「パノラマ島綺譚」 江戸川乱歩 著(春陽堂文庫)
 もしこのおれに、つかい切れぬほどの莫大な富があったなら――自らの夢想する桃源郷の世界に心を遊ばせながらも、現実の世界では三文文士として何の未来も希望も無い生活を送る主人公・人見広介。 埒もない妄想だけを慰めに、安下宿で鬱々とした日々を送る彼に、しかしある日転機が訪れる。 大学時代の知人であり、彼と瓜二つの顔を持つ大富豪・菰田源三郎が頓死したのだ。もしも自分がこの男に成り代わったなら――冗談のような思い付きから始まった計画は現実のものとなり、やがて莫大な富を投じて沖合いの小島に奇怪な人工の楽園が築き上げられる。 だが、果てしも無く暴走していく彼の妄想は、やがて彼自身を破滅へと導いていくのだった――
 現実逃避と破滅願望に彩られた、絢爛で惨めな御伽噺。 絵描きにしろ字書きにしろ、作品を作る――つまり「夢を形にする」活動をしている人にとっては特に、魂の暗い部分が惹かれる作品だと思います。
 親がかりで大学まで卒業していながら定職にも就かず、そのくせ 「自分は他の退屈でつまらない奴らとは違うのだ」 という根拠の無いプライドだけは人一倍、身の丈に合わない夢にしがみついて無為な人生を送る主人公、人見広介。 その絵に描いたようなダメ人間っぷりには、まるで自分のダメな部分を拡大して目の前に突きつけられているような錯覚さえ覚えます。 ああ、月給取りになっといてよかった…
 酔生夢死を地で行く主人公の人生は、自分と瓜二つの大富豪の頓死によって転機を迎えるわけですが、いかに似ていると言っても赤の他人の人生を乗っ取るなど、最初から無理があるに決まっています。 にもかかわらずその狂気じみた企てを実行にうつした時点で、主人公の破滅は約束されていたのでしょう。
 どうにか富豪に成りすますことに成功した主人公は、莫大な費用をつぎ込んで沖合いの小島に望み通りの桃源郷を完成させます。 しかし、あまりにも常軌を逸した人工の楽園を維持し続けるには大富豪の財産をもってしてもせいぜい一ヶ月が限度であり、さらに自分がにせものであることを富豪の妻に気づかれ、主人公はついには殺人に手を染めてしまうのです。
 妻の親族の雇った探偵によって正体を看破され、自分と楽園に最期の時が訪れたことを悟った主人公は、大花火で自らの肉体を夜空高く打ち上げ、こっぱみじんに砕け散ります。 「夢に殉じた男の、あまりにも美しくあまりにも滑稽な末路」 というのが、おそらくはこのラストの正しい解釈なのでしょう。
 ですが私はその一方で、なんだかこれって 『若いおねえちゃんに入れ上げたオッサンが、会社の金を横領して貢ぎまくった挙句、女房にばれて口論の末に絞殺、逮捕されそうになって最後は首吊り自殺』 みたいだよなあ、なんてことも思ったりしてしまいます。 かなり下世話な喩えではありますが、要するに、いくら渇望してもまともな手段では決して叶えることのできない夢や欲望――身の破滅と引き換えにしなければ手に入れることのできない、それぞれの 『パノラマ島』 が、誰の心にもあるのではないか――そんな気がするのです。
(2009.10.9)
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 P・K・ディック著(ハヤカワ文庫)
 死の灰によって環境が汚染され、希少となった本物の動物を飼うことが人間性や道徳の証とされる「最終大戦後」の地球。ある日、火星の植民地から、新型アンドロイド・ネクサス6型が8体、地球に逃亡してくる。腕利きのバウンティハンター・ホールデンが追跡の任にあたるが、2体を仕留めたところで返り討ちにあい、後任として二番手のハンター・リック=デッカードに白羽の矢が立てられる。飼っていた羊が破傷風で死んだために妻との仲もうまくいかなくなり、新しい動物を買うためにまとまった金が必要なデッカードは賞金目当てに追跡に乗り出すが――
 ご存知、映画「ブレードランナー」の原作小説です。といっても、共通しているのはキャラクターの名前、地球に逃亡して来たアンドロイドを主人公が追うというシチュエーションくらいで、世界観やディティール、登場人物の性格付け、ストーリー展開や個々のエピソードなどは全くの別物といっていいでしょう。
 特に異なるのは、他者への共感・同情を教義とする国民的宗教「マーサー教」と、第二の主人公とも言える“ピンボケ”の青年・ジョン=イジドアが映画では省かれていること、そして、映画では(皮肉にも)人間性を獲得した存在として描かれていたアンドロイド達が、小説では徹底して、他者への共感能力を持たない、理解できない、人間に似て非なるものとして描かれていることでしょう。
 イジドアは、放射能汚染による遺伝子損傷のために生殖を許可されない“特殊者(スペシャル)”であり、そのうえ精神能力テストの最低基準に達しない“ピンボケ”でもあるために、二重に社会から疎外されています。マーサー教に心の救いを求め、郊外の廃墟に一人寂しく暮らす彼のもとに、ある日手配中のアンドロイドの一人、プリスが逃げ込んできます。美しい彼女にイジドアは心ときめかせますが、“ピンボケ”の彼をプリスは嫌悪し、さらに残酷なことに、彼はプリスと、そして後からやって来たアンドロイド達全員から徹底的に侮蔑され、嘲笑され、利用されることになります(その最たるものは、プリスが仲間達の前で言うセリフ「このピンボケは私が好きなのよ」でしょう。ヒデェ…)。彼はとうとう、人間ではないもの達からさえも疎外されてしまうのです。
 一方デッカードは、アンドロイドを一体一体追い詰め処分していく内に、「人間とアンドロイドを区別するものは何か」が徐々に判らなくなっていきます。アンドロイドになんら共感を持つことなく、情け容赦なく処分していく自分は、果たして人間と言えるのか…。それでもどうにか全てのアンドロイドの処分を終え、稼いだ賞金を頭金にようやく買うことのできた山羊も、ネクサス社の所有物であるアンドロイド・レイチェルの手でビルの屋上から突き落とされてしまいます。身も心も傷つき疲れ果てたデッカードは一人ホバー・カーを駆り、郊外の無人の荒野にあてもなく走り出しますが、彼がそこで見つけたものは…
 本作では「人間にとって最も大切な能力は、他者への共感能力である」というテーマが繰り返し語られています。共感能力を持たないアンドロイドが何を表しているかは、露骨過ぎて既に暗喩でさえありません――というより、一種の皮肉でしょう。今どきのご時世、全国民にフォークト=カンプフ検査を受けさせたら、果たして何割が他者への共感能力をまともに持った「人間」だと判断されるんでしょうか?
(2009.2.27)
「暗闇のスキャナー」 P・K・ディック著(ハヤカワ文庫)
 新種の麻薬<物質D>の流通ルートを解明するために麻薬中毒者のコミュニティーに身分を偽って潜入した麻薬捜査官ボブ・アークター。だが、彼が上司から最重要容疑者としてマークするよう指示されたのは彼自身だった――
 こう書くとなんだかえらく不条理な話のようにも思えますが、たねを明かせば何のことはありません。内部からの情報漏洩を防ぐために、自分が誰に化けているかは直属の上司にも秘密にしなければならないという規則のせいで、ドラッグの売人を装って捜査をする主人公が、別の監視チームから、不審な行動をとる麻薬中毒者だと見做されてしまったのです。
 上司に打ち明けて相談することもできず、仕方なく自分自身の部屋に盗聴装置を仕掛ける主人公。間抜けすぎます。そしてこのあたりから主人公は、自分が何をやっているのか、一体何をしたいのか、だんだんわけがわからなくなっていきます。
 本作は一応SFにカテゴライズされており、スクランブルスーツや脳波モニターといったSF的なガジェットも登場しますが、SFでなければならない必然性そのものは薄いと思います。何故なら本作で描かれているのは社会の最底辺で蠢く麻薬中毒者達の、どうしようもなく悲惨で生々しい生態であり(たとえば冒頭では油虫の幻覚に取り憑かれた麻薬中毒の男が自分や飼い犬に殺虫剤をかけまくるエピソードが描かれています)、主人公も麻薬中毒者を装うために実際に薬物を服用し続ける内に重度の中毒に陥ってゆき、最後には廃人と化すという悲惨な結末を迎えます。
 著者自身、本作を「反・麻薬小説」であると位置付け、“著者あとがき”には麻薬中毒によって死亡もしくは重篤な障害を負うに到った友人の名前が、墓碑銘のように列挙されています。しかし、“訳者あとがき”によると当の麻薬中毒者達からは逆に「自分達の日常をリアルに描いた親・麻薬小説」と受け止められているそうで、なんとも皮肉な話です。
 私にとってディックの小説といえば、不条理で二転三転する筋立てもさることながら、登場人物の言動にいちいち眼がひっかかる感じがして、今一つ読破するのにハードルが高かったのですが、本作に限って言えばわりとすらすら読めました。何故なら主要な登場人物が主人公を含めて終始麻薬でラリラリのため、彼らがどれだけ意味不明な行動を取り、どれだけわけのわからないことを口走ったとしてもまるで不自然ではないのですから。
(2009.2.20)
「ブレードランナー2・レプリカントの墓標」 K・W・ジーター著(ハヤカワ文庫)
 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の続編でもなく、P・K・ディックの著書でもありま せん。「ドクター・アダ―」の著者K・W・ジーターによる、映画「ブレードランナー」(正確に は82年の劇場公開版ではなく、ディレクターズカット版)の続編です。書店でこの本を見つけた時には、あまりと言えばあまりな取り合わせに、かなり頭がくらくらしたのをよくおぼえています 。まあ、ジーターはディックの弟子っぽいらしいので(「ドクター・アダ―」にはディックが序文 を寄せています)繋がりがあるといえばあるのですが…
 取り合わせの無茶さ加減としては、「ディック原作+悪趣味大王バーホーベン監督+主演シュワ ちゃん」なカオス映画「トータルリコール」と比べてもいい勝負だと個人的には思います。
 内容はというと、「ブレードランナー」自体が単体として完結した作品であるだけに、無理矢理 後日談をこじつけた感は否めません。映画や、それに「電気羊…」からも細かいネタを器用に拾っ て構成されてはいるのですが、普通に読む限り「何この二次創作小説」と思ってしまうかもしれま せん。
 ですが、毒吐きまくりの処女作「ドクター・アダ―」でジーターを知った私としては、ジーター が大ヒット映画の二次創作をやっているという時点で大爆笑してしまいました。何と言うか、名古 屋の某喫茶店の小倉抹茶スパゲティーみたいな…つまりはまあ、一発ギャグとして楽しんだわけで す。歪んでますね。
 ちなみに、さらに続編の「ブレードランナー3」まであるそうですが、例のウドンの屋台での名 セリフを言いたくなるところです。
(2008.11.15)
「幽霊狩人カーナッキ」 W・H・ホジスン著(角川文庫)
 映画「マタンゴ」の原作である「闇の声」の著者W・H・ホジスンによる、ゴーストハンターものの連作――身も蓋も無い言い方をすれば、オカルト版シャーロック・ホームズです。
 心霊現象の専門家であるカーナッキは、「シグザント写本」や「電気五芒星」といったアイテムと合理主義精神を武器に、様々な怪異に挑みます。彼が手がける事件は大半は紛れも無い心霊現象ですが、中には人為的に仕組まれたトリックである場合もあり、本作は謎解きという点で怪奇小説であると同時に推理小説的なテイストも盛り込まれています。
 また本作には、心霊現象に対する合理的解釈という点でSF的な要素も含まれています。科学万能主義が台頭する一方で、降霊術や心霊写真等のオカルトが流行していた当時(20世紀初頭)のイギリスの風潮を反映しているのかもしれません。
 連作中の最高傑作は、何といってもラストを飾る大作「外界の豚」でしょう。人間の精神を餌とする異次元(正確には太陽系外を取り巻く磁気帯)の生命体とカーナッキの死闘を、息詰まる筆致で描き上げています。本書は、後にラブクラフトが提唱する「宇宙的恐怖(コズミックホラー)」とも底通する独自の宇宙観・オカルト体系に基づいて書かれており、この「外界の豚」も、先立って書かれたSFホラー長編「異次元を覗く家」の世界観を引き継いでいます。
 なお、本書は絶版ですが、創元推理文庫から「幽霊狩人カーナッキの事件簿」として新訳で出版されています。
(2008.11.09)
「暗黒神ダゴン」 フレッド・チャペル著(創元推理文庫)
 父が謎の死を遂げたことで神経衰弱気味の牧師リーランドは、静養を兼ねて祖母から相続した田舎の家に妻と共に移り住むことになった。しかし、屋根裏部屋の壁に固定された手錠や、「くとぅるふ」「るるいえ」といった謎の言葉が書き記されたメモを発見したことで、彼の精神は逆に不安定さを増していく。理想的であるはずの妻に対する不条理な殺意。敷地内に不法に居住する粗野で下品なモーガン一家。魚類のようなグロテスクな容貌を持つモーガン家の娘・ミナ。均衡を失った彼の精神は、徐々に闇の世界に取り込まれていく――
 詩人であるフレッド・チャペルの手による、グロテスクな不条理劇です。題名こそ「暗黒神ダゴン」というおどろおどろしいものですが、実際に邪神や怪物が登場するわけでもなく、それらは一種の不安や恐怖の象徴的な意味合いとして描かれています。主人公の身に起きるのは人知を超えた怪異ではなく、あくまで現実の範囲内の、しかし不快なことこの上ない出来事の数々であり、その生々しさは読んでいるのが辛くなるほどです。
 では何故、著者はこの物語に「ダゴン」という題名をつけ、クトゥルー神話に登場する名称をちりばめたのでしょう。書評等には「宇宙的恐怖(コスミックホラー)を人間の内面に求めた作品である」とあります。まあ、「理解不能な恐怖から逃れることもできず逆にどんどん引き込まれていき、最後には狂気の淵に飲み込まれる」という構図は、ラブクラフトの諸作品と共通しているとは思いますが…
 いずれにせよ、単純に「理不尽な苦難の果てに精神を崩壊させていく主人公の姿を描いた不条理劇」として読んでも、息苦しいほどの迫力に満ちた作品ではあると思います(注.精神的にナーバスになっている時は読まない方がいいと思います)。
(2008.11.03)
「おれの血は他人の血」 筒井康隆著(新潮社文庫)
 普段は気弱だが怒りを感じると意識を失い、凶暴な別人と化して凄まじい暴力を振るう主人公・衣川。自分の暴力に怯える彼は、極力怒りを感じないで済むようトラブルを避け、平穏な生活を心がけてきた。しかしある夜、行きつけのバーで3人組のヤクザにからまれた彼は、またしても凶暴な別人と化して3人組を叩きのめしてしまう。そのことがきっかけとなり、彼は市の支配権を巡って対立する暴力団同士の抗争に否応無しに巻き込まれていくのだった――
 対立する二つの組織の間に無関係な第三者である主人公が現れて結局双方を壊滅させてしまう――ハメットの「血の収穫」や、黒沢明の「用心棒」、セルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」といった作品で用いられている、ある種「黄金パターン」の作品です。というより、そうした作品のパロディと言ったほうがいいかもしれません。それらの物語では、主人公は一種の「ジョーカーのカード」的役割を果たすわけですが、本作ではそこに度を越えて凶暴な主人公を配することで極端に暴力をエスカレートさせ、物語はもはや血まみれのドタバタ喜劇の様相さえ呈しています。
 主人公が何故怒りを感じると凶暴な別人になるかについては一応の謎解きはされていますが、それはあまり重要なファクターではありません。重要なのは、自分自身でさえ制御不可能な超人的暴力をふるう主人公――無目的で純粋な暴力そのものと言い換えてもいいでしょう――を二つの組織の対立の構図の真っ只中に放り込むことで、物語にカタストロフをもたらすことなのですから。
 この作品は一度、火野正平主演で映画化されているそうですが、残念ながらあまりいい評判は聞きません。
(2008.10.26)
「ゴールデン・ボーイ」 スティーヴン・キング著(新潮社文庫)
 「話を聞きたいんだよ。ぞくぞくする話をぜんぶ」 金髪にそばかす、真っ白な歯――魅力的な「アメリカンボーイ」トッド・ボウデン。しかし陽気な笑顔の裏で、彼はナチスに対する暗い興味を募らせていた。ある日彼は町で見かけた老人デンカーが、ナチの戦犯ドゥサンダーであることを突き止める。トッドはドゥサンダーの家に押しかけ、アウシュビッツでの所業を語って聞かせることを強要する。ドゥサンダーはしぶしぶ要求に応じ、その日から彼らの奇妙な交流が始まる。しかしその関係は次第に二人の中に潜む邪悪な暴力への餓えを呼び醒ましていくのだった――
 「人は何故邪悪なものに魅かれるか」をテーマにした作品です。不気味な作品であることに間違いはないのですが、序盤、ドゥサンダーにナチの制服のレプリカを着させて喜ぶトッドの無邪気なサディストっぷりや、最初よぼよぼだったドゥサンダーがトッドと交流を重ねるにつれてだんだんしゃきっとしていく様子はユーモラスですし、また、中盤、トッドの成績が下がったのを親に隠す手伝いをする一方、勉強しろと発破をかけるドゥサンダーの「いいおじいちゃん」ぶりにはほのぼのするものさえ感じます。
 しかし、物語が進むにつれ、彼らは互いに呼応するように、徐々に己の中の邪悪さに目覚めていき、それぞれが与り知らないまま、全く同じ「愉しみ」に耽るようになります。結局、彼らを待つものは破滅でしかないわけですが、もし二人が出会っていなければ、ドゥサンダーはただの孤独な老人として安らかな最後を迎え、トッドのナチマニアは単なる「はしか」に終わって、それなりに順風満帆な人生を送っていたのかもしれません。ある意味、彼らは互いが互いの破滅の使者だったのでしょう。
 本書には他に、映画「ショーシャンクの空に」の原作である「刑務所のリタ・ヘイワーズ」が収録されています。
(2008.10.19)
「賢者の石」 コリン・ウィルソン著(創元推理文庫)
 少年時代から不死の問題に取り憑かれてきた主人公ハワードは、「人間は超越的な意識を獲得する事によって肉体的な死を乗り越えた存在になりうる」という結論に達し、盟友リトルウェイと共に研究を重ねた末に、脳に外科的処置を施すことによって千里眼――ヴィジョン能力を持つ超人へと進化する。しかしそのことにより彼らは、人類創生に関わる秘密と、かつて地球を支配し、今も人類に隠然たる影響力を持つ「古きものども」の存在と対峙することを余儀なくされるのであった――
 こうやってあらすじだけを書くと単に「少し毛色の変わったクトゥルフ神話もの」のように思えますが、多くの書評で言及されているように、この小説かなり冗長です。なにしろ少年時代の思い出に始まる主人公の体験談が必要以上に微に入り細に入り描写されている上に、様々な哲学、心理学、宗教、神秘思想、果てはヴォイニッチ手稿といったトンデモ知識に至るまで、ありとあらゆる薀蓄と、著者の「アウトサイダー」思想がこれでもかと言わんばかりに並べ立てられているのですから。
 しかし、散りばめられた薀蓄の中から本筋だけを拾い上げてみると、結構荒唐無稽で破天荒な内容であることがわかります。脳に外科的処置を施すことによって見ることのできないものを見るという下りはアーサー・マッケンの「パンの大神」、処置を施す脳の部位が第三の眼――松果体であるという部分は、ラブクラフトの「彼方より」を思い起こさせます。果ては「ヴォイニッチ手稿がネクロノミコンの原本である」というあたりに至っては「ちょっと待て」と言いたくなります。それにしても…
 「人間の次の段階への進化」「人類創生の秘密」「薀蓄・トンデモ知識」「哲学・宗教・神秘思想」「無茶すぎるストーリー」。こうしてエッセンスを並べてみると、何となく見覚えがある気がします。ヴォイニッチ手稿を死海文書に置き換えると……はい、エヴァンゲリオンですね。
(2008.10.12)
「冬の棘」 W.D.ピーズ著(文春文庫)
 メリーランド州南部の町メアリーヴィル――うらぶれた片田舎の町を一大高級住宅地に変身させた辣腕の実業家クーパー・エイヴァリー。町が川霧にむせぶ十月下旬のある夜、邸宅に侵入した何者かによって彼の妻が殺害される。目撃者は、当時家にいた十歳になる息子ネッドのみ。しかしネッドは事件のショックで一言も言葉を発することができない。捜査が進むにつれ、次第に夫であるクーパーの容疑が濃くなっていく。しかし、女刑事クリスティーンは夫の犯行であることに疑問を持ち、同僚の協力も得られぬまま、ひとり孤独な捜査に乗り出すのだった――
 こんな風に書くと、ステレオタイプな「無能な男達が幅を利かせる中、一人真実に立ち向かう正しいヒロイン」みたいですが、少し読み進めると、そんな単純な筋立ての物語ではないことがすぐに判ります。主人公クリスティーンの言動は多分に情緒不安定気味で、夫の犯行であることに疑念を持つというより犯人別人説に「固執」もしくは「執着」しており、その捜査活動は偏執狂的でさえあります。
 クーパーが逮捕され、舞台は一旦法廷に移りますが、物語はそれ以降急転直下の展開を見せ、そして静謐感漂うラストへと収束していきます。
 訳者あとがきにも、カバー裏にさえ「ネタばれ厳禁」としつこいくらいに書かれているのでこれ以上は書けませんが、冒頭、戦後間もないアメリカに「赤狩り」が横行した時代、劇作家リリアン・ヘルマンが非米活動調査委員会から召喚状を受け取った時のエピソードが紹介されていることのみ書き添えておきます。
(2008.10.05)
「ウイチャリー家の女」 ロス・マクドナルド著(ハヤカワ文庫)
 霧深い晩秋の11月。船旅に出る父親の見送りに来たのを最後に、大富豪の娘フィービー・ウイチャリーは姿を消した。彼女が失踪する直前、父娘のもとには離婚した母親・キャサリンが金の無心のために押しかけていた。父親・ホーマーの依頼を受けてフィービーの行方を探る私立探偵リュー・アーチャー。捜査を進めるにつれ、彼の前に姿を露わにしていくのは、莫大な富を擁しながらも衰退の一途を辿る、ウィチャリー家の抱える底知れぬ闇だった――
 ロス・マクドナルド後期の、「アメリカの悲劇」を描いた作品です。戦後の社会の変動の中で、内包していた矛盾を露わにして崩壊していく「良きアメリカの家族」という幻想。それでもなお、その幻想にしがみつこうとする人々。そこに起こる軋轢と悲劇。
 ロス・マクドナルドはチャンドラーと共に、ハードボイルド派の代表的な作家として語られることが多いですが、チャンドラーが魅力的なキャラクターを描くことを主眼に置いているのに対し、ロス・マクドナルドは事件の背後に横たわる社会の闇を描くことに注力しています。そのため、主人公アーチャーはタフガイ探偵というより物語の語り部の役割を与えられており、アーチャーの個人的な事柄に対する描写はほとんどありません。身も蓋もない言い方をすれば、「キャラが立てられていない」のです。
 ネタばれになるので詳しくは書けませんが、この作品には一つ、古典的で、あまり現実的ではないトリックが用いられています。それを欠点として指摘する書評もありますが、私にはこのトリックが、この小説に描かれている”闇”をある意味象徴しているように思えます。
 (2008.09.28)
「ドクターアダー」 K・W・ジーター著(ハヤカワ文庫)
 第三次世界大戦後のアメリカ。ロサンジェルスの暗黒街でカリスマ外科医として君臨し、政府や軍の高官すら裏の顧客に抱えるドクターアダー。彼の天才的なメスが生み出すのは、畸形嗜好者のために人為的な肉体改造を施した異形の娼婦達だった。ある日彼のもとへ、オレンジ郡の養鶏場を退職した青年が訪ねてくる。青年が携えていたのは、アダーが以前から渇望していた、大戦時の個人用殺戮兵器”フラッシュグラブ”。だがそれは、アダーの影響力を恐れる勢力が彼を亡き者にするために仕組んだ陰謀だった――
 猥雑で、とことん歪んで狂った小説です。潔癖症の方にはあまりお薦めできないかもしれません。畸形の娼婦が徘徊するLAの裏社会を舞台に、人体改造を生業とする闇医者と、狂信的なモラル団体の抗争を描いた話ですから。
 この小説が書かれたのは1972年であり、所謂「危険な小説」の古典ではありますが、2008年の今もその内容は”危なさ”と”鋭さ”を失っていないと思います。
 (2008.09.21)
「死のロングウォーク」 スティーヴン・キング著(扶桑社)
 ”少佐”と呼ばれるカリスマ指導者の下、ファシズム国家と化したアメリカで10代の少年100人を選抜して行われる国民的競技「ロングウォーク」。それは不眠不休で無制限に歩き続けるゴールの無いレースであり、脱落者は射殺され、生き残りが最後の1人になるまで続けられるという過酷な死のゲームだった――
 キングが20歳の時にリチャード・バックマン名義で発表した初期の傑作です。主人公達は基本的にただ歩くだけですから、当然派手な展開はありません。そのかわり、動機も曖昧なままに死のゲームに参加した少年達の精神がレースの過程でどのように変容していくかが、キング特有のねちっこいタッチでじっくりと描かれています。青春小説としても、また「アメリカの悲劇」を描いた小説としても、非常に優れた作品だと思います。
 優勝者以外の死が約束されたゲームの果てに、主人公の少年がどんな結末を迎えるかは――自分の目で確かめて下さい。
(2008.9.12)
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