高槻と暮らす〜冬の童話〜

Text by ヒンクレヰ

ぺろっ。

「さっさと起きろぉぉぉぉぉっ!! まだ寝ているのかぁぁぁぁぁっ!! どこまで寝ぎたない奴なんだぁぁぁぁぁっ!!」

冗談のように唇を舐められる感触があった後、唐突に耳元で金切り声を張り上げられて、俺はびくん、とはね起きた。ついでに心臓も止まりそうになった。目を開いて見ると、ゆるくパーマをかけた髪を長く伸ばした痩せぎすの男が、ぎらぎらした目を見開いてにやにや笑いながら俺の顔を覗き込んでいた。少し前から俺の部屋で暮らしている、高槻だった。ちなみに高槻の頭にはどういうわけだか灰色の虎縞の猫耳が生えていた。全裸にエプロンをつけただけの尻からは、同じく灰色虎縞の尻尾が嬉しそうにぴょこぴょこと揺れていた。

俺は高槻に、もう少しましな起こし方ができないのか、と抗議した。毎朝これではいつか本当に心臓麻痺を起こしてしまう。すると高槻は「お前がちゃんと起きないからだろうがぁぁぁぁぁっ!!」と、また金切り声を上げた。俺は、とにかく近所迷惑だからもう少し静かにしろ、と言った。高槻と暮らすようになってから、ほとんど毎朝のやり取りだった。

洗面所に向かう俺の後ろを、高槻は尻尾を揺らしながらとてとてついてきた。そして俺の側にしゃがみこんで、俺が歯を磨いたりひげを剃ったりするのを時どき鼻をひくひくさせながら興味深そうにじっと見上げていた。

「ちょっと待てえっ! シャワーは浴びないのかお前はぁぁぁぁぁっ!」

洗顔が終わった後、そのままキッチンに向かおうとする俺を高槻が引き止めた。言われてみればほのかに汗臭いような気もしたが、素直にこいつの言うとおりにするのは何となく癪(しゃく)だった。だから俺は、シャワーなら昨夜夕食の後に浴びたが、その後汗をかくようなことがあっただろうか、ととぼけてみせた。

「はっ、恥ずかしいことを言わせるなぁぁぁぁぁっ!」

高槻は猫耳まで真っ赤になった。放っておいて、俺はキッチンに向かった。

キッチンのテーブルには、既に朝食の皿が並んでいた。黄身までしっかり火が通って少しふちの焦げた目玉焼きと、市販のカット野菜を器に盛っただけのサラダ、それにトースト。高槻がつくる、いつも通りの毎朝同じメニュー。喫茶店のモーニングだと思えば別に何の文句もない。というか、高槻と暮らすようになる前は、まともに朝食なんかとったことがなかった。俺はテーブルについて食べ始めた。高槻も、俺の向かい側に座って朝食をとった。

朝食が終わると俺はスーツに着替えて玄関に向かった。靴を履いていると、朝食の後片付けをしていた高槻がとてとてと小走りにやってきた。

「ちょっと待て、行ってきますのキスはどうしたぁぁぁぁぁっ!」

それを言うなら、行ってらっしゃいのキスだろうと思いながら、俺は軽くついばむように高槻に唇を重ねた。高槻は不服そうに眉をひそめた。

「ふざけるなあっ! そんな小娘のようなキスで許されると思っているのかぁぁぁぁぁっ!」

言われたとおり、俺は高槻を抱きすくめると、もう一度唇を重ねて、今度は唇の間から舌を差し入れた。たっぷりと唾液を纏(まと)った舌を絡め合わせる。三十秒ばかりお互いの唇を貪りあった後、俺が抱きすくめていた手を離すと、高槻は焦点の合わないぼーっとした目つきのまま玄関先にぺたんと座りこんだ。俺は行ってきますと言って、ドアを開け外に出た。高槻の唇の残り香には、かすかにフローラルミントの香りが混じっていた。俺が好きな匂いなので、つけるようにと渡したリップクリームの香りだった。



俺が高槻を拾ったのは、雪のちらつくある寒い日の夜のことだった。残業を終え、今日はもう遅いからどこにも寄らずにまっすぐ帰ろうと思いながら、俺はシャッターが閉まり店の灯りも消えた商店街のアーケード通りを背中を丸めて歩いていた。

俺が通りのはずれの果物屋の前を通り過ぎようとした時だった。ふと見ると、シャッターの前に大きな段ボール箱が置かれていた。あんなところに置いて、明日の朝店を開ける時に邪魔にならないのだろうか、それとも誰かが勝手に捨てていったのだろうか。そう思いながら、俺は何の気なしに段ボール箱の中を覗き込んでみた。

驚いたことに、段ボール箱の中では、白衣姿の男が丸くなって震えながら眠っていた。どういうわけだかそいつの頭には猫耳が生えていて、白衣の尻から生えた尻尾が体に沿ってぐるっと丸まっていた。段ボール箱に何か書いた紙が貼ってあったので見ると、マジックの乱暴な殴り書きで「誰か拾ってください」と書かれていた。どうやら面倒を見切れなくなった誰かがここに捨てたようだった。

と、気配を感じたのか、男が目を開いて俺の方に視線を向けた。文字通り、「視線を向けた」だけであり、俺という人間に意識を向けたわけではなかった。男の目は、どんな感情も宿してはいなかった。誰にも、何も期待することを止めてしまった、光を宿していない目だった。男はすぐにまた目を閉じ、俺はその場を離れた。

マンションのすぐ近くまで来たところで、俺はふと立ち止まった。小雪さえちらつく、体の芯まで凍りつくような寒空の下で、ただ立ち尽くした。俺は考え―――何度も迷い、もうこのままマンションに戻って寝てしまおうとも思い、それでも考え――そして四半時ばかり経ったあと、俺は踵を返して早足でもと来た道を戻った。アーケード通りまで戻ると段ボール箱はまだそこに置かれたままだった。俺は男を起こして自分のマンションに連れ帰った。

男の体が冷え切っていたので、俺は男にシャワーを浴びさせてから熱いミルクを飲ませた。人心地がついた男に、俺は名を尋ねた。男は警戒心も露わに俺をじろじろ見ながら、高槻と名乗った。俺は高槻に、今日はもう遅いから泊まっていけ、と言った。高槻は少しのあいだ迷っていたが、やがてこくんと頷いた。

その夜の内に、俺は高槻を犯した。



高槻と出会うまでの俺は、友人も恋人もいない、まったくの一人だった。朝起きて会社に行き、山のように積まれた書類を片付ける。昼食も夕食も一人でとる。会社が終われば本屋かレンタルビデオ屋に寄って帰り、眠るまでの時間をマンションの自分の部屋で過ごす。外で酒を飲む習慣は俺にはなかった。会社帰りに一杯やろうと誘われることもなかった。

俺が周囲の人間から嫌われていたのかといえばそうではない。用事があればみんな気軽に声をかけてきたし、暇な時には話しかけられて雑談することもあった。だが、そこまでだった。それ以上俺と関わろうとする人間は誰もいなかった。嫌うほどではないが、親しくなろうと思うほどの価値があるわけでもない、つまりはどうでもいい人間。雑踏ですれちがう見知らぬ誰かに、好意も悪意も抱かないのと同じことだった。思い返せば学生の頃から特定の友人もなく、それから今に至るまで俺はずっと「誰でもいい誰か」でしかなかった。

多分俺は老いて死ぬまでずっとこのままなのだろう。朝一人で目覚めて会社に行き、仕事をして、また一人の部屋に戻って眠りにつく。こんな日々が、気の遠くなるような先まで、ずっと続くのだ。俺は漠然とそう思っていた。あの寒い夜、高槻を拾うまでは。



ベッドの中以外での俺に対する高槻の態度は、概して傲慢だった。俺を小ばかにした目で見て鼻で笑い、何か気に入らないこと――例えば俺が残業で帰りが遅くなったり、急な休日出勤をしなければならなくなった時などは、例の金切り声でヒステリックに喚き散らした。そのくせ、高槻は折りにつけ俺にキスをせがんだ。おはようのキス、行ってきますのキス、ただいまのキス、そして行為の間何度も唇を貪り合ったにもかかわらず、眠りに落ちる前はおやすみのキスをせがんだ。

それ以外の時は、高槻はとてとてと俺の後を付いてまわり、俺のすることを興味深そうに眺めるのが常だった。何がそんなに面白いのかわからなかったが、別段鬱陶しいとも思わなかったので、俺は高槻のしたいようにさせておいた。

俺が部屋を開けている間、高槻が何をして過ごしているかはわからなかった。外出している様子はなかったから、部屋にこもりきりになっていることだけは確かだった。つまりあいつはたった一人の部屋で、何をするわけでもなくただずっと俺の帰りを待ち続けているのだ。一度、何もしないでいるなら掃除でもしろ、と言ってみた。あいつはやっぱり俺を小ばかにした目で見て、ふん、と鼻で笑った。俺は別に期待して言ったわけではなかったから、特になんとも思わなかった。



俺に拾われるまでどこでどんな暮らししていたか、高槻は一切喋ろうとしなかった。俺も特に問おうとはしなかった。だが夜中に、高槻はひどくうなされることがあった。「く、来るなっ、そこで止まれっ!」「やっ、やめろ……力を使うなぁぁぁっ!」凄まじい恐怖の表情を浮かべてそんなうわごとを口走る高槻を、おれはあいつが安らかな寝息を立てるまでただじっと抱きしめ続けた。

俺には高槻がよくわからなかった。これまでまともに他人と付き合ったことなどなかったから、当たり前といえば当たり前だった。そんな俺が素性も知れない男と同じ部屋に暮らし、同じベッドで寝ている。そのことがとても不思議だった。



そんなある日、会社でちょっとしたトラブルがあった。俺が受け持っていた仕事で手違いがあって、僅かだが会社に損害が出ることになった。だが俺はいつも通りに仕事をしていただけだったし、仕事の処理手順についても逐一課長に確認を取っていた。つまり、課長の指示が間違っていたのだ。なのに、課長は俺のミスとして上に報告した。俺は課長のそのまた上司である部長に呼び出されて叱責を受けた。

俺が部長に自分のせいではないことを説明すると、部長は言い訳をするな、と言った。だから俺は課長の印をついた指示書を見せて、課長の指示通りにしただけだと言った。部長と、同席していた課長は渋い顔をして黙り込んだ。俺はもういいですかと言った。二人とも何も言わなかったので俺は部屋を後にした。

なのに結局、ミスは俺のせいということにされてしまった。どういうことだ、あの指示書はどう説明するんだ――俺が課長につめよると、課長は、そんな指示書は見たこともないし印をついた覚えもない、と言った。こいつは部長と二人してあの書類を握り潰してしまったのだ。睨みつける俺を見つめ返す課長の目は、まるで人間の言葉が通じない昆虫みたいな眼だった。

どすぐろいヘドロのような思いを抱えて部屋に戻った俺を出迎えたのは、料理の匂いと高槻の金切り声だった。

「見ろおっ! 寒い外から帰ってきたお前のためにこの俺様がわざわざつくっておいてやったぞっ! ありがたく思えぇぇぇぇぇっ!」

キッチンのコンロの上には、シチューと思しき鍋が暖かそうな湯気を漂わせていた。

だがその日は、いつもはなんでもない高槻の喚き声が妙に俺の癇に障った。今口を開いてしまったら、自分が何を言うかわからなかった。だから俺はじっと黙ったままでいた。

「どうしたあっ!? 何か言うことはないのかあっ! お前には感謝の念というものがないのかぁぁぁぁぁっ!」

俺は、うるさい、と言って喚きたてる高槻の顔を殴りつけた。派手な音を立てて高槻はキッチンの床に倒れこんだ。

しばらく倒れ伏せてから、高槻は真っ青な顔で俺のことを見上げた。とても信じられないものを見る目だった。そしてその目を、初めて会ったときのような、灰いろをした絶望の色が覆い――ものも言わず跳ね起きると高槻は洗面所の方に走り去っていった。

俺はコンロの上の鍋の中をのぞいてみた。鍋の中身は、不ぞろいに切られたジャガイモやニンジンが浮かんだクリームシチューだった。

しばらくその場に立ち尽くしたあと、俺はシチューを皿によそうと、スプーンを持って洗面所に向かった。



高槻は洗面台の前の床にぎゅっと膝を抱えて座り込んでいた。体が瘧のようにぶるぶる震えていた。俺は少しためらってから、殴って悪かったと言った。高槻は何も答えなかった。俺は高槻の隣りに座った。

俺はシチューをひとさじすくって口に入れた。少し味が濃すぎる気もしたが、悪くはないと思った。うまいぞ、お前も食べろよ――俺は高槻に言った。やはり高槻は何も答えなかった。

俺は高槻の肩に手を回した。びくっと体を固くして逃げようとする高槻を、そのまま強引に抱き寄せる。そしてまたシチューをひとさじすくって口に入れ、咀嚼してから、俺は高槻に唇を重ねた。

「ンっ!?ンンンンンッ!?」

顔を背けて逃げようとする高槻の頤(おとがい)を、俺は逃さないように強く掴んだ。開かせた唇の間から無理やりにシチューを流し込んでいく。

「………」

「………ン」

「………………………ンくっ…」

「ン…」

吐き出すかもしれないと思ったが、高槻はこくんとのどを鳴らしてシチューを飲み込んだ。それからまた顔を俯けると、じっと黙り込んだ。

食べさせてやるからもっと食べろ――俺がスプーンでシチューをすくってさし出すと、高槻はいやいやをするように首を振った。

まだ怒っているのか――そう言うと、高槻はまた首を左右に振った。そして、ぽつりと、さっきみたいに食べさせてほしい、と言った。

皿一杯のシチューを、俺は高槻に食べさせた。



そして、俺は今日も高槻の金切り声で目を覚ます。玄関先で行ってきますのキスをして、帰宅すればただいまのキスをする。シャワーを浴びた後、高槻のつくった夕食を一緒に食べ、高槻の体温と肌の匂いをじかに感じながら眠りにつく。そんな日々が続いていく。この先もずっと、ずっと。

それも悪くない、と俺は思う。



<了>