「ところで明日は何の日だか知っているか、巳間?」
唐突に高槻がおれに言った。
「別に何もないだろう」
おれはホワイトボードの予定表に目をやってそっけなく答えた。事実、予定らしきものと言えばMINMESの定期点検があるくらいだった。
しかし高槻はその答に満足せず、さらに続けて言った。
「注意力の足りない奴だな。日付のところをよく見てみろ」
言われた通り見てみると、「14日」の日付の上に、赤いマーカーでハートマークが描き込まれていた。
「……もしかしておまえが描いたのか?」
体中を毛虫が這い回るような気色悪さを覚えつつ尋ねると、高槻は嬉しそうに頷いた。
「これでもう解ったろう」
「悪いがさっぱり解らん」
きっぱりと俺は答えた。高槻はいかにも同情に耐えないといった様子で俺を見た。
「社会常識の無い奴だな。ではもう一つヒントをやろう――今は何月だ?」
「…2月だ」
あまり長々とこいつと会話を続けていたくはなかったが、下手に無視してへそを曲げられると厄介なので、おれはしぶしぶ答えた。
「さすがにもう解ったろう」
満面の笑みで高槻が言い、
「いや、さっぱり解らん」
本気で解らなかったので、おれは再びそう答えるしかなかった。
「だから――」
高槻の声に苛立ちが混じり始めた。
「2月の、14日だぞ?」
「ああ、そうだな」
「だから何の日だ?」
「全く見当もつかん」
「だから…」
高槻は頬をひくひくと引きつらせ始めた。そろそろ来るな、とおれは思った。そしておれが手で耳を塞ぐよりも一瞬早く――
「2月14日と言えばバレンタインに決まってるだろうがぁぁぁぁぁっ!!!」
鼓膜に突き刺さるような馬鹿声で高槻は絶叫した。少しでも自分の思い通りにならないことがあると、こいつはこうしてヒステリー持ちの中年女みたいに金切り声を張り上げるのだ。
「……そう言えば、そうだったな」
じんじんする耳を押さえながらおれは言った。
「で、それがどうしたというんだ?」
おれが尋ねると、高槻は蔑みのこもった視線をおれに向けた。
「そんなことも解らないのか? インポのついでに頭まで悪くなったのか、巳間?」
「…誰がインポだ」
おれは高槻を睨みつけた。おれ自身の名誉のために言っておくと、おれは決してインポなどではない。ただ今は、不眠症のために毎晩飲んでいる酒と睡眠薬のせいで、一時的に調子が悪くなっているだけなのだ。そもそもおれの不眠症の原因は、八割方こいつのせいだった。
しかし俺の下半身のこととなるとこいつは嬉々として話をやめようとしなくなるので、おれはさりげなく話題を元に戻した。
「大体、バレンタインデーとおれ達に何の関係があると言うんだ」
この人里離れた穴蔵のような実験施設で非合法かつ非人道的な研究に専念するおれ達に、そんな世間一般の浮かれた馬鹿行事が関係あるはずもなかった。しかし高槻は平然と、
「関係なら大いにあるだろう」と言った。
「ほおぅ…一体どんな関係があるというんだ? 是非とも説明してもらいたいもんだな」おれは皮肉まじりに尋ねた。
「それを俺に言わせるつもりか?」
何故か心外そうに、高槻。
「おまえ以外の誰が答えると言うんだっ!」
おれはいらいらして思わず声を荒げた。高槻は、はぁ、とため息をついてから、俺を真っ直ぐに見つめて言った。
「まったくもって鈍い奴だな。じゃあはっきり言うが――チョコをくれ」
「………………は?」
言われた意味がまったくわからず――というか脳が理解することを拒否して――、眼を点にして固まるおれに、もう一度、高槻は真顔で言った。
「明日のバレンタインデーに、俺にチョコをくれ」
「あ………………
あほかぁぁぁぁぁっ!!!」
一瞬の間を置いて、おれは絶叫した。
「何が悲しくておれがおまえにバレンタインチョコをやらにゃならんのだっ!!」
「何を言っている。俺とお前は親友じゃないか」
きょとんとして言う高槻に、俺は発狂しそうになりながら喚き散らした。
「誰と誰が親友だっ!! と言うか、たとえ親友でも絶対お断りだっ!! チョコならB−58からでも貰えばいいだろうがっ!!」
B−58というのは高槻の子飼いの実験体で、高槻は検査だの何だのと称してちょくちょく彼女を自分の個室に連れ込んでいた。分厚い鉄の扉越しにさえ洩れ聞こえてくるあられもない声からして、何の検査だか知れたものではなかった。まあ、信者と関係を持つことの是非はともかく、ねんごろにしている相手がいるのならチョコでも何でもそっちから貰えばいいだけのことだ。しかし高槻はさも不思議そうな顔でおれを見て、
「あのな…命令すれば足の裏でもケツでもどこでも舐めるような相手からチョコを貰って嬉しいと思うか? 第一、あいつにどこでチョコを調達しろと言うんだ?」
「『足の裏でもケツでも』って、おまえは実験体に一体何をやらせてるんだっ! それにチョコならおまえが買ってきてやればいいだけのことだろうがっ!」
「で、それを一旦あいつに渡して、あらためてあいつの手から貰うのか? いくらなんでも悲しすぎるぞそれは」
「男同士でチョコの遣り取りをするよりなんぼかましだっ!」
吐き捨てるようにおれは言った。高槻の言うことも解らなくはなかったが、それでどうしておれがこいつにチョコを渡すことになるのか、完全に意味不明だった。というか、死んでも嫌だった。
「どうしても、だめか?」
無言でお菓子をねだる餓鬼みたいないやらしいうわ目遣いで高槻は食い下がった。
「だめだ」吐き気をこらえながら、つめたくおれは答えた。「頼むから他を当たってくれ」
「………………………そうか」
縋りつくような気色の悪い目つきでしばらくおれを見つめたあと、高槻はため息をついて肩を落とした。そして、「だったら他の方法を考えるしかないか…」と、何やら聞き捨てならないことをぶつぶつ言いながらその場から立ち去っていく。
おれはその後姿を、嫌な予感が暗雲のように胸にたち込めてくるを感じながら見送った。
そして翌日。
高槻が何かろくでもないことをやらかしはしないか、おれは不安に苛まれながら一日を過ごしたが、結局何も起こらないまま夜になった。おれは少々拍子抜けがしながらも、とりあえずは自分の無事を感謝した。
高槻は病的に執着心が強い反面、極端に飽きっぽくもあるという矛盾した性格の持ち主だから、きっと他に何か興味を惹くことでも見つけたのだろう。新たな犠牲者を見つけたのだとすれば、そいつには気の毒というほかなかったが、さりとてそいつと立場を替わってやろうとは、おれはみじんも思わなかった。
どうにか日付が変わらないうちにMINMESの調整を終え、おれはB棟を出てコンクリートの通路を自分の個室のある棟に向かって歩いた。その日の仕事を終えて自室に戻るこの時間が、おれは一日の中で一番好きだった。昨日とも一昨日とも何の変わりばえもしない一日が、ただ終わっただけのことだったが、それでも後はウイスキーで睡眠薬を流し込んで眠ればいいだけなのだと思うと、おれはささやかながら開放感のようなものを味わうことができた。
そして自分の個室の前まで来て、ドアを開こうとしたその時、おれはかすかに甘ったるい匂いが辺りに漂っているのに気づいた。
食堂や調理室はこことは完全に隔離されていて、空調も別系統になっていたから、そこから匂いが漏れるはずがない。誰か食事を自室に持ち込んだ奴でもいるのだろうか。もちろん規則違反だが、研究員には孤独癖のある奴も少なくなかったから、決してありえない話ではなかった。
まあ、見つかったら見つかったで、それはそいつの責任だ。おれの知ったことではない。我関せずを決め込んで、おれは自室のドアを開いた。
「よお、随分遅かったな」
むっとするほど甘ったるい匂いと、金属を擦り合わせるような耳障りな声がおれを出迎えた。
おれのベッドに薔薇の花びらが敷きつめられ、その上に、全裸に赤いリボンを巻きつけて、体中をチョコレートクリームでデコレーションした高槻が寝そべっていた。胸板には白いクリームで、「I LOVE MIMA」と書かれている。
「………何の真似だ」
しばらく黙り込んだ後、ようやくかすれた声でおれは尋ねた。
「なに、お前がチョコをくれないのなら、俺がお前にチョコをやればいいんだと気づいてな。つまりは逆転の発想というやつだ」
高槻はへらへら笑って答えた。
「だからそれは一体何の真似だ」
自分自身が聞いたこともないような声で、もう一度、おれは尋ねた。
「ん? …ああ、これか。まあ、ただ渡すというのも芸がないし、少しばかり趣向を凝らしてみた。年に一度のイベントだからな、やはりそれなりのサプライズは必要だろう――で、どうだ、この趣向は? 気に入ってもらえたか? まあ、とにかく残業で疲れただろう。疲労回復には甘いものが一番だ。どこでも好きなところからやってくれ。お薦めはやはりここだが――」
高槻はチョコレートでコーティングした上からアラザンをふりかけた、股間のチョコバナナのような物体をおれに向かってぐいっと突き出した。
「………」
すべての思考と感情が麻痺していく中で、おれは自分の右手がホルスターから拳銃を抜き出すのを、ひとごとのようにぼんやりと感じていた。
2メートルと離れていない超至近距離から発射された弾丸を、高槻は神わざ的な――というよりゴキブリ並みの身のこなしで6発ともかわしてのけ、おかげでおれに下された処分は一週間の謹慎と始末書の提出にとどまった。それを幸運と思うべきか、あるいは不運と思うべきか、おれにはもうよく解らなかった。
ちなみに、おれの部屋に忍び込んだ上にそこら中をチョコレートまみれにした高槻は一切おとがめなしだった。そういう意味でもこの男は、とにかく身をかわすのがうまかった。
おれの部屋からチョコレートの匂いがすっかり消えるまでには、一ヶ月の時間を要した。
そしてそれ以来おれは、チョコレートの匂いを嗅いだだけで吐き気をもよおすようになり、一切食べられなくなった。中でも特にチョコバナナは、もしも食べることを強要されたとしたら、おれは即座に相手を射殺するか、さもなければ自分の頭に鉛玉をぶちこむつもりだ。
<了>