キッスは終日うつらうつらとして過ごした。
ベンチュラが連れて来た医者が、絶対安静と言ったからだ。人間用の傷薬や鎮静剤で、キッスは随分と楽になったように見えた。やはり、私が生成した霧ではどこかに無理があったのだろう。
キッスはほとんど寝ていたが、時折り私やベンチュラが顔を覗かせると、目を覚まして口をきく事もあった。ごめんだとか、ありがとうだとか、そんな言葉が主で、またすぐに寝入った。
一週間も経つとキッスは背にクッションをあてがって座れるようになり、そんな時は我々も暇潰しがてら、長く話すこともあった。
ある日キッスは、意を決したように唇を噛みしめて、我々に問い掛けた。
「あの……前から聞きたかったんだけど……最近、聞こえるこの声は……誰? 空耳かな、とも思ったんだけど、なんだか、そうじゃなさそうだし……」
人間であるキッスの耳には、我々ならば明瞭に聞こえるジョシュアの叫び声も、風の音か何かのように思えていたらしい。ベンチュラが、ケッと舌を鳴らして答えた。
「あー。ジョシュアだよ。最近、グリニデ様はその人間の男がお気に入りなのさ」
不安にキッスの目が揺らいだ。
「あの、もしかして、僕の代わ……」
「お前が気にする事はない。ジョシュアはあれで、今の境遇に満足しているらしい」
私はキッスの言葉を遮って言った。キッスの耳では聞き取れないかもしれないが、私とベンチュラの耳には、ジョシュアがグリニデ様に浅ましく愛撫をねだる声が、はっきりと聞こえていた。
醜悪な。私は嫌悪する。つい目の前のキッスと比べてしまう。
グリニデ様のお情けを受けながら、キッスはそれに流される事はなかった。
グリニデ様が人間を試されたのはキッスが初めてではない。雌とだったが、過去に何人か味見された事がある。
大半が発狂し、ショック死した者もある。キッスがそうならなかったのは、もちろんグリニデ様が手加減なされたのもあるだろうが、キッス自身の資質に拠る所も大きかったらしい。
少なくとも、キッスはジョシュアのように快楽だけに囚われて、自分を見失ってはいない。どころか、我々とも奇妙な友情ともつかぬものを育んでいるのだから、これは大変な事だ。
ジョシュアとは友情は形成出来ないだろう。
私はグリニデ様が世界を支配なされた暁には、かつていた人間のサンプルとして、キッス一人くらい生かしておいてもいいと思っている。そう進言する心積もりもある。恐らくグリニデ様は却下されないだろう。グリニデ様のキッスに対する執心は、それ程のものだ。
だからこそ、今のジョシュアに対する姿勢に違和感がある。あのように馴れ馴れしい態度をとる者を、グリニデ様は好かなかったと思うのだが。
私の直感は正しかった。
更に半月ほど経って、キッスも久しぶりに会議に出席するという日に、私はそれを目の当たりにする事となった。
キッスは扉のすぐそばで固まっていた。
「どうした? 早く入りたまえ、キッス君」
「は、はあ……」
グリニデ様のお言葉に、ようやくキッスも足を踏み入れた。グリニデ様の玉座のある、いつもの部屋。
我々はその周りに立ったまま報告をしたり、計画を論議したりする。欠席続きだったキッスには初見だろうが、ここ数回、そこに新たな顔が加わっていた。ジョシュアだ。
ジョシュアはグリニデ様を受け入れたまま、まっ裸で足を大きく開いてこちらを向いて座っていた。
我々からは繋がっている局部が丸見えで、しかしジョシュアは恥らってもいなかった。
その目はうつろで、頬はこけていた。口からはよだれが垂れている。グリニデ様との荒淫が、ジョシュアの精神と肉体とを、ここまでボロボロにしてしまったのだ。
我々がいるにも関わらず、ジョシュアはグリニデ様にもたれかかつてもっと、もっとと口走っている。
見るに耐えなかった。一歩間違えれば、キッスがこうなっていたかもしれないのだ。
キッスもそれがわかっているのだろう。うつむいて、出来るだけジョシュアとグリニデ様を見ないようにしている。と。
逆に、ジョシュアの方がキッスを認めた。
ジョシュアはにいい、と唇を嫌な笑いの形に歪めると、腰をひねってグリニデ様の首に手を回した。
あたかもグリニデ様の寵はもう自分のものだ、とキッスに見せ付けているかのようだった。
「………」
キッスは言葉もないまま立ち尽くしていた。
しかし。
ジョシュアの笑みはそのまま、紫色に変色していった。グリニデ様が、片手でジョシュアの首を絞めていた。ゴキ、と音が鳴った。ジョシュアの首が折れたのだ。
ジョシュアの体はゆっくりと、前のめりに倒れていった。グリニデ様は鬱陶しそうに自分を引き抜くと、床にジョシュアを投げ捨てた。
私と、ベンチュラはかなり冷静にそれを見守っていた。正直、ついに……という思いの方が強かった。
だが、キッスはそうではなかったらしい。
キッスはしばらく呆然としていたが、やがて、有り得ない方向に捩じ曲がったジョシュアの死体のそばに、よろよろと膝をつき、
「ああああ!!」
――叫んだ。
「どうして……どうして、閣下……彼は、あなたのお気に入りではなかったのですか……こんなになってまで、あなたにお仕えしていたものを、どうして……」
「私のお気に入りは君だろう、キッス君。もう忘れたのかね?」
グリニデ様はキッスの肘を掴んで引き上げた。
今の今までジョシュアがいた所に、キッスを座らせる。
「彼などは、君が完治するまでの繋ぎに過ぎない。私も少し、過ごし過ぎてしまったようだからね……危うく君を殺してしまう所だった。ロズゴート君とベンチュラ君には感謝しているよ。ジョシュア君を連れて来てくれたのだから」
キッスがはつとしたように顔を上げた。
そういえば、キッスはジョシュアを拉致してきたのが我々だとは知らなかったのだ。キッスの身代わりに、グリニデ様のオモチャとして差し出す為に。
「あっ!」
グリニデ様が、キッスの服に手をかけた。
「傷はどうだね? 見せてみたまえ、キッス君」
「ま、待ってください閣下。ここでは……!」
キッスは明らかに我々を意識して、我々をちらちら横目で見ながら制止を乞うた。
「何故? ジョシュア君は、皆の前でも素直にねだってきたよ? 君もその辺りは見習った方がいい。素直な子は好きだよ。ただ、増長して、たしなみを忘れた子は頂けない。ジョシュア君も、初めの内は良かったのだが……ね」
キッスの服をはだけながら言う。
「だんだんと、化けの皮が剥がれてきたというか、本性を現したというか……この私に向かって、ああしろこうしろと、要求が多くなってきたのがどうもね。ねだられるのは悪くないが、要求するのは良くない。それでも、それなりに可愛く思っていたから、寛大にも目こぼししてやっていたのだが……」
ぐい、とグリニデ様はキッスの顎を掴んで仰のかせた。
キッスが息を呑むのがわかった。
「君に向かって、彼は勝ち誇ったように笑った。それが許せん。君と彼では、価値が違う。道ばたの石コロと宝石のように、同じ人間でもこれほどの違いがあるのかと感嘆するほどだ……もちろん、宝石は君だ。キッス君。君は私の大事な宝石だ」
「そ、そんな価値、僕にはありません。閣下は、僕を買い被っておいで……」
キッスは言葉を失くした。グリニデ様が、軽くではあるが、ジョシュアにしたように片手でキッスの首を絞めていた。
「私の眼鏡違いだというのかね? 買い被り過ぎだと? あくまでそう言い張るなら、このままジョシュアの後を追わせてやってもいいが……どうするね?」
グリニデ様は本気だった。額の角が隆起してきている。キッスは慌てて訂正した。
「申……し訳ありません、閣下! 失言でした、どうかお許しを……お願いです、閣下……!」
苦しい息の下で、キッスは必死に訴えた。グリニデ様もすぐに矛を収め、手を離した。
フードに隠れて見えないが、グリニデ様の逆鱗に触れて片目を失った私としては、やはり相当にキッスはグリニデ様に気に入られているようだ、と思わずにいられなかった。あれしきの謝罪で許されるとは。
ベンチュラが同じように謝罪しても、腕の一本や二本は覚悟せねばならないだろう。まあベンチュラは八本も手足を持っているから、少々失っても不都合は無いだろうが。
「いい子だ。聞き分けのいい子は好きだよ、キッス君。最初からそう言えばいいのだ。……それに私はまだ、君の勝手な行動を許した訳ではないのだよ。お仕置きの途中で、ジョシュアが来たからね」
グリニデ様は激しく我々を睨みつけた。
「さあ、キッス君。同僚思いのロズゴート君とベンチュラ君に礼を言いたまえ。どうやら君が殺されるのではないかと心配して、彼らはジョシュアを連れて来たのだろうからね」
私は身構えた。
グリニデ様は、ジョシュアを受け取りながらも内心は、我々に対しても怒りを燃やしていたのだろうか?
それが全てジョシュアに向けられていたから我々は無事だったのか?
だが、ジョシュアは死んだ。グリニデ様を止めるものはもう、無い。
ぴりっと空気に緊張が走った。
ベンチュラなど、あからさまに逃げ腰になっている。緊張を破ったのはキッスだった。
「ぼ、ぼ、僕、が……」
キッスは恐怖に歯の根を震わせながら、グリニデ様に訴えた。
「僕、が、彼を連れて来てくれと頼んだんです、閣下。僕が、このままでは体が保たない、誰か、誰でもいいから、代わってくれないかと思って……」
明らかに嘘とわかる言葉を紡ぐキッスを、グリニデ様は面白そうに眺め、
「君は、連れ戻されてからこちら、ずっと私と一緒にいたと思うのだが、いつ、そんなことを頼む時間があったのだね?」
「本当です! 本当に、僕が……!! どうか信じてください閣下。どうか……!」
泣きながら懇願するキッスの頬を、グリニデ様はその大きな両手のひらで包みこみ、
「もう一度、私の仕置きを受けるかね?」
キッスは一瞬息を詰まらせ、目を閉じて、観念したように答えた。
「……はい……!」
その答えに満足したのはグリニデ様だけではなかった。
満足というか、安堵した。キッスの返答次第でグリニデ様は、『深緑の知将』から『血塗られた獣』に戻ってしまっただろうからだ。私とベンチュラは密かに胸を撫で下ろした。
「良かろう。では、部屋に戻って私を待ちなさい。君も久しぶりだろう。楽しみにしていたまえ」
グリニデ様はそう言ってキッスを退がらせた。
私はキッスの後ろ姿が扉の向こうに消えるまで目で追った。今度こそ壊れるかもしれないな、と思いながら。
「何、心配はいらない、ロズゴート君。私にも慈悲の心くらいある。反省しているキッス君に、手荒な真似などしないよ」
私の心を見透かしたかのように、グリニデ様は言われた。
「それに、彼は君が思っているよりずっとしたたかだ。彼自身も気付いてはいないだろうが。目の前で人が一人殺されたというのに、あの程度にしか動じていない。いくら暗黒の世紀で、人死にには慣れているとはいえ、随分なものではないかね? 彼はジョシュアが自分の身代わりだとも知っていたのだろう? 知っていて、そのままにしていた。放置していたのだ。ジョシュアが精神に異常を来たしている事も恐らくわかっていただろう。なんと、人間にしておくには惜しい子供ではないか」
グリニデ様は呵々、と笑い、
「それに彼の手口に惑わされてはいかんよ、ロズゴート君。見た目に彼は如何にも幼く、弱々しく見える。あの容姿では確かに食いものにされる事も多かっただろうが、それと同じくらい、親切にされた事もあった筈だ。丁度、今回の君とベンチュラ君のように」
突然名を呼ばれてベンチュラは姿勢を正した。
グリニデ様は、私とベンチュラを代わる代わる見やりながら、
「彼の為に医者とコックをさらってきたそうだな? ロズゴート君は治療を施したというし、ほら、もうそこで彼の術中に陥っている。彼はフラウスキー君の好きな犬猫と同じだ。そうして保護欲を掻き立てさせる事で、彼は自分の身を守っているのだ」
「………」
無言でお言葉を拝聴する私にグリニデ様は、
「私は彼に首輪ならぬ腕輪を嵌め、エサと寝床を与え、才能を評価し、やりがいのある任務まで与えた。稚児の才能まであったのは、彼にとって不運だったかもしれぬがな」
愉快そうにグリニデ様は言われた。
私は考えこんだ。しかし、誰しも他人より自分の身が一番可愛いのではないだろうか。キッスが見て見ぬふりをしても、無理はないと私は思う。
「ふ、納得のいかない顔をしているな、ロズゴート君。まあ良い。部下同士が仲良くしているのを見るのは微笑ましいものだ。これからも、彼とはうまくやっていきたまえ。君も彼も、私の野望には必要な人材だからな」
グリニデ様はそこで会議を解散され、我々より先に退出された。キッスの部屋へ行くのだろう。
グリニデ様の姿が見えなくなると、さりげなく数に入れられていなかったベンチュラが、沢山ある手の内の一本で頭を掻きながらごちた。
「なんつーか……結局、俺達がやった事は何の意味もなかった、つーコトなんかなあ……」
珍しく意気消沈している。
「いや……そうでもない」
私は床の上に転がっている物体を見ながら言った。
ジョシュアの骸は青黒く変色して冷えていこうとしていた。どこからか部屋に入りこんできたグルメアントが、何匹かで周りを囲む。恐らく、巣に持ち帰って保存食料にするのだろう。
キッスがそうならなかっただけでも、我々のした事は無駄ではなかったのではないか。
「一時の激情に負けてキッスを殺してしまっては、グリニデ様も後々後悔されるだろう。稚児の代わりは幾らでもいるが、キッスの頭脳は他に替えが無いからな。だからこそ、グリニデ様も我々を咎めなかったのだろうし」
そっかー、んじゃまた適当に見繕ってくるか、とベンチュラは簡単に浮上した。
グルメアントが、ジョシュアの死体を運び去ろうとしている。
「俺達も行こうぜ、ロズゴート」
「ああ」
私はベンチュラと共に部屋を出た。
そして私は、ジョシュアに関する一切の記憶を脳裏から消した。
< 終 >
>>>2010/5/13up