小鳥

Text by ヒンクレヰ



我が子よ…

よくお聞きなさい。

これからあなたに話すことは…とても大切なこと

わたしたちが、ここから始める…

親から子へと、絶え間なく伝えてゆく…

長い長い…旅のお話なのですよ。

金が足りない。

バスの乗降口の上の料金表と、掌の中の硬貨を見比べる。

何度数え直してみても足りなかった。

かっと頭が熱くなり、膝の下がたよりなくなった。

じわり、と背中に汗がにじみ出る。暑さのせいではない、やけに冷たくて粘ついた汗だった。

ポケットを探ってみる。

前のポケット。尻ポケット。しかし、指先に硬貨の感触が当たることはなかった。

鞄の中はどうだろうか。

油染みた床に投げ出して、ジッパーを開ける。

使い古したアルミ鍋、缶切りや果物ナイフ、黄色く変色したタオルやシャツ、石鹸や歯ブラシを入れたビニール袋…

「おかしいな…」

屈めた背中に運転手の冷たい視線を感じながら、わざと口に出してつぶやく。なるべく自然に。普通の人間が、財布のありかがわからなくてとまどっているように。

「今朝はちゃんとあったんだが…どこに入れたんだ」

「なあ、あんた」

なおも鞄を漁り続ける俺に、唐突に声がかけられた。

「はなから金なんか持ってなかったんだろう」

「あっ、いや…」

顔を上げる俺を、運転手が蔑みに満ちた表情で見下ろしていた。

「たまにいるんだよな、あんたみたいなの。見てすぐわかったよ」

どういう意味だろうか。

ゴミ捨て場から拾ってきたズボンとシャツだが、おかしいところはないはずだ。普通に見えるはずだ。

鞄だって、底の角と持ち手が少し擦り切れているが、どこにでもある大き目のスポーツバッグだ。

似たような風体の人間なんかざらにいるはずだ。

それがどうして「あんたみたいなの」などと言われるのだろうか。

「い、いや、乗る前にはちゃんとあったはずなんだ。おかしいな、ちゃんと探せば絶対…」

「もういいよ、降りてくれ。バスが遅れちまう」

「いや、本当に…」

「いいから降りろってんだよ!」

突き飛ばされるように、俺は乗降口を後ろ向きによろめき降りた。

足をもつれさせて地面にへたり込む俺に、

「臭いんだよコジキが!」

罵声と一緒に鞄が投げつけられた。

目の前で折りたたみのドアが閉まり、バスは俺の鼻先を掠めて発車する。

ディーゼル車特有の真っ黒な排気ガスが、俺の顔にまともに吐きつけられた。



バスが走り去るのを見送ってから、俺は立ち上がってズボンの尻をはたいた。

なんということはない。自分に言い聞かせる。

たまたま居眠りしてバス停を乗り過ごして、たまたま金が足りなくて、たまたま運転手の気が短かっただけだ。普通の人間でも、あってもおかしくないことのはずだ。それが今日、自分の身に起こっただけのことだ。

それに、俺は乞食などではない。旅人なのだ。

だから一つの町に留まることをしない。風に吹かれるように流れていく。

たびびと。

いい響きの言葉だった。

そして俺はその言葉にすがって生きていくしかなかった。



俺が旅に出たのは十を過ぎて間もない頃だった。

それまでは山奥の寺に預けられて暮らしていた。どういう理由で預けられていたのかはわからない。

学校にも行かず、ただ言われるままに一日中水汲みをし、掃除をし、薪を拾い、風呂を沸かす。夜には陰気な顔の住職から読み書きを習う。

なにかしくじると、ひどく殴られ、飯を抜かれた。

しかし、当時の俺にとってそれが日常だった。同じ年頃の子供も、当たり前の生活も俺の周りに存在しなかったからだ。鬱蒼と茂る杉林に囲まれた緑色の牢獄の中で、そんな日々が、ずっと続くのだろうと思っていた。

ある日、寺に一人の女が訪ねてきた。

長い髪の、美しい女だった。

周りに僧しかいない生活を送ってきた俺には、女自体が珍しい存在だった。

一目見ただけで、心臓を鷲掴みにされたように動けなくなり、呼吸をするのも苦しかった。

阿呆のように棒立ちになる俺に、女は俺の母だと名乗った。

母。おかあさん。何のことだかわからなかった。

「わたしといっしょにいく?」

行く。何処へ?どうでもいい。

大事なのは、一緒に、ということだ。

俺はこの美しい女と一緒にいられるというのか。

そう問う俺に、女は微笑んで、そうだ、と答えると俺を抱きしめた。

柔らかく、暖かく、いい匂い。俺がこれまで感じたことのない感触が、俺を包み込んでいた。

俺は号泣した。



それからは、日常が一変した。

俺と母は、一つ所に留まることなく、町から町を流れ歩いた。

見たこともない大きな町、建物、人々、喧騒、食ったことのない食べ物。

金の事を知ったのも、母と旅をするようになってからだった。

母は大道芸をして生活を賄っていた。

手馴れた口上と共に、色とりどりの手毬や人形を、手をかざすだけで動かし、宙に舞わせて見せた。いんちきでないことを示すために、客から預かった品を舞わせることもあった。

客が落とす金はわずかなものだったが、なんとか母子二人食べていけた。

時に母は、怖そうな男から何事か話し掛けられると、綺麗に化粧をして何処かへと出かけることがあった。

俺は一緒に行きたかったが、「大切な用事」だから絶対についてきては駄目だと言われた。

数時間、時には半日近く、俺は母を待った。

母が戻ってくると、その時は必ず何かお土産をもらえた。贅沢なものを食べに連れて行ってもらえることもあった。

だが俺は、母といつも一緒にいられたほうがうれしかった。



母が消えたのは、一緒に旅をするようになって一年近く経った頃だった。

山道の脇の、大きな木の下で、俺と母は野宿をしていた。

母は俺に手作りの人形を渡して、これを動かしてみろ、と言った。あなたは私の子だから、と。

少し前から、俺は母から手を触れずに物を動かす術を習うようになっていた。

本当に自分にそんなことができたのか、今となってはわからない。もしかしたら、母が何かのトリックを使って、俺に術が使えるように錯覚させていたのかもしれない。

だが、俺は母に喜んでもらいたい一心で懸命に学んだ。

そしてその時も俺はいつものように「動け」と念じた。人形に向かって念じ続けた。

ふと気付くと、焚き火の向こう側にいたはずの母がいなくなっていた。

小用でも足しに行ったのだろうと最初は思った。

俺は母を待ち続けた。

夜が明けるまで待った。

もしかしたらいつもの「大切な用事」で、何かお土産をもらえるかもしれないのだとも思った。

だが、次の夜がきても母は帰ってこなかった。

俺は母を捜して辺りをさまよった。泣きたかったが我慢した。泣いたら、認めてはいけない何かを認めてしまうような気がしたからだ。

二日が過ぎ、三日が過ぎ…

俺は探すのをやめた。もう泣きたいとも思わなかった。

母は、俺を捨てたのだ。

俺は山奥の繁みに人形を投げ捨てた。



母から聞かされた話に、「羽の生えた女の子」の話があった。

よく憶えていないが、とにかくその子を探し出さなければならない、そのために旅をしているのだと。

どうして、と問うと、その子は小鳥と同じで、私たちよりもずっと速く生きて、そしてすぐに死んでしまう、だから助けなければならないのだ、というような意味のことを言われた。

馬鹿馬鹿しい話だと思った。

俺や母が、どうしてそんなことをしなければならないのか。

だが、その日から俺の心に、美しい声で鳴く可憐な小鳥のイメージが住みついた。

そして、それは今も俺の中にある。母の面影が消え去った後も。



「ふう…」

俺はため息をついて辺りを見回した。

灼けたアスファルト。バス停。向日葵。入道雲。

そして眼下に広がる、海辺の小さな町の風景。

山沿いに見える白い建物は、学校だろうか。

本当は、もっと大きな町か農村に行きたかった。

繁華街のある町なら食い逃げをしても人込みにまぎれてしまえば逃げるのは簡単だし、農村なら、頼み込んで農作業の手伝いをさせてもらえれば、ほとんどの場合食べ物と、時には一夜の宿を提供してもらえることもある。

海辺の町ではそのどちらも望めそうになかった。

だが、今は移動したくても金が無い。歩いていける距離に俺にとって都合のいい町があるとも思えない。ここでなんとかするしかないのだ。

俺は町に続く道を歩き始めた。



俺は堤防沿いの道で足を止めた。

道沿いに菓子パンやアイスをおいてある商店があるところを見ると、ここは通学路か、あるいは子供がよく通る道なのだろう。

ここなら都合がいい。

俺は道端に腰を下ろすと、地面に新聞紙を広げた。鞄から大きなビニール袋を取り出して、中身を新聞紙の上に並べていく。

原色に塗り分けられたロボットの玩具、銀玉鉄砲、女の子の人形、プラスチックの自動車…

少しでも高級そうに見えるように心を砕いて並べた。

少し前、露天商の男と知り合いになった時に隙を見てくすねてきた品物だった。最近は商売にならないとこぼしていたから、少しくらい持っていったところでどうということはないだろう。

商品を並べ終わって程なくして、小学生らしいガキの二人連れが通りがかった。声高にマンガか何かの話をしながら、アイスキャンディーをなめている。道沿いの商店で買ったのだろう。つまり、金を持っているということだ。

「なあ、おもちゃ買わないか」

声をかける俺に、ガキ共は足を止めた。無表情に俺と、新聞紙の上の品物を見る。

「お店で買うよりずっと安いよ。同じお金でいっぱい買えるよ」

反応がない。一人のガキが、もう一人のガキのわき腹をつついて、何事かを耳打ちする。買うかどうかの相談だろうか。俺はうれしくなって、腰を浮かせてガキ共のほうに身を乗り出した。

「なあ、買ったらおまけ…」

「逃げろっ!」

ガキ共は唐突に走り出して通りの向こうに消えていった。

「………………クソが」

口の中でつぶやいて、俺は再び腰を下ろした。

まあいい。あいつらだけがこの町に住む子供というわけでもないだろう。あきらめずに声をかけていれば、買ってくれる子供もいるはずだ。

その後しばらくは、人通りが無かった。腰の曲がった老婆が一人、のそのそと通り過ぎて行っただけだった。

ただ待ち続ける俺に、真夏の太陽が容赦なく照りつける。滝のように顔を流れ落ちる汗。俺は鞄からタオルを引っぱり出して顔を拭った。

「うっ…」

饐えた雑巾のような匂いが鼻をついた。

そういえば、バスの運転手は、俺のことを「臭い」と言っていた。

宿はもちろんのこと、銭湯に行く金などないから、できるかぎり公衆便所の手洗い場や川で体を洗うようにはしているのだが、もしかして俺自身、このタオルのような臭いがしているのだろうか。体中にこの臭いが染み付いてとれなくなっているのではないか。

そんなはずはない、そんなはずは…



ふと気付くと、少し離れたところから、女の子がこちらを見ていた。少し赤みがかった長い髪を頭の左右で括った、先刻のガキ共と同じ位の歳頃の女の子だった。

もしかして何か買ってくれるつもりなのだろうか。

俺は慌てて笑顔を取り繕うと、女の子に向かって手招きをした。

「………」

動かない。だが逃げようともしていない。きっとおもちゃに興味があるが、引っ込み思案な性格なのだろう。

俺は女の子が喜びそうなおもちゃを二つ三つ手に取ると、立ち上がって女の子に近づいた。

「なあ、かわいいおもちゃ…」

話し掛けようとする俺をまっすぐ見上げて、女の子は、

「キモチワルイ」

「………」

どす黒い、ヘドロにも似た何かが急速に胸の中に広がっていく。視界が赤く染まって歪む。

キモチワルイ。俺が。

キモチワルイ。そう言われたのだ。十かそこらのガキに。糞ガキに。

ガキの癖に。運転手の癖に。俺が気持ち悪いか。臭いか。汚いか。馬鹿にしやがって。どいつもこいつも馬鹿にしやがって!

感情が昂ぶりすぎて言葉にならず、俺は手にしたおもちゃを地面に思い切り叩きつけた。

女の子が、わっと声を上げて逃げ出す。

俺はその後を追って走り出した。

馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!

俺は旅人だ!乞食じゃない!臭くなんかない!汚くなんかない!気持ち悪くなんかない!

それをこいつに教えてやらなければならない!絶対に!絶対に!

頭が割れそうに痛い。目の前がちかちかする。激しい動悸で胸が張り裂けてしまいそうだ。

そして

「―――?」

突然目の前が真っ暗になり、なにか硬いものが体にぶつかって俺は気を失った。



目を覚ますと、どこかの建物の軒下に寝かされていた。なんだかひどく生臭い臭いが辺りに立ち込めている。

体の前半分、特に額と鼻が痛い。

一体、何が起きたのだろうか。

しばらく考えてみて、俺は自分の馬鹿さ加減に虚ろな笑いを漏らした。

考えてみれば、この町に来る前の日の昼から、ほとんど何も口にしていなかった。その上、さんざん直射日光に当たって軽い熱射病も起こしていたのだろう。そんな状態で急に全力疾走したりすれば、貧血でぶっ倒れても当然だった。

それにしても、ここはどこなんだ?

俺は体を起こした。

「あ、起きよった」

振り向くと、作業服にゴム長を履き、ゴムの前垂れをかけた中年の女がいた。

女の声に、同じなりをした男たちがのそのそと集まってくる。生臭い臭いが、一層強くなる。

「あ、あの…」

「あんた、道端に倒れとったんやで」

「………」

「ほんで鼻から血ぃ出しとるし、ほんまびっくりしたわ」

どう言っていいかわからず、口ごもる俺を、男達は遠巻きに取り囲んでいる。なんとなく警戒されているようだ。

「まあ、ほっとくわけにもいかへんし、みんなでここに運んで来たんやけど、一晩経っても目ぇさまさへんし、往生したわほんま」

丸一日地面の上に寝かされていたのか!?それに医者を呼ぼうとも思わなかったのか。

「す、すいません…それで、ここはどこなんでしょうか?」

問う俺に、男の一人が建物の看板をあごでしゃくった。「○○漁業協同組合」。生臭い臭いはそのせいか。

「で、あんた大丈夫なんか?」

「あ、はい。迷惑かけました」

あまり大丈夫ではなかったが、とりあえず答えた。

「せやったら早よ出て行ってんか」

「え…」

「ここは休憩所やあれへんし、それに、一応食べもん扱うとこやろ。いつまでもあんたみたいなん置いとくわけにはいかへんのやわ。わかるやろ」

―――――――――――――っ!お前たちのほうが臭いくせに!生臭いくせに!

「それとも駐在さん呼ぼか?」

「く…」

「あ、それからこれ持っていき。どうせメシ食べる金もあらへんのやろ。この辺で餓死でもされたら迷惑どころやあらへんからな」

唇を噛んで耐えながら、おれは差し出された新聞紙の包みを受け取った。握り飯でも入っているのだろう。確かに、このままでは衰弱死してもおかしくない。

もごもごと礼の言葉を口にして、俺は彼らに背を向けた。

と…

「なあ、ちょっときいたんやけど…」

男の一人が、仲間に向かってなにやら声をひそめて話し始めた。

「女の子が…」「追いかけられ…」「変質者…」

漏れ聞こえてくる切れ切れの言葉に、俺の背中が冷たくなった。

足を止めずに、その場を歩み去っていく。急に早足になったりしないように、さりげなく、怪しさの欠片も見せないように。ただ普通の人間が普通に立ち去っていくように。

「おい待てやっ!」

怒声。俺ははじかれたように走り出した。



俺は荒い息をついて堤防にもたれかかった。

ここまでくれば安心だろう。

そう思ったら急に腰から下の力が抜けて、俺はコンクリートの地面に座り込んだ。

栄養失調と熱射病でぶっ倒れたあと、目を覚ましたかと思ったらまた全力疾走。

とっくに体力の限界を超えていた。

それでも何とか逃げおおせたのは、ひとえにあんな奴らに捕まってたまるかという執念のおかげだった。

大体、変質者とはなんという言い草だろうか。俺はただ、大人を馬鹿にした子供を叱ってやろうとしただけなのに。

子供ばかりか大人までとは、一体どういう町なんだ、ここは。

罵りの言葉を口にしてから、俺は自分がしっかりと新聞包みを抱えていることに気付いた。

あれだけ追い回されたのに、投げ捨てたりせずにちゃんと持ってきたのだ。食料。食い物。自分の生存本能を褒めてやりたい。

そうだ。生きるためには喰わなければならない。二日以上も水以外、ろくに何も口にしていないのだ。

俺はかすれた声で笑い始めた。

あいつらは馬鹿だ。魚臭い田舎者ども。あいつらの仲間のガキを追いまわした俺に、生存するための食料を与えやがったのだ。どこまで頭が悪いのだ。

俺は笑い続けながら、安全に食事ができる場所を求めて、堤防を越えて砂浜に下りた。

さあ、ありがたくいただかせて…

「うっ…」

新聞包みを解いて、俺は思わず息を詰まらせた。

なんだこれは!?

包みの中身は、握り飯などではなかった。黄色く変色しかかった残飯と、残り物と思われる何かの煮物がごた混ぜにビニール袋に詰め込まれていた。袋の角に、どぶ水のような色をした汁がたまっている。

人間の食事ではない。豚の餌。あるいは生ゴミと呼ぶのが相応しかった。

これを俺に喰えというのか!?人間様のこの俺に!これが俺に相応しい食事だというのか!?

しかも箸すらついていないではないか!手掴みで喰えというのか!この生ゴミを!

あまりのことに、俺はその場にへたり込んだ。

漁協の連中は今頃、俺が手掴みでこの豚の餌を食べているさまを想像して、げらげら笑っているに違いない。

あるいは、食べずに餓えて野垂れ死ぬかどうか賭けをしているのかもしれない。

………いいだろう。

俺の顔に奇妙な笑みが浮かんでいた。

食べてやろうじゃないか。笑いたければ笑え。俺は生きてやる。たとえ生ゴミを口にしてでも生き抜いて、旅を続けるのだ。俺は旅人なのだから。

俺はビニール袋の口をほどいて、汁がシャツやズボンに零れるのも構わず、手掴みで食べ始めた。

味覚も、嗅覚も全て感じることをやめさせて、こみ上げてくる吐き気ごと咀嚼して飲み込む。

飲み込んでも飲み込んでも、ビニール袋の中身は中々減らない。だが、残したら俺の負けだと思った。

そして、ようやく袋の中身が半分くらいに減ったかと思われる頃。

俺は人の気配を感じて振り返った。

堤防の上に、一羽の小鳥がとまっていた。



俺の中のイメージ。人の何倍も速く生きて、儚く死んでいく小鳥。

母を憎み、そして忘れてなお、俺の中で生き続けてきた美しい夢。



堤防に立ち、体中に風を受ける少女がいた。

真っ青な空を背に、細い両腕を翼のように広げ、頭の後ろで括った長い髪と紺色の制服をなびかせながら。

はためくスカートからのぞく白い脚は確かに堤防のコンクリートを踏んでいたが、俺には少女が空を飛んでいるかのように見えた。

そう、それはまるで俺がずっと夢想し続けてきた…

俺は呼吸をするのも忘れて、少女に見入り続けた。



俺の視線を感じたのか、少女がこちらを向いた。

深い、海を思わせる色をした瞳が俺を見る。

手と服を汚し、豚のように残飯を貪る俺を。

「………」

あどけなさを残す顔を、たちまちのうちに黒々とした嫌悪の表情が覆い…

違う!これは違うんだ!

そう言いたくて。

本当の、旅人の俺を見てほしくて。

俺は少女の方に一歩足を踏み出そうとする。

「―――っ!」

声にならない悲鳴。

少女は踵を返して堤防の向こう側へ駆け下りていった。



俺はしばらく立ち尽くしてから、ビニール袋を堤防に叩きつけた。



暗くなってから、俺は昨日おもちゃを売った場所に行った。そこに鞄を置きっぱなしにしていたからだ。

しかし、置いていたはずの場所に、鞄はなかった。新聞紙の上に並べた商品もない。

道を隅から隅まで探しても、見つからなかった。

誰かが持っていったのだろうか。

近所の人間に尋ねてみようか。

だがこの町では今、俺について好意的とは言い難い噂が流れているようだ。警官でも呼ばれたらどうする?

そう思うと、とても尋ねる勇気など無かった。

仕方がない。諦めよう。どうせ金目の物など何一つ入っていないのだ。

俺はうなだれて踵を返した。

「!?」

振り返ったすぐ目の前に、髪の短い少女が立っていた。

そういうのが流行りなのか、手首にバンダナを巻いている。どのみち、俺に若い女の流行など判るはずも無いが。

「………」

「………」

数瞬の間、どちらも何も言わなかった。ただ互いを見つめていた。

この少女に鞄のことを尋ねてみようか。俺がそう思った時。

少女の口が、悲鳴をあげる形に変わった。

やめろ、やめてくれ!

俺は慌てて少女の手を掴む。だがそれがいけなかった。

「きゃああああああああああああああああああああっ!」

凄まじい悲鳴が俺の鼓膜を貫いた。

少女を掴んだ手に、鋭い痛みが走る。

「お姉ちゃんお姉ちゃんたすけてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

辺り中の民家から、ばたばたと押し寄せる人の気配。

俺は少女の手を放して逃げ出した。



どこをどう走ったのかもわからない。

いつの間にか俺は、古びた駅舎の前に辿り着いていた。

植え込みに身を潜めて、注意深く辺りの様子を覗う。人の気配は無い。

というより、駅として使用されている形跡すらなかった。

錆び付いた鉄柵、取り外された看板、割れた時刻表。旅人の目でみれば一目瞭然、廃線になった駅舎だった。

身を隠す場所としては目をつけられやすく、少々危険だったが、これ以上眠る場所を探す気力など無かった。

俺は待合室に入ると、埃をかぶった長椅子に身を横たえた。

しばらくして少し気分が落ち着くと、右の手の甲がひりひりと痛むのを感じた。見ると、長いみみず腫れが三本走っていた。あの少女に引っ掻かれたのだ。

何をしようとしたわけでもない。ただ大声を出すのをやめてほしかっただけなのに、どうしてこんなことをされなければならないのか。

この町の人間全員が俺に悪意を抱いているとでもいうのか。

すぐにでもここを離れたほうがいいのかもしれない。

だが、離れようにも金が無い。鞄もなくしてしまった。今はどうしようもない。

それに――――――――

俺はこの町を離れられないのではない。離れたくないのだ。



堤防の上の小鳥。

俺の儚く美しい夢。

何故可憐な声を俺に聞かせてくれないのか。

俺はずっと長い間お前のことだけを考えて旅を続けてきたのに。

どうしてあの時俺から逃げたのか。

お前も俺を汚いと思うのか。

小鳥。俺の愛しい、ただひとつの夢。



小鳥を夢見、小鳥のことだけを想い、熱く想い、―――――――――――そして俺は絶頂を迎えた。



「昨晩、わが校の生徒が不審者に襲われるという事件がありました。幸い手を掴まれただけで大事には至りませんでしたが、その前日にも、小学生の女の子が不審者に追いかけられるという事件が起こっています。みなさんも夜の外出は控え、登下校は必ず二人以上のグループで行うなど、十分に注意してください」



翌日。

俺は一日中を、駅舎で息を潜めて過ごした。

人目につく昼日中、町を出歩くわけにはいかなかった。

じっとしていれば、物を食わなくてもそれほど腹は減らない。水は、幸運なことに駅舎の水道がまだ生きていた。

おまけに、俺は駅舎の事務室で、いいものを見つけていた。

半分ほど中身の残った砂糖の袋――おそらく、駅員がコーヒーを飲むときにでも使っていたものなのだろう。

口の開いた使いかけの砂糖の袋など、普通は誰も持って帰ろうとは思わない。だが、今の俺にとっては命を繋ぐ綱だった。

これでしばらくはもつ。食料を探す危険を冒すことなく、この町に留まることができる。小鳥のいる、この町に。



それからしばらくは、何事も無く過ぎた。

俺は日中をホームのベンチでぼんやりとレールを眺めて過ごし、夜には小鳥を熱く想って眠りについた。

最初は危険に思えた駅舎だったが、数日経っても人が訪れる気配は全く無かった。

ここにいれば安全だ。砂糖の袋が空にならないうちに、他の食料を調達する方法を探そう。

それに、小鳥に、俺が旅人なのだということをわかってもらわなければならない。俺が旅を続けている理由も。

だがどうすればいいのか。

まず彼女がどこに住んでいるかを見つけるのが先だろう。

見つけて、そして…

もっと身奇麗にしなければならないのかもしれない。

水しか出ないが、シャワーならある。石鹸も、便所の手洗いに小さくなったのがまだ残っている。

服をどうするか。今着ている服では駄目だろうか。一生懸命洗えばどうにかならないか。だが、洗濯するのに石鹸を使ってしまったら、体を洗う時はどうする。

それとも、いっそどこかの家の軒先から洗濯物を盗んでくるか。男ものなら、盗まれることを警戒していないだろう。

毎日駅舎にこもって、そんなことばかりを考えていた。

小鳥に会う、その日のことを思うだけで、俺は幸福な気分にひたることができた。

この駅舎は、俺がその準備をするために用意された場所なのだ。

そう俺はたかを括っていた。



俺が駅舎に潜むようになって一週間ばかりが過ぎたある日。

俺はあれこれ考えるのに疲れて、待合室のベンチでうたた寝をしていた。

「ごらぁっ!」

罵声とともに、いきなり床に蹴り落とされる。一瞬、何が起きたのかわからなかった。

「ほんとにこいつか?」

「間違いね―って。遠野ん家の妹がここにいる奴だっつってたし。それにマジ臭えし、他にありえねえだろ」

床に転がる俺を、高校生らしい数人が見下ろしていた。

「お前ら一体…」

「この変態がっ!」

鳩尾に重い蹴りが入る。二度、三度。

呼吸ができない程の苦痛。俺は吐瀉物を撒き散らしてぶざまに転げ回る。半分潰されてもがく芋虫のように。

「うへっ、マジきったねー!オラ、見てねぇでお前らもやれっての!」

「で、でもよ、ちょっとやばくね?」

「ビビッてんじゃねーよ、んのタコ!捕まえようとしたら暴れたっつっときゃいいだけのことだろが!」

「それもそーだな、こいつセー犯罪者だし。俺達少女を守るセーギの味方なわけだし」

「大体、んな奴にうろつかれたら町が汚なくなっちまうっての」

「みんなの町をキレーにしましょーってかぁ!?」

「そうそ。マジメなぼくらはおそーじ、おそーじ」

そこからは、もう滅茶苦茶だった。

顔面、腹部、頭部、背中。苦痛の塊となってのた打ち回る俺の体の、ありとあらゆる部分に、スニーカーの爪先が執拗に蹴り入れられ続けた。明確に俺を破壊する意図で、何度も、何度も。げらげら笑いながら。

やがて、連中が俺を痛めつけるのに疲れ、俺が半ば意識を失い、自分の意思では指一本動かせない状態になった頃。

「んなもんでいーんでないの」

「まっ、死なれてもめんどくせーしな。今日はこれくらいで勘弁してやっか」

「んじゃな…よく聞いとけよ、この変態野郎。今度この辺うろついてんの見かけたら、んなもんじゃすまねーからな。半端はねえからな。マジぶっ殺すからな!」

「うっひょ〜、かーっくいー!」

「わーったか…よっ!」

最後の「よ」が発音されるのと同時に、俺の顔面に体重をかけたスニーカーの踵が打ち下ろされた。

俺は完全に意識を失った。



それからどれくらいが経ったのだろうか。

昼なのか夜なのかも判らない。ただ、全身に溶けた鉄を流し込まれたような、灼熱感にも似た苦痛に俺は苛まれ続けていた。

起きては耐え切れない苦痛に気を失い、気を失ってはまた苦痛に目覚める。その繰り返し。

満足に体を動かすことすらできず、ただ苦痛を感じ続けるだけの存在。それが今の俺だった。

俺はこのまま死んでしまうのか。こんなものが俺の旅の終わりなのか。

苦痛に支配された意識の片隅で、俺は哀しくそう思った。



雨音に俺は目を覚ました。

汚れた窓ガラスの向こう側は、ただ一面の鉛色の空。

ああ、雨なのか。そう、雨だ。

あんなにいい天気が続いていたのに、今日は雨なのだ。

灼けるような苦痛は去っていた。

ただ、体中が熱っぽく疼いていた。動かそうとすると、激痛が走った。

俺はまだ死んでいないのか。

ぼんやりとそう思う。何の感慨も湧いてこなかった。



雨音に混じって、何処からか微かに少女の声が聞こえてきた。

俺の耳に、それはひどく優しく響いた。

俺は目を閉じて、その声に聞き入った。



「ねえ、やめときなさいよ。せっかく昨日○○君達がやっつけてくれたのに」

「う〜ん、でも…」

「いいじゃない、変質者なんかどうなったって。それに何かされたらどうするの」

「でも、ちょっと見てみるだけだから」

「あんたねぇ…知らないからね、どうなったって」

「うん、大丈夫だいじょぶ、にはは…」

「もう…それじゃあたし帰るから」

「うん、また明日。バイバイ」



声が途切れた。

もう終わりなのか。もう少し聞いていたかったのだが。

だが、かわりに、水溜りを踏む足音が聞こえてくる。少しずつ、大きく、近くへ。

やがて、足音は乾いた地面を踏むものになり…

そして俺のすぐそばで止まった。

俺は目を開いた。

「あ、あの…大丈夫ですか?」

俺は自分の見ているものが現実だと信じられなかった。

小鳥の、幼さを残す白い顔が、俺をのぞきこんでいた。

「あ゛…う゛…」

まともな言葉にならない。自分でも何を言おうとしたのかわからなかった。

やっと、やっと小鳥が俺のそばに来てくれたのだ。

「いくらなんでもひどすぎるよね。こんなにしたら死んじゃうかもしれないのに……おまわりさん、呼んだらいいのかな。それとも、お医者さんかな。怪我してるし」

「あ゛う゛あ゛…」

誰もいらなかった。ただ、小鳥だけにそばにいてほしかった。

それを伝えたくて伝えることができず、俺の目から涙が溢れ出す。

俺は嗚咽しながら、動かない手をなんとか小鳥の方に差し伸べた。

「え、えっと…」

小鳥が僅かに身を引く。俺の手の届かないところへ。目に、戸惑いと、微かな恐怖の色。

またか。

またそんな目で俺を見るのか。俺から逃げるのか。

俺はずっと、お前だけのために旅を続けてきたのに。

お前だけを想い、熱く熱く想い、夜毎に×××てきたのに。

「どうしたらいいかよくわからないから、おかあさんに訊いてくるね」

待ってくれ!

「ひっ!」

俺は懸命に手を伸ばして、立ち去ろうとする小鳥の足首を掴んだ。細く、折れてしまいそうなほどに華奢な脚。

「い、いや!放して!」

小鳥は、俺の手から逃れようと必死にもがく。だが放さない。絶対に。

苦痛にあえぐ体を起こしながら、力任せに引き寄せる。

「きゃっ!」

小鳥の小さな体が床に倒れる。

俺は言うことを聞かない体を無理に動かして、ずるずると小鳥に這い寄り、のしかかっていく。決して、もう二度と俺のそばから離れえないように。

「誰か助け…」

俺の腫れ上がって割れた唇が、小鳥の唇を塞ぐ。

どうか、どうかこのまま…

俺だけの…ただ俺だけのために…



小鳥。

俺のただひとつの、儚く美しい夢。

俺が旅を続けてきた理由。

どうして俺から逃げようとするのか。

どうして俺に美しい声を聞かせてくれようとしないのか。

小鳥。

俺の小鳥。



<了>