薫紫亭別館


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KOKO

 ――ぱちん。
 深夜に、ハサミの音が響いた。
 園芸用の剪定バサミの音だ。キッスはフラウスキーから貰ったバッドボムフラワーのつぼみを、ひとつ、ふたつと切り落とし、机の上に置いた。
 バッドボムフラワーの花のつき方は面白い。ちょっと目を離した隙に、さっきまで何もなかった所にぽん、とつぼみがついていたりする。花つきも中々いい。貰って数日しか経っていないのに、もうある程度の大きさのネット一杯になった。
 キッスは新しいネットにそれを入れて、窓の所に持っていって押しピンで吊るした。陰干し中だ。爆弾として使うなら、乾燥はしっかりと! らしい。確かに、火薬代わりの中の花粉が湿気ってちゃ、いざという時に役立たないよな、とキッスは思いながら、はて、自分はこれを使う事なんかあるのかなあと考えた。
 武器にもなるものを自分に寄越したフラウスキーの豪胆さに感心する。逆襲に使われるとは思わなかったのだろうか。いや、と思い返す。自分はそんな事はしない。
 一個だけ実験してみたが、バッドボムフラワーの威力はそう強いものではないらしい。乾燥が甘かったのかもしれないが、花火や爆竹のちょっと派手なもの、という印象だった。人間への目くらまし位には使えるかもしれないが、魔人にはほとんどダメージを与えられないだろう。
 分解して火薬を集めて再構成すれば強力になるだろうが、そこまで労力を割く気にはなれない。見張り役の魔物達が黙ってはいないだろうし、フラウスキーもその辺りは配慮している、という事か。
「………」
 フラウスキー。今、自分が眠れないのは彼のせいだ、とキッスはフラウスキーを恨んだ。
 ノックもなく無断でこの研究室に入ってきて、言いたい放題言って、帰っていった。キッスを傷つけるつもりなら大成功だ。やられっぱなしでいた訳ではない。その証がこのバッドボムフラワーだが、それ以上に引っ掻きまわされた、という感が強い。フラウスキーがあんな事さえ言わなければ、自分はまだ、知らぬ振りして治療を受けていられたのに。
 再生虫。
 キッスの体内で繁殖している寄生虫。
 寄生する代わりに宿主が怪我をした時などは、その部分を修復してくれる便利でありがたい虫だ。
 だが、その体内の虫だけでは再生出来ない怪我をした時の為に、ロズゴートは再生虫の畑として、他の人間を飼っていた。キッスの主治医を兼ねたロズゴートにとって、キッスだけが保護すべき人間なのだ。基本、魔人は人間を苦しませる為に存在する。だからキッスがロズゴートに言って、畑を視察させて貰った時、畑にされた人間の環境は劣悪なものだった。
 一応、柵で男女は別に飼育されているものの、肌は垢まみれで、糞尿は隅に垂れ流しだった。飼料も最小限で、世話をする魔物のやる気のなさが感じられる。それもその筈、この環境でも、彼等は体内の再生虫のせいで死ぬ事はない。博士達は、あれでかなり高待遇に置かれていたらしい。
 キッスは眉を顰めた。悪臭のせいだ。彼等を見ても驚くほど心を動かされなかった自分にびっくりした。
 ほとんどはうつろな顔をして、床にべたっと座りこんでいた。が、一人だけ、キッスを見ると歯を剥いて突っかかってきた者がいた。ロズゴートいわく、一番最近に連れて来られた者らしい。
 なるほど、だからまだ自我を保っているのか、とキッスは冷静に分析しながら、早く自分というものを失くさせてやる為に、ロズゴートに自分で調合したモスリープの粉を渡した。自分がくれてやったモスリープの麟分で、人間に無害な薬をつくりあげたキッスにロズゴートは感心するやら呆れるやらしていた。
 ロズゴートは飲み水に、薬を混入させてくれる事を約束してくれた。
 キッスは固く礼を言って何度も頭を下げ、その場を後にした。
 それが数日前の事だ。それからキッスは眠れなくなった。うなされて眠れない訳ではない、あの光景を見ても、自分の心は痛まない。何だか全てが遠く思える。脳と心と体がバラバラに存在しているような。
 つぼみを全部切ってしまったので、キッスはやる事がなくなってしまった。
 仕方なく、手持無沙汰に、溜まっている翻訳に着手する。フラウスキーが来た時にも少し訳したが、あれだけでは氷山の一角を崩した事にもならない。キッスの意識は脳に訳せ、と命令し、体は脳に従順に機械的に動いた。手が写しにさらさらとペンを走らせるのを見ながら、自分は一体どうなってしまったんだろう、とキッスはおののいた。
 昔から、同時に複数の事をやるのは得意だった。その結果に、自分は満足していた。
 今は何も感じない。やれと言われたからやるだけだ。命令が、自分の意識から魔人にシフトしたのだろう。
 だから結果を喜ぶのも魔人で、自分ではない。キッスはそんな事を考えながら、自分の意識がどんどん小さく、いつか擦り切れてなくなってしまうのだろうと思った。意識を失くした脳と体は、それでも魔人の命令に従って、言われた結果を出すだろうか。
 紙を押さえる左手に、鈍く銀色に光るものが目に入った。毒の腕輪だ。グリニデの部下の証。
 以前はとても重く思えたこの腕輪も、今はすっかり馴染んで自分の皮膚の一部になったような気がする。いや、そういう身体的な問題だけではなく、以前感じた人間……同胞への、裏切り、背徳感、売国行為などから来る後ろめたさもすっかり消えた。それはもう綺麗さっぱりと。
 防衛本能、という奴だろうか? 
 ここで生きる為に、そんな事に神経をすり減らしていてはやっていけない、と?
 でもそれを失くしてしまったら、自分はもう、人間とは言えないのではないだろうか。キッスはため息をついた。自分の事なのに、何だかとても自分が遠い。これもそれも、全てフラウスキーのせいだ。色んな事に何とか折り合いをつけながらどうにかこうにかやってきたのに、ひと言でバランスを崩して去って行った。
 八つ当たり気味にキッスはペンをインク壺につけた。インクが飛び散る。
 いや、むしろ……。キッスは思う。フラウスキーは、もちろんキッスを傷つける為に言ったのだろうが、間違ってはいない。キッスの怒りは、やはり捕まった人間達に向けられた。これ以上、足を引っ張らないで欲しい。自分は自分の面倒しか見られない。キッスに突っかかってきた畑の人間の顔が浮かんだ。僕にどうしろというんだ。自分の代わりにロズゴートに命乞いをして、身代わりに僕を残して解放しろと?
 ――そんな事はもうやってる!
 博士達と、グリニデの相手を務めた人間達と。自分の力の及ぶ事なら、何だってしてやろう。だが、キッスは一人しかいないのだ。その唯一人のキッスを守る為に、ロズゴートは畑をつくった。それはもう、キッスの手が届く範囲外だ。キッスが言って、その場の全員解放された所で、さらりとキッスが知らぬ間に次の畑がつくられるだろう。堂々巡りだ。そんないたちごっこに参加する気は、キッスにはなかった。
 だから、知らぬ振りをしていたのに……! 腕輪より、キッスの為に殺された者達の呪詛で身動きが取れない。底なし沼に足を踏み入れた気分だ。ずるずると、どこまでも引き込まれていくような。
 無意識に、キッスはペンの軸を噛んだ。
 しばらくがじがじと噛み続けた。それが止まったのは、背後からコンコン、とノックの音が聞こえてきたからだ。こんな時間に、とキッスは振り返った。キッスは緊張した。
「閣下……!」
「最近、随分と根を詰めているようだと聞いたのでね……少し寄ってみたのだ」
 心から心配しているような声音だった。キッスは立ち上がって、近付いてくるグリニデを迎えた。
 グリニデの手が、キッスの耳の後ろ辺りから頬を伝って、顎にかかった。
 グリニデはキッスの顔を上げさせて、言った。
「顔色が悪い。今夜はもう研究を切り上げて、自室で休みたまえ。私の事はいいから」
 キッスは耳を疑った。
 グリニデが自室や研究室を訪れる時は、ほぼ100パーセント、伽をさせる為だった。呼びつける間も惜しいというか、身動きが出来ない状態か、何パターンかあるが、行為前にキッスの体を気遣ってくれた事など皆無だった。素直に快楽を享受するようになってから妙に優しくなったが、それも、愛着のある道具を大事にするようなものだと思っていた。
 グリニデの指が離れていった。用は済んだ、とばかりにグリニデは背を向けた。
 咄嗟に、キッスはグリニデのマントを掴んだ。自分でも一瞬、何をしたかわからなかった。
「あ、あの、閣下……!」
 自分は何を言おうとしているのか。
 脳と意識が答えを出す前に、体の方が、口が、口から、つるっとその言葉が滑り落ちた。
「抱いてください……僕を」
 振り向いたグリニデとキッスとの間に、何とも形容の仕様がない沈黙が横たわった。魔人の目が値踏みするようにキッスを見つめた。キッスは目を逸らさなかった。

>>>2010/11/8up


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