薫紫亭別館


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クロニック・ラヴ

「もう行くのかね?」
 私はするりとベッドから抜け出し、服を身につけるキッス君に向けて問うた。
「すみません。お起こししてしまいましたか、閣下」
「いや……」
 閣下、とは私の事だ。私は魔人グリニデ。彼だけが私の事を閣下と呼称する。
 位の高い人間に対する尊称らしい。最初にそう説明された時、悪い気がしなかったので咎めなかったら、それがそのまま今の今まで続いている。まあ、呼び方なぞはどうでもいい。
「もう少し休んでいけばどうだね? まだ、体が言うことを効かないだろう?」
「朝参に遅れてはなりませんので……」
 それはその通りだ。初めて彼を暴いた時、私が、そう言って彼をベッドから追い出したのだ。
 キッス君は頭を下げて、音もなくドアから出て行った。
「今更だな……」
 私は自嘲した。ここまで離しがたくなるなど、あの頃には想像も付かなかった。
 いつのまにか私は、彼を拾った時の思い出に囚われていた。


 ……あれは何処の遺跡だったか。
 あの頃の私は、人間の博士どもに任せきりにはせず、自ら遺跡に出向く事も多かった。
 妙に魔物が多いな、と思った。黒の地平の魔物はあまねく私の部下だが、この辺りの魔物達は私に敬意を払わず、どうも心ここにあらず、といった風な様子をしていた。何匹もの蟻達がせっせと、他の虫の死骸など、エサを運んでいた。近くに巣があるのか、と私は何となくついて歩いていった。
 そこに彼はいた。薄汚れて、ボロボロになった服を着て。
 古い石柱にもたれたまま気を失ったのか、斜めに体を傾げて、その膝や手首に虫がたかっても、目を覚ます気配もない。蟻達は彼の前に供えるように、運んできたエサを集めていた。ハリガネムシが彼の荷物を漁り、ずるずると引き出していた。
「人間の、子供……?」
 何だこれは。何故、魔物達が集まっている!?
 ハリガネムシが、中身を私の足もとに引き摺ってきた。紙だ。私は何気なくそれを拾い、それが古文書だと知った。私の知らない文字だ。トロワナ内の古代文字なら、読めないまでも私には見覚えがある筈なので彼は何処か、他の土地から来たのだろう。
 私は更に数枚拾い、目を通した。よくわからないが、随分専門的な内容のようだ。
 少年が身じろぎした。
 茫洋とした彼に私は幾つか質問をし、彼はやはり茫としたまま答えた。
「名前は?」
「……キッス……」
 私はキッスと名乗った少年を連れて帰った。
 どう見ても正気ではなさそうだったが、名前を覚えているならいずれ他の記憶も思い出して、私の知らない古文書の内容を話してくれるかもしれない。彼が読めたら、の話だが。
 それに、妙に魔物に懐かれている事も気にかかる。
 雑用という名目で人間の博士どもに預けて様子を見ていたが、この城でもやはり、彼はあっというまに魔物に懐かれ、じゃれつかれていた。彼は何か、魔物を安心させる成分でも発しているのだろうか。
 いや、本当にそうだったのかもしれない。
 何故ならこの私でさえ、いつのまにか彼に囚われてしまったからだ。
 私は彼が自習し、知識を蓄え、吸収し、自分のものにしていく様を注意深く見守っていた。私はダンゴールに命じて、彼にセネシオの研究していた石板の写しを持っていかせた。これが解けたなら、雑用から博士どもの助手に格上げしてやっても良いと言って。
 結果は想像以上だった。その日が終わらない内に、彼はダンゴールのもとに解を持ってやってきた。
 余りの早さに、ダンゴールが渋面になっても無理はなかろう。
「あの子供をグリニデ様がお連れになった時は、何を酔狂な、と思いましたが……」
 ロズゴート君が言う。
「さすがはグリニデ様。あの子供の天才を見抜いていらっしゃったのですな」
 遺跡から帰城したセネシオを呼び、解を見せて是非を問うた。セネシオは顔色を蒼白にして、合っています……と力なく答えた。自分の運命を悟ったのだろう。
 私はロズゴート君に助手もろともセネシオの始末を頼み、褒美として彼に個室を与えた。
 その夜、ほぼ明け方だったが、フィカスとその助手達が逃亡しようとしたのを捕らえ、私は何も知らない彼がどう行動するか静観した。彼はベンチュラ君と共にクラッスラ遺跡に赴き、やはりその日の内に隠し部屋を見つけ、壁画をペンバリーに写させ、財宝まで蟻に運ばせて持ち帰ってきた。
 もはや、どこから見ても普通の人間、普通の子供とは言えなかった。
 私は彼の帰城を待ちかねた。
 どうしてこういう時に限って徒歩で城に戻ってくるのだ、大怪蝶を使えば早いものを。
 ダンゴールに先導されて彼は私の部屋に入ってきた。彼の足がすくんだのがわかった。初対面の時は大人しく手を引かれて歩いてきたのが、少しは正気を取り戻したらしい。
「は――初めまして、閣下……!」
 これが、閣下と呼ばれた最初だ。その響きは私を良い気分にさせた。
 馴れ馴れし過ぎず、ほどほどに距離を保った敬称。彼は頭がいい。そこまで計算していたかはともかく、咄嗟に人間がかける魔人の呼び名としては最高だろう。
 グリニデ様、ではどこか親密過ぎ、身内臭がする。私の名前くらいは知っていたろうが、自分を見失ってほぼ初対面、と思っていた彼としては、閣下、が一番しっくり来たのだろう。自分の立場をわきまえた呼称に、私は好感を持った。
 私は彼に此度の発見に対する報告と説明をさせた。
 最初は緊張して、つっかえつっかえ喋っていたが、段々と硬さが取れ、滑らかに話すようになった。その理路整然とした論理の組み立てと思考に私は聞き惚れ、もっと聞いていたいと思った。その心のままに、私は彼にこの城でずっと研究を続けてくれるよう要請した。
「あ……それなら、僕の部屋をフィカス博士と交換して頂いてもいいですか?」
 彼の答えは意外なものだった。
 彼はどうやら、あくまでフィカスの助手として働くつもりのようだった。
 確かに、助手に格上げしてやってもいいとは言ったが、今では彼は、その博士どもを追い抜いてしまっている。二人の博士の内、セネシオは既に処分、フィカスも時間待ちの状態だ。少し迷ったが、私は彼に事実を突き付ける事にした。つまり、捕縛したフィカス等の現状を見せたのだ。
「――フィカス博士!」
 虫にたかられたフィカス等を見て、彼は絶叫して駆け寄ろうとした。
 ベンチュラ君が彼を止め、ロズゴート君が私の先を引き取って説明を続けた。
 自分の為した事がわかって、彼は混乱していたようだったが、
「フィカス博士達は……まだ生きているんですね?」
 おや、と私は思った。
 急に雰囲気が変わったように見えたからだ。
 それは正しかった。彼はベンチュラ君に雷の天撃をぶつけて拘束を解き、ほぼ同時に走りながら雷の天撃を博士達に群がっている虫達に向けて放った。なんと、バスターだったとは。お手本みたいな天撃に、私はつい見惚れてしまった。騙そうとしたのではないだろう。
 何があって自失していたのか知らないが、雲が割れて太陽が顔を出すように、今、ようやく、彼は本来の自分を取り戻したのだ。
「どけ!」
 虫達に向けて命令する。虫達がフィカス等から離れた。――ほう?
 ロズゴート君の氷の瞑撃を、彼は炎の天撃で相殺した。基本とはいえ、中々こうスムーズには行くものではない。彼の視線はロズゴート君ではなく、私に向けられていた。私がここの最高権力者である事を、見てとっての行動だろう。
 彼は取引を持ちかけてきた。自分の推量は博士どもの先鞭があってのものだから、と。
 私は一蹴した。魔人は人間の敵として存在する。価値のない人間を生かしておく理由はない。
 次に彼は、それなら自分も殺してくれ、と言った。自分も人間で、貴方達の敵だから、と。
「人間?」
 私は鼻で笑った。
「君は本当に人間なのか? その魔物や虫との相性、親和性……虫にどけと命令して、言う事を聞かせられる人間なぞ、私は初めて見たぞ」
 彼ははっとして振り返って、命令通りにフィカス等を遠巻きにしている虫達を見つめた。言われて初めて気付いたのだろう、フィカス等も、愕然として彼と虫達とを交互に見比べている。
 ロズゴート君が、ざっとこれまでの観察の経過を告げた。
 彼はへなへなと崩折れて、また、自失してしまいそうに見えた。せっかくここまで回復したのに、そうなられては元の木阿弥だ。あの頭脳は惜しい。
「いや、そうだな……君次第で、フィカス等の命を助けてやっても良い」
 私は交換条件を持ちかけた。絶望の果ての、飴と鞭だ。
 私はダンゴールに持って来させた腕輪をこれ見よがしに持ち上げた。
 彼は受け入れるだろう。他にフィカス等を助ける手段も、自分が助かる算段もないのだから。
「……先に、博士達を解放してください」
 掠れた声に、私は答え、ベンチュラ君に言ってフィカス等を解放させた。
 例え人間との約束でも、私は守る。安心させておいて背後から撃つような卑怯な真似は、私のもっとも嫌う行為だ。グリニデ城を出た所で、庇護を失った人間どもがどれくらい生きられるかは知らないが。
 部屋に静寂が戻った所で私は彼に近付き、左の手を取った。
 細い手首。後でつくり直さなければ、するりと抜け落ちてしまいそうな。
 ガチン! と音を立てて、見るからに重たげな腕輪を私は彼に嵌めた。彼はその重さに耐え切れないように膝をつき、ただ左手だけが、彼の意思に反して私に手を取られ、伸ばされていた。その様子は余りにか弱く、儚げで、殺されて食べられるのを諦めながら待つだけの、小動物のように見えた。
「おめでとう。これで君もグリニデ城の一員だ。……ああ、そうそう、言い忘れていたが、この腕輪は瞑力で作動しているから、君が一度でも天撃を放ったら、そこで毒の針が刺さる仕掛けになっているから、そのつもりで」
「え……っ!?」
 私は彼に掌底を当て、気絶させた。
 彼の重みが、まだ繋がっている左手から私に伝わってくる。
 私はダンゴールに言った。
「ダンゴール。彼に湯を使わせて、後ほど私の部屋に連れてきたまえ。本当に人間か改めたい」

>>>2010/12/24up


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