薫紫亭別館


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「ビィト!」
 宿屋に戻るなり、ビィトはポアラに張り飛ばされていた。床に尻餅をついたビィトを見下ろして、腰に手を当てて大上段にポアラは怒鳴った。
「全く、団体行動乱すんじゃないわよ! あんたが滅多な事でやられる訳ないのは知ってるけど、行き先も告げずに出ていったら心配するでしょうが! もうあんた一人で旅をしてるんじゃないんだからね。私とキッスも一緒なんだからね。わかった!?」
 ポアラのお小言はいつも正論で、聞いていて気持ちがいい。
 ビィトは黙りこんだまま、ポアラの足に抱きついた。
「きゃっ! 何すンのよ。変態!」
 今度は蹴り飛ばされた。容赦ない攻撃が実にポアラらしい。こうでなくては、とビィトは思う。
 自分の嫁さんになる女は。
「蹴られて何へらへらしてんのよ、気色悪いわね」
「ポ、ポアラ……その位で……」
 おずおず、とキッスが仲裁に入る。が、ポアラのひと睨みで退散した。よ、弱い。
 ポアラが強すぎるのかもしれない。
「あんたもよ、キッス! あんたの過去は問わないけど、過去に囚われて、今、うじうじ悩むのはやめてちょうだい! こっちまで気が滅入ってくるでしょーがっ!」
 攻撃対象がキッスに移った。キッスもちいさく縮こまって、大人しくお説教されている。
「私達にすっかり白状して楽になるか、自力で立ち直るか選ぶのね。なんだかもう、ビィトには事情を話したっぽいのが癪だけど……まあいいわ。許してあげる。男同士の方が話しやすい事もあるだろうしね」
 唇を尖らせて、納得してない表情ながらもポアラはそれ以上問い質そうとはしなかった。
 なんていい女なのだろう、自分の未来の嫁は。
 ポアラが横を向いた隙につい、とキッスはビィトに近付いて、小声で話しかけてきた。
「ポアラに怒られちゃったね、僕達」
「ンだな」
 顔を寄せてふふ、とキッスは笑った。この笑顔を向けられたなら、誤解する男が頻出してもおかしくない。
 ビィトですら、心臓の鼓動が撥ねた位だ。
 ポアラは男どものナイショ話には我関せず、とばかりにさっさと荷物を詰め直している。
 ビィトとキッスがいない間に、宿で携帯食料を分けて貰ったらしい。つくづくよく気のつく女だ。
 その手際をほれぼれと眺めながらビィトは思った。
 ……ポアラがいなかったらきっと、ビィトもキッスの蟲惑に囚われていたかもしれない。
 キッスは容姿もさることながら、いつのまにか心に寄り添っているというか、そこにいるのが当然のような、そんな印象があり、いないと妙に腹立たしい気分になるのだ。痒い所に手が届かない、というような。
 その上キッスは、一度気を許した人間には従順で、大人しい。大抵の事は言い返さずに聞いてしまう。
 そんな所がまた、そばにいる人間にはキッスがまるで、自分の一部のように思ってしまう一因なのだ。
 キッスにもキッスの意思がある、という事をつい忘れてしまう。
 自分の物ならどう好きに扱ってもいいし、反抗などともっての他。
 反抗してもいいと、教えたのはイーガンだった。
 その為に、イーガンは一夜でキッスに逃げられてしまった訳だが。
「ほら、あんた達も早く支度して! 準備が出来たら出発するんでしょ!?」
 ポアラがぱんぱんと手を叩いて急き立てた。慌ててビィトとキッスも荷造りにかかる。
 命令されている割にキッスはどこか楽しそうだ。
 ポアラは無茶な事は言わないし、何より、女の子だ。キッスにとっては、体を要求されない、という事が大きなポイントらしいのだ。
「もー。ビィトとポアラの夫婦喧嘩に僕まで巻き込まないでよ」
 キッスがぼやいた。いや、半分以上キッスのせいだろ、とビィトも軽口を返した。今、キッスはビィトを父に、ポアラを母に持つ、子供のような心持ちでいるらしい。
 疑似家族だ。しかも子供という、安全で絶対的なポジション。子供なら、性的対象に見られる事もない。
「ほらそこ! 黙って作業する!」
 ポアラの叱咤が飛ぶ。
 はーい、と素直に答えたものの、キッスの私物などほとんど無い。グリニデ城から着のみ着のまま出て来たのだ。すぐに用意し終えてしまって、ビィトの手元を覗きこむ。
 まだ乾いていないキッスの髪から雨の匂いがする。
 そんなに自然に息がかかるほど近くに来るから誤解されるんだ、とビィトはアドバイスしてやりたかったが、普通男同士で誤解もへったくれも無いだろう。
「出来たよー、ポアラ」
 ビィトが支度を終えたのを見てキッスが言った。
 どう聞いても、母親に報告している子供の口調だよなあ、と苦笑いをビィトは浮かべる。
 仕方ない。
 今の状況を作り出したのはビィトなのだから。
 そしてビィトは、キッスを叱って甘えさせて、守ってやれる、今の状況を壊すつもりは無かったのだ。
「もうお嫁さんが決まってるの? いいなあ」
 二年前、ビィトと組んだばかりの頃、キッスはよくこう言っていた。
「だって、一生ずっと連れ添って暮らすんでしょ? 絶対いいよ。羨ましいな。僕も、早くそんな人と出会いたいよ」
 大勢に暴行された経験を持つキッスには、ただ一人の決まった相手がいるという事が、憧れだったらしいのだ。
 どこかにいる幻の恋人。運命の相手。キッスが凄絶な過去を持つわりに人懐っこいのは、そんな所から来ているのだろう。……ちと、危機感が足りな過ぎるとは思うが。
「……どうしたの、ビィト?」
 ぼんやりしていたビィトをキッスが促す。
「ポアラが呼んでるよ。行こう、ビィト」
「あ、ああ」
 ドアの前で仁王立ちして、ポアラが苛立たしげに待っていた。ビィトは荷物をひっ掴んで部屋を出た。
「あー嘘みたいな天気……」
 青空を見上げて、うーん、と両手を上げて大きく伸びをしてからキッスは降り返った。
「今日こそ、ブラシ買っていこう? 昨日の小間物屋さん開いてるかな。ポアラ、遅れちゃったお詫びにオマケするよ。確かあの小間物屋さん、ヘアピンとかそんな物も置いてあったよ」
「いいわよブラシだけで。お金は大事に使わないとね。節約節約!」
 ひっ迫財政を預かるポアラがぴしゃりと言った。
 遠慮しないで、誰のせいで苦労してると思ってんのよ! などと言い合っているキッスとポアラの後をのんびりついてある気ながら、ビィトは妙に満たされていた。
 未来の嫁と、親友。兼保護者。これが、ビィトの選んだ三人の在り方なのだ。キッスの、何気ない仕草や色香に迷いそうになったのは、イーガンだけではない。ビィトも同じだ。
 だがビィトはキッスの望みを知っていた。自分の体を欲しがらない恋人。なんて都合のいい。昔のざれ歌を思い出す。縫い目のない服の歌。
 僕に服を作ってくれないかい、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム、つなぎ目も針を使った跡もないようなものを。そうすれば、君はきっと僕の真の恋人……。
 出来た服を枯れた井戸で洗えだの、咲いた事のないイバラの花の上で干せだの、無茶苦茶な歌詞だったが、それが出来れば真の恋人になれるのだそうだ。
「あ! お店出てるよ!」
 キッスは通りを走っていった。今度はイーガンは現れなかった。
 馬鹿だな、イーガン。もう少しだったのに。
 ビィトはイーガンの為に残念に思う。
 キッスが求めているのが真の恋人という名の保護者でも、子供はいつまでも子供ではない。
 イーガンは順番を間違えたのだ。
 キッスがせめて今程度に、肉体的にも精神的にも成長して、その時好きだと言ってやれば、キッスは簡単にイーガンの手の中に落ちて来ただろう。
 そう言えば、イーガンはキッスにきちんと好きだと告白したのだろうか。何も言わずに出て行こうとしたのを見て衝動的に抱いたのなら、イーガンもやはり、今までの男達と同類と思われても無理はない。
 ビィトは大きく息を吐いた。
 見咎めて、ポアラがどうしたの? と聞いた。
 ビィトは務めて明るく答えた。
「いや、何でもない」
 不器用だったイーガン。もう少しであんたは、キッスの真の恋人になれたのに。
 ともあれ、キッスは今はビィトと共にいるのだし、その限りビィトはキッスに優しくしてやりたかった。
 彼の恋人にはなれないが。
「へんなビィト」
 ビィトにはポアラがいる。その事をキッスも知っている。ビィトがキッスに好きだと告げても、キッスはビィトのものにはならないだろう。真の恋人とは、二股をかけるものではないからだ。
 それでも、もし……と思ってしまう。
 もし、ポアラより先にキッスと出会っていたら。
「じゃ、この黄色いブラシと、こっちのヘアピンを……」
 キッスはどのブラシを買うか決めたようだ。追い付いて、隣に屈みこみながらビィトは言った。
「いいんじゃないか? ポアラもこれでいいよな?」
「そうね。ブラシだけでも良かったけど、くれるって言うなら貰ってあげる」
 文句を言いつつポアラも気に入ったらしい。目がピンに吸い寄せられている。キッスは懐から硬貨を取り出して商品を買うと、そのままポアラに手渡した。
「はい」
 ビィトはキッスの横顔を眩しく見た。
 キッスを見ていると決まって胸に湧き上がってきた、もやもやとした思い。そのもやもやが形を取る前に、ビィトは自分で打ち消してしまったのだが。
 この、胸のもやもやに名前を付けよう。
 多分このまま、一生おもてに出せないが、きっと、これが恋――、とかいう感情だったのだろう。

<  終  >

>>>2010/6/23up


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