を顰めてみせた。
「…何だ、問題って」
「ああ、とても困難な問題だ」
「だから何だ」
爆発寸前の険悪な表情で、泥村が訊き返す。すると高槻は愁眉を解き、いつも通りの皮肉な笑みを浮かべて言った。
「いくら俺でも、豚を尊敬するのは難しい」
「―――――っ!!! きさまぁぁぁっ!!」
泥村は、怒りのあまり顔を蒼ざめさせると、逸れていた銃口を高槻に向け直そうとした。
だがそれよりも一瞬早く、頭の後ろで組んでいた高槻の腕が電光石火の早業で振り下ろされ、その手の先にまるで手品のように握られていたリボルバーの銃口から、凄まじい轟音と火箭が吐き出された。泥村の眉間にぼつっと黒い穴が開き、爆ぜた後頭部から血と脳漿が撒き散らされる。一度ぴくりと躯を痙攣させた後、泥村は棒のように床の上に倒れた。
「やれやれ――大丈夫か」
まだ薄く硝煙を立ち昇らせているリボルバーをベルトに差し込みながら、高槻が手を差し出した。
「ああ、すまない。助かった」 僕は高槻の手を握って立ち上がった。 「それにしても、一体どこに銃を隠していたんだ?」
「ああ、これか――背中にテープで貼り付けておいた。映画で見た手だよ。一度やってみたかったんだ」
見ると言葉の通り、高槻の背中には剥がれかかった絶縁テープがひらひらとぶら下がっていた。
「呆れたな。後ろを向けと言われたら、どうするつもりだったんだ」
僕が尋ねると、高槻は蔑みきった視線を泥村の死体に向けた。
「こいつはそんなことは言いやしなかったさ。絶対にな。この豚はな、俺やお前が自分に屈服して、みじめったらしく卑屈に怯えた顔をするのを、何より見たがっていたんだ。やっと巡ってきた一回こっきりのお楽しみの機会なのに、もったいなくて後ろなんか向かせると思うか?」
「なるほどな――」
そういうものなのだろうか――と思いながら僕は頷いた。
「それより、一体なんでこんなことになった?」
高槻に尋ねられて、僕はことのあらましを説明した。すると、高槻は心底呆れ返った顔でため息をついた。
「馬鹿かお前。こんな奴、脅しつけるなり何なり、適当にあしらっときゃいいのに、同じ土俵に降りてどうする」
「………すまない」
僕は悄然として俯いた。僕にも言い分がなくはなかったが、煎じ詰めればそれらは結局、見苦しい言い訳でしかなかった。確かなのは、どじを踏んで死にかけた僕を、高槻が命がけで救ったということだった。
「まったく手間のかかる奴だ。俺がいなけりゃ何もできないのか」
そう言い残すと、高槻はまた白衣のポケットに両手を突っ込んで、のんびりした足取りで通路の向こうに歩み去っていった。