「あなた、先程の態度はいただけません」と、彼女は言った。
あたしがA棟の食堂で、誰かいないかとテーブルを叩いて大声をはりあげていた時のことだった。
ウゼーんだよボケ――あたしは思った。なに初対面の相手に説教かましてやがる、のぼせてんじゃねーぞ、このキ××イカルト宗教女――ただでさえお腹がすいていらいらしていたあたしは、思い切り口汚く罵倒してやるつもりで彼女の方を向いた。
そしてそのまま、あたしは目を離すことができなくなった。
彼女が着ているのは、肩にケープのついた、聖歌隊か尼僧が着ているような白くて丈の長い服だった。下手な人間が着ると、きっと滑稽なだけだろう。でも、彼女にはすごくよく似合っていた。彼女は口紅さえつけていないまるっきりのすっぴんだった。だけど、お化粧なんて必要なかった。肌の色は雪みたいに白くて、唇は桜の花びらみたいなほんのりとしたピンク色だった。そして、濃いまつ毛にふちどられたぱっちりと大きな目が、黒水晶のような深く澄んだ色を湛えてじっとあたしを見つめていた。
あたしがこれまで見たこともないような、すごくきれいな女の人だった。
あたしが口もきけないまま、ばかみたいに彼女にみとれていると、彼女はあたしに向かって、「もう少しClass‐Aの信者としての自覚を持つべきです」と言った。それであたしはやっと、あなたもClass‐Aの信者なんですか、と訊いた。彼女は少し呆れたように、それがあなたに何の関係があるというのですか、と言った。木で鼻を括ったような返答にあたしは少しひるみながら、Class‐Aの信者はあなたとあたしの二人だけなのかと思って、と弁解にもなっていない言葉をもごもごと返した。彼女はまた、それがあなたに何の関係があるのですか、と言って、それきり黙ってしまった。
あたしはどうしようかと思った。このまま会話が打ち切られてしまっては、この先彼女と気まずくなってしまう。彼女は私と仲良くするつもりなんてまるでなさそうだったが、あたしはこのきれいなおねえさんともっと親しく言葉を交わせる仲になりたかった。
黙ったまま食事をとる彼女に向かって、あたしは名前を尋ねてみた。彼女は、俗世間の名前などここでは意味がない、と言って、A‐9という認識番号しか答えようとしなかった。だが、あたしはあきらめずさらに食い下がった。こちらから「私、天沢郁未」と、撃墜率100%を誇る(ただし対象は男子限定だが)少し恥じらいを含んだうわ目遣いで自分の名を名乗ると、彼女はため息をついて、ようやく名前を教えてくれた。
鹿沼葉子―――それが彼女の名前だった。
あたしは母の敵を討つために、宗教法人FARGO宗団の教団施設に、信者を装ってもぐりこんでいた。
父が事故で死んだあと、残された母は、何をとち狂ったのか、よりにもよって悪質極まりないカルト宗教団体の最右翼であるFARGOに入信してしまったのだ。まだ小学生だったあたしをほたらかしにして、母は六年もの間行方をくらまし、やっと帰ってきたかと思ったら、来る日も来る日も何かにとり憑かれたように「特製クリームシチュー」を作りつづけたあげく、きっかり十日後に体中の穴という穴から血を噴き出して死んだ。
役所の福祉課の斡旋で、ほとんど費用のかからない方法で葬式を上げたあと、とりあえずあたしは復讐を誓った。人の母親を死なせておいて、慰謝料どころか香典袋のひとつさえよこさないとはどういう了見なのか。こうなったら直接FARGOに乗り込んで教祖をぶちのめしでもしなければ腹の虫が収まらない。その上で、それなりの慰謝料をふんだくることができればさらにいいのは言うまでもなかった。
FARGOはセミナーを中心とした勧誘活動こそ積極的に行っていたが、その他の面では徹底した秘密主義を貫いていた。どのような教義を信奉し、教祖が誰なのかということさえ謎だった。そんなあやしげな宗教団体になぜ入信者が絶えないのか――その理由は『不可視の力』にあった。
『不可視の力』は言ってみればまあ、一種の超能力のようなものだった。勧誘のためのテレビの特番では、検証と称して信者の女性が手を触れずにコンクリートブロックを破壊してみせるVTRがしつこく何回も流されていた。…まあ、どこからどう見ても火薬か何かを使ったトリックにしか見えなかったわけで、大方の人間からは失笑を買っただけだったが。
だが、ごく一部にはそうは思わない連中もいた。どういう連中かといえば、それはつまり『信じたがっている』連中だった。
そういう連中は、大抵がひどいコンプレックスの裏返しで、自分が他人よりも優れた存在だと無条件に思い込みたがっている。そのためには『不可視の力』のような超常能力を身に付けるのが一番手っ取り早い。だから、連中にとって『不可視の力』は『存在するか否か』ではなく、『存在してもらわなければ困る』のだ。
そんなわけで、「私は周りの下らない奴らとは違うのよ」などと何の根拠も無く思い込んでいる痛さ炸裂な入信希望者が大挙して集ったために、どのセミナー会場も、ワルプルギスの夜宴もかくやという惨状が繰り広げられることになった。あたしがFARGOにもぐりこんだのも、そんな痛いオーラが瘴気のようにたちこめるセミナー会場の一つだった。
もちろん、あたしは『不可視の力』なんかに興味はなかったが、さりとてまったくのインチキだとも思っていなかった。なにしろ『不可視の力』あってこそのFARGOなのだ。それがすぐばれるようなちゃちな手品ではそれこそお話にならない。FARGOを運営する連中も、まさかそこまでのハッタリをかます糞度胸はないだろう。何であるにせよ、いち宗教法人の屋台骨を支えるに足るだけの何かが存在すると考えておくのが妥当だった。
ちなみに、FARGOに入信が許されるのは、理由はよく分からないが基本的に女性だけだった。あたしが入信した時も、まわりにいたのはあたしと同じかそれよりも少し上くらいの、所謂「傷つきやすくて夢見がち」な年頃の女の子ばかりだった。確か母が入信した時にはとっくに三十路を越えていたはずだから、若い女の子ばかりの集団の中でさぞや気まずい思いをしたことだろう。あたしは周囲から一人浮きまくる母の姿を想像し、そのあまりの不憫さに思わず涙した。
謎に満ちたFARGOと『不可視の力』の秘密を探り、母の敵を討つ―――それがあたしがFARGOにもぐりこんだ理由の全てだった。あの日、A棟の食堂で彼女に出会うまでは。
葉子さんと出会った次の日、昼食の時間がきてあたしはまた食堂に行った。食事をとるためなのは当然だが、それよりもあたしには、また彼女に会えるのだということの方が重要だった。食堂のドアを開けると、昨日と同じく、やはり彼女は広い食堂で一人ぽつんと食事をとっていた。
あたしはまた葉子さんと会えたことが嬉しかったが、同時に少し腹が立った。どうせA棟には葉子さんとあたしの二人きりなのだから、少しくらいあたしが来るのを待っていてくれてもかまわないではないか。食事が終われば彼女はさっさと出て行ってしまうから、先に食べ始められると、それだけ一緒にいられる時間が短くなってしまう。見ればもう半分近く食べ終えてしまっているではないか。そんなにあたしと食事をするのが嫌なのか。あたしは唇を噛みしめて彼女の冷たい美貌を見つめた。目でものがつかめるなら、わしづかみにしてやりたいくらいだった。
――まあいい。時間はたっぷりある。これから徐々に距離を縮めていけばいいのだ。
あたしは気を取り直すと、配膳口から食事の載ったトレーを取って、葉子さんの向かい側の席についた。本当は隣りにぴったりと寄り添って食事をとりたかったが、まだ会って間もない内にあまり馴れ馴れしくして彼女に警戒心を起こさせたくなかった。それに、彼女のきれいな顔を真正面からじっくりと見つめながら食事をとるのもこれはこれで悪くなかった。
その日は、とりあえず葉子さんと打ち解けるために、あたしはあれこれと取りとめもなく話し掛けてみた。だが、それはかえって逆効果だった。まだ出会ったばかりで共通する話題も無いので、FARGOのことについて色々と尋ねてみたのだが、敬虔な信者である彼女にとって、同じClass‐A信者であるあたしがFARGOの教えについてまったく無知であるということは、許せないことのようだった。
「あなたという人間の存在が信じられません」
気まずい思いで俯くあたしの前で、葉子さんはさっさと食事を終えると、空になったトレーを持って席を立った。
葉子さんの拒絶的な態度にあたしは意気消沈したが、それでも、とりあえず一歩前進だと思うことにした。完全に無視されるよりは、反感を買ったほうがまだましだった。それに、嫌よ嫌よも好きのうちと言うではないか。だから明日こそはきっと――あたしはベッドの中でぎゅっとこぶしを握り締めた。
次の日もあたしは食堂に行った。今度は食事の時間になると同時に急いで行ったので、葉子さんよりも先に着くことができた。あたしは配膳口からトレーを取って、彼女が来るのを待った。
しばらくして食堂のドアが開き、葉子さんが入ってきた。彼女はあたしを見て少し表情を固くしたが、そのまま何事もなかったように配膳口からトレーを取って席についた。あたしも昨日と同じように、葉子さんの前の席にトレーを置いて座った。
今日の食事はスパゲティーミートソースだった。どういうわけか、葉子さんはフォークを使わずに割り箸を使ってスパゲティーを食べていた。どうして箸なのか、あたしは思い切り突っ込みを入れたかったが、これ以上彼女の機嫌を損ねたくなかったので黙っておくことにした。
あたしは食事をしながら、葉子さんの唇にスパゲティーがすすりこまれていくのを、そして時おりピンク色の舌が唇についたミートソースをちろりと舐めるのを、ちらちらと盗み見た。今あの唇を舐めたら、ミートソースの味がするのだろうか。口の中まで舌をさし入れてじっくりと味わってみたかった。いや、それより、あたしの唇や、それに大事なところも、あんなふうにちろちろ舐めてくれないだろうか。あのピンク色の舌で、あたしの体のそれこそすみずみまで、くまなく舐めまわしてほしかった。想像しただけで、スカートの中であたしのいけない部分が、ずくんっ、と甘く疼き、あやうくあたしは「あふん」と声を漏らしそうになった。
スパゲティーを食べ終えると、葉子さんは何も言わず席を立ち、トレーを配膳口に返して食堂を出て行った。あたしも一緒に食堂を出て、部屋に戻るまでの短い間だけでも彼女と一緒にいたかったが、ずっと妄想に耽っていたせいで全然食事が進んでいなかった。どうせ明日もここに来れば会えるのだ、と自分を慰めて、あたしはすっかり冷たくなったスパゲティーをかっこんだ。
部屋に戻ってからがまんしきれず、あたしはベッドで横になってオナニーをした。同居人である「少年」が側にいたような気もしたが、あたしはぜんぜん気にしなかった。
それからあたしは食事の時間のたびに葉子さんの向かい側の席に座って彼女の顔を見ながらあらぬ妄想に耽るのが日課になった。時には妄想に耽るあまり挙動不審になって葉子さんから怪訝そうな顔で見られたり、午後の修行に遅刻することもたびたびになったが、あたしはちっとも気にしなかった。食事を終えて部屋に戻ると、あたしはベッドに寝転がってオナニーに耽った。時には一回で満足できなくて、二回してしまうこともあった。絶頂に達した後の心地いいけだるさの中で、あたしは明日も彼女に会えるのだと思い、しあわせを感じた。同居人である「少年」がものすごく何か言いたそうな表情であたしを見ることがあったが、あたしはこれっぽっちも気にしなかった。
あたしが学校を休学してFARGOへの潜入を決行した当時、あたしは誰とも付き合っていなかった。それまで何人もの男の子と付き合い、とりあえずセックスをするまでの仲にはなるものの、結局誰とも長続きしなかった。半年や一年以上もの長い間、決まった相手と仲良く付き合い続ける女の子達のしあわせそうな様子を、あたしはうらやましい思いでながめた。
ああいう人種をなんと呼ぶのだろうか、野郎同士がくんずほぐれつ絡み合っている、やたら薄っぺらいマンガを教室で堂々と読みふけっている上に、自分のことをボクと呼び、あまつさえ語尾に「はにゃ」とか「ふみゅ」とか奇怪な接尾語をつける、とりあえず胡散臭いとしか言いようのない子でさえ、一定の層からの需要はあるようだった。「ボク告られちゃったよ〜はみゅぅ〜」などとたわけたことを、虫唾が走るようなアニメ声で、訊いてもいないのにあたしに言った。言いやがった。ほざきくさりやがった。
こいつ思い切りグーで殴りてぇ、と思った。つか死ね、真剣に。あんたのいかれた趣味に理解を示すような大バカ野郎からしか相手にされないくせに。特殊な層にしかアピールしないルックスというか、それ以前に人として色々と間違っているくせに。あたしを見ろ。成績は優秀でスポーツ万能、顔ははっきり言って学校…もとい学園(って言わなくちゃいけないんだよなぁ。メンドクセェ)一の美人だし、スタイルだって抜群だ。あんたなんかとはしょせん、人としても女の子としてもスペックというものが違う。…まあ、品行方正だとは言わないが。
でも、やはりあたしはくやしかった。あたしが一人身の寂しさを自分の指で慰めている間に、あのマニア限定バカ女は、それなりの相手とそれなりによろしくやって楽しんでいるのだ。きっとセックスもしているだろう。いや、しまくっているにちがいない。こっちはオナニーであっちはセックス。いつでもどこでもやりたい時に、屋内で野外でセックスセックスセックス、しゃぶり合っていじくり合ってセックスセックスセックス、あんな体位やこんな体位で、二人で仲良くセックスセックスセックスセックス、猛り狂う本能に身を任せて神をもおそれぬ痴態を日夜繰り広げているに違いないというのに、あたしは一人さびしくみじめにぶざまに、妄想を相手にせんずりを――もといまんずりをかいているのだ。こんな理不尽な、不公平な、不条理なことが許されていいのか。
いやちがう、とあたしは思い直した。
あたしだって毎日、葉子さんといっしょに食事をして、テーブルをはさんで話をすることだってある。あんな美人のおねえさんに仲良くしてもらっているのだ。あんたなんかマニア御用達アダルトコスプレ専門店の特注悩殺ぎりぎりミニスカセーラー服(夏服・衿色紺・白ライン・スカート丈二十五センチ)を着たって、マニア落涙・某名門女子高チアガール部ユニフォーム完全コピー品(ポンポン付属)を着たって、彼女の足元にも及ばないじゃないか。ざまあみろ。それなりに喜ぶ奴はいるかもしれないが。
しかしあたしは、まだ葉子さんに指一本ふれさせてもらっていないことを思い出して、暗澹たる思いに陥った。あたしが満足を得られるのは、彼女と会ったあとに、彼女の人形めいた美貌や、桜色の唇や、まだ見たことはないがきっと雪のように白い裸身を思ってオナニーする時だけだった。学園一の美人と言われたあたしが、性欲をもてあました男子中学生みたいにオナニーに耽っているのだ。これでいいわけがなかった。
まずキスからだろうか。唇を何度もついばみ合ってから、ちろちろと舌を絡ませて、お互いの唾液をたっぷりと啜り合いたい。というか、乳首も、わき腹も、そして大事なところも、こころゆくまでじっくりと舐めまわして味わいたかった。だがいきなりそんなことをしようとすれば拒否されるのは間違いない。あたりまえだが。変態と罵られて、二度とあたしと一緒に食事をしてくれなくなるだろう。
まず彼女の信頼を得るのが先だ。最初の頃に比べればもう随分親しくなっている。携帯ゲームを貸してあげたし、あたしの顔色が悪いと薬をわけてくれるようにさえなった。でもあとどれくらい信用させればHさせてもらえるんだろう? いっそ体の自由を奪って無理やりしてしまおうか。しかしそれだと潔癖な上に殺人的に思い込みが激しい彼女のことだから、下手をすれば舌を噛み切って自殺してしまうかもしれない。
では金か? 金で片がつくなら…って、この教団施設の中でお金なんて意味があるか? そもそも大して持ってきてないし。
あたしは困った。どう考えても葉子さんにHさせてもらう方法を思いつかない。結局、今は一緒に食事をするのとオナニーに耽るのを続けるしかなかった。
一方、FARGOの秘密を探るのと母の敵を討つ方はといえば、こちらも全然進展がなかった。葉子さんのことで頭がいっぱいで何もしていないのだからあたりまえだった。まあ、あたしはClass‐Aだし、このまま修行を続けていれば『不可視の力』の正体にたどりつく日も遠くないだろう。それにどうせ焦ったところで母が生き返るわけでもないのだ。とりあえずそちらについてはあたしはなりゆきにまかせることにした。
まあそんなことはさておき。
葉子さんと一緒に暮らす―――その考えはあたしを魅了した。どこかにアパートを借りて、二人で暮らすのだ。朝は彼女のおはようのキスで目を覚ます。仕事が終われば早いうちに戻って、彼女と夕食を食べる。当然、ア〜ンってしてもらいながら。寝るまでの長い時間を、彼女と思いっきりいちゃいちゃして過ごす。そして、二人とも生まれたままの姿になって痴態の限りを尽くしたあと、お互いの肌の匂いと体温をじかに感じながら眠りにつく。仕事は以前やってたファミレスのバイトでも再開すればいいだろう。葉子さんにも同じ所で働いてもらってもいいかもしれない。彼女はスタイルがよさそうだから、きっとあのエロかわいいミニスカの制服がすごく似合うだろう。うん、いい…。実に…いい…! そしてできればあの制服を着たままの彼女と……ぬへ。ぬへへへへ。ぬえへへへへへへへへへへへへへ…
そんな極彩色の妄想の雲の中に飛び立とうとするあたしの足を引っ張るのは、現実という名の重りだった。葉子さんは狂信的なFARGOの信者であり、一方あたしはというと、まあ一応、とりあえずFARGOに敵対する側の人間だった。最初、母の敵を討つためにあたしはFARGOに潜入したわけだが、万が一それがばれた時、果たして彼女はあたしのことをどう思うだろうか。彼女はきっとあたしを平気で嘘をつく女の子だと思うだろう。そしてあたしを軽蔑し、その上、敵だとみなすだろう。とてもそんなことには耐えられない。彼女に嫌われることが、あたしは何よりもこわかった。
とにかく今はとりあえず、葉子さんにA棟にいつづけてほしい。ずっと毎日、テーブルをはさんだ向かい側で、あたしと一緒に食事をしてほしい。それはあたしの切実な願いだった。
ある日の夜、あたしが通路をぶらついていると、巡回員の男がなにやら前屈みの姿勢で壁にへばりついているのに出くわした。どうやら、壁の穴から部屋の中をのぞきこんでいるようだった。そいつは以前あたしに「どうした、しゃんと背を伸ばせ。美人が台無しだぞ」などと思い切り勘違いしたキモいせりふを吐いた奴だった。あたしが冷たい目で睨みつけると、男は前屈みのまま、こそこそとゴキブリみたいにその場から立ち去っていった。
男が去っていった後、あたしは壁に開いた穴から中をのぞいてみた。そして、心臓が止まりそうになった。壁の向こう側では、葉子さんが服を脱いでパジャマに着替えている最中だった。
葉子さんの体はあたしが想像したとおり、いや、想像した以上に白く華奢で、そのくせ胸は形よく豊満だった。彼女が着けている下着は飾り気のないシンプルなものだったが、それはかえって彼女の可憐さを、より以上に引き立てていた。彼女が可愛らしいコアラの柄のパジャマを身に着けていく姿を、あたしは鼻息を荒くしながら、壁の穴越しに思うさまじっくりと楽しんだ。相手が見られていることに気づいていないというシチュエーションが、これほどまでに凄まじい破壊力を持っているとは想像もしていなかった。
やがて部屋の灯りが消え、葉子さんがベッドに入ったので、あたしは、また明日もここに来ようと固く心に誓いながらその場を後にした。
しかしその翌日、あたしはいつものように食堂で葉子さんを待ったが、いつまでたっても彼女は姿を現さなかった。すっかり冷めてしまった食事を平らげると、あたしは彼女の部屋に向かった。声をかけてから二、三度ノックして、あたしはドアを開いた。だけどそこに葉子さんの姿はなかった。あたしの目の前にあったのは、チェックインしたてのホテルのような、人が暮らす気配のない無愛想な部屋だけだった。
葉子さんがA棟から消えたあと、特に他にやることもなかったので、仕方なくあたしはFARGOの謎を探るのと母の敵を討つことに専念した。その間、さまざまな過酷な試練があたしを襲った。
あたしの同居人である「少年」が実は人間じゃない『悪魔』と呼ばれる生物で、『不可視の力』は『悪魔』とのセックスで人間に植え付けられるものだったり――
そしてそのことを知らないまま、ひまつぶしと言うかストレス解消というか、つまりは単なる勢いで「少年」とセックスをして、結果オーライで『不可視の力』を得たものの、力の制御に失敗して、ロスト体として処分されそうになったり――
「少年」がそれを助けてくれた(まあ、こいつのせいなんだから当然だが)が、そのためにFARGOの手で裏切り者として処刑されたり――
あと、なんでだか地下のお花畑で草むしりをするはめになったり――
そんな数々の苦難の末に、あたしは自分に植え付けられたもう一人の存在――「少年」の分身を受け容れるという、分かるような分からないような方法でうやむやのうちに『不可視の力』を制御することに成功し、FARGOの教祖である『声の主』をどうにか倒すことができた。教祖を失い、宗教法人FARGO宗団は完全に崩壊した。
戦いの余波で半壊した施設の中で、黒い服を着たFARGOの男達が無秩序に逃げ惑うさまを、あたしは何の感慨も無く見つめた。あたしがほんの少し視線を廻らせるだけで、蟻んこを潰すよりもたやすくこいつらをまとめて葬り去ることができるのだ。こういうのを神様にでもなったみたいな気分というのだろうか。だとしたら神様というのはずいぶんと退屈なものなのだなとあたしは思った。勝利をおさめた満足感など無く、ただ虚しさだけが残った。なぜならあたしは結局、自分が一番欲していたものを喪ったままだったのだから。
その時―――
「郁未さん」
喧騒の中から、涼やかな声があたしの名を呼んだ。確かめるまでもない、あたしが一日たりとも忘れたことのない人の声。
だけどあたしは声の方に顔を向けた。それが、狂おしいまでのあたしの想いが生み出した幻なんかじゃないことを、確かめずにはいられなかったから。
鹿沼葉子――人形めいた美貌の持主が、人ごみを隔てた向こうからあたしのことを見つめていた。
「食堂でお待ちしています」
それだけ言うと、返事を待たず、彼女は去って行った。
あたしは急いで自分の個室に戻ると、幸いまだ無事だった自分のバッグからショッキングピンクに黒のリボンをあしらった透け透けの勝負下着を取り出して身に着けた。そして胸をわくわくさせながら食堂に向かった。
食堂に入ると、葉子さんはいつものテーブルの席についていた。あたしは座っている彼女に歩み寄ると、細い肩をそっと後ろから抱きしめた。そのまま柔らかく甘い香りのする髪の中に頬を埋める。
「……………………………………………何のつもりですか?」
「やっと、二人きりになれたね」
何故か不審そうな表情で尋ねる葉子さんの耳元に、あたしは甘く囁いた。
「いや、ですから一体何のつもりなんです!?」
「あたしの気持ち、ちゃんと葉子さんに届いてたんだね」
「気持ちって… あの、私があなたをここに呼び出した意味を、ちゃんと理解していますか?」
「うん、だから、やっと二人きりだね」
「いや、だから人の話を…ん゛ぬ゛っ!?」
恥ずかしがってとぼけてみせる彼女に構わず、あたしは強引に唇を重ねた。情熱的に唇を貪りながら、唇の間に舌を割り込ませていく。
くちゅくちゅ…
仔猫がミルクを飲む時のような水音が静かな食堂に響く。
「んっ…んっんっんっ」
ちゅばちゅばくちゅくちゅ…
「ん゛ーっ! んっんっ…」
れろれろちゅぱちゅぱ…
「んんんんん…」
ぴちゃぴちゃちゅぶちゅぶ…
「――――っ! ぶはぁっ! な、何をするんですかっ!?」
「もう、わかってるくせに♪」
唇を手のひらでごしごしぬぐう葉子さんに向かって、あたしは妖しく微笑んだ。
「いや、わからないから…って、何ですかその痴女みたいな下着はっ!? っていうかいつ脱いだんですか!?」
「えへへ、葉子さんのために用意したんだよ。可愛い?」
「いや、訊かれても…」
「ねねねねねちょっとだけ、ほんのちょっと、先っぽだけだから」
「だから何の先っぽなんですかっ!?」
「ねえ葉子さんいいでしょう? ちょっとだけ、いいでしょう? ねえ、いいでしょう? 葉子さぁん…」
あたしはうわごとのようにいいでしょういいでしょうと繰り返しながら彼女をテーブルの上に無理やり押し倒すと、また唇を重ねた。両足の間に膝を割り込ませて、太腿の内側に指先を這わせていく。
「ん゛…っ!」
あたしの指先が、葉子さんの一番敏感な部分を捉える。あてがった指先を細かく動かしていくうちに、だんだんと彼女の体から抗う力が抜けていく。
どうか…どうかこのまま…
あたしの…ただあたしだけのために…
六月某日、破壊活動防止法に基づく規制の適用対象団体としてFARGOの内偵を進めてきた公安の指揮の下、機動隊がFARGO教団施設に突入した。その際、信者である鹿沼葉子(23)と共にA棟食堂に潜んでいた少女A(17)は当局に身柄を拘束された。公安による事情聴取の後、彼女は身柄を家庭裁判所に送致され、審理の結果、有罪と判断された。罪状は強制わいせつ罪だった。
<了>