「犯し……たのか……!」
ビィトも愕然として言った。
「何で!? 何でだよ!? キッスはあんたを信用してたんだぞ!? あんただって、そこまで我慢したのなら、黙ってキッスを行かせてやれば良かったじゃないか! キッスはあんたの事、いい人だって言ってたのに……我慢出来なかった自分が悪いんだ、とも言ってたのに」
イーガンは激痛をこらえるように頭をかかえた。
「わかってる……! でも、いざキッスが出て行こうとしているのを見ると……!! 欲望が爆発するのを止められなかった。自分がこんなに穢れた人間だとは思いもしなかった」
キッスの髪、キッスの肌、赤い唇。なんという誘惑だろう。イーガンは暗い欲望に支配された。あの唇に自分を捩じり込ませたら、天国だって行けるかもしれない。
「朝には、キッスの姿は消えていた……宿屋のおかみが、連れの少年なら朝方早く、憔悴した顔をして出て行ったと教えてくれた……きっとおかみには、俺が何をしたかわかったんだろう。どっちの方角へ行ったかも教えてくれなかった。俺はキッスに会いたかった。謝るために」
雨足はより激しさを増して、二人を打ちつけていた。ビィトはようよう口をひらいた。
「それで……あんたは俺に何が言いたいんだ。キッスに謝りたいのはわかった。それで? 俺にえんえんと昔話をして、どうしようって言うんだ。共感して貰えるとでも?」
イーガンの目が元の輝きを取り戻した。
「君に、俺と同じ轍を踏まないで貰うために」
ビィトは僅かに身構えながらおうむ返しに問い返した。
「同じ……轍?」
「そう。俺はキッスを肉体的にも精神的にも傷つけた。何とののしられても反論出来ない。だから、君が今のキッスの仲間なら、どうか同じ過ちを犯さないで欲しいと思う」
「………」
正直、ビィトは鼻白んだ。
一緒にして欲しくない、と思う。自分がそうだったからといって、また、その前の奴等も同じだったからといって、ビィトもそうなるとは限らない。
「何を心配してるのかよくわからねえよ。俺がキッスを襲うとでも思ってるのか? あの、うなされて夜、苦しむキッスに。あんたも一緒に行動してたなら知ってるだろ。そのキッスに、よくもそんな真似が出来たな」
「本当に?」
イーガンは疑わしそうに声を荒げた。
「本当に、絶対にそうならないと言い切れるか!? 君はキッスのそばにいて、一度もその気に……いや、言い方が悪いな……あの、無条件に自分を頼って信じきってついて来るキッスを、可愛く思った事はないか? 別にやばい意味じゃない、誰だって好かれて、悪い気はしないだろうしな。ただ、キッスは……」
――既に経験があったのだ。
「それも恐らく、豊富に。子供みたいな顔をして、実際に子供で、だがキッスは……無理矢理だろうが経験済みで、そこには快感もあったろう。試してみたい、と思うまでに時間はかからなかった。キッスはとても整った容姿をしていたし、バスターの間なら、珍しい話じゃない。デセプタ戦士団をぶちのめした俺が言うのも本末転倒だが」
ビィトは鼻にしわを寄せたまま聞いている。
「守ってやりたい、大事にしてやりたいと思う反面、その信頼を踏みにじって、めちゃくちゃにしてやりたいとも思った。特にキッスが自信なげに、自分の実力を過小評価しているのを見、あれほどの才能を持ちながら……と思うと、つい苛ついて、きつく当たった事もある。それでもキッスは反論せずに、曖昧に笑っただけだった。そんな所が、また俺の凶暴な部分を煽った」
ビィトははっとして唇を噛みしめた。
思い当たる事があったからだ。ビィトも、どうしてこんなにおどおどしているんだろう、と思っていたからだ。卑下というより卑屈に近い、キッスの態度はそれほどの才能を兼ね備えていない者にとっては、嫌味にも謙遜にも映る。
ああ。だから彼等は、腹いせにキッスの体を征服する事で、心の平安を得ていたのだ。ビィトはずっと不思議だった。他にも年若い、美形のバスターはいた筈なのに、キッスだけが狙ったように、そういう対象として選ばれるのが。
イーガンも微妙にビィトの態度が変わった事に気付いた。
「君は大丈夫なのか? 決してそんな目でキッスを見ないと誓えるか!? 一度抱いてしまえばそこでおしまいだ。キッスは君から離れていくだろう。どうだ!?」
ビィトが答えるより先に、渦中の人物の声がした。
「……イーガン!?」
キッスがビィトを探しに来たのだ。
「……ずっと、謝りたいと思っていた」
そう言ってイーガンは頭を下げた。
キッスは決して顔を正面から合わせようとはしないながらも、それを聞いていた。ビィトは、二人の声が聞こえない位の、様子がおかしくなったらすぐ駆け付けられる程度の距離に離れて立っていた。
「……いいよ、もう。よくある事だって言ったでしょ? 僕の方こそ、一晩で逃げちゃって、イーガンに悪い事したなって思ってた。いつか、謝らなく、ちゃって……」
キッスの元々ゆるい涙腺から、またも涙がこぼれてきた。
当時の、裏切られたと思った痛みを思い出したのかもしれない。イーガンはうろたえた。
「キ、キッス……」
「こらーっ!! キッスに何言ったんだー!!」
離れた所から大声でビィトが怒鳴った。
割り込んで来ないのは、さっきの話でビィトがそれなりにイーガンを信用しているからだろうか。
「ご、ごめん……ちょっと、思い出しちゃって……もう大丈夫。イーガンがいい人だってこと、僕は知ってるから。そうでないと、ビィトが僕等を会わせる筈ないし」
慌てて涙を拭いて、言う。イーガンの勘も間違ってはいないらしい。
その事を寂しく感じながら、イーガンはビィトについて聞いた。
「うん、いい人だよ! あ、でも、同年代だからいい人っていうか……いい子? むー、それも違うような……とにかく、いい奴だよ! 好きなんだ、僕。ビィトには迷惑かもしれないけど」
息を弾ませてキッスは話した。
「初めてビィトに会ったのは二年前でね、その時は田舎から出て来たばかりの、ちょっと無謀で元気な少年としか思わなかった。だって、『暗黒の世紀を終わらせる男』になる、なんて本気で言ってるんだもの! でも付き合ううちに、ビィトが凄い実力があって、才牙も幾つも持ってて、それを使いこなせるようになって……ビィトならやっちゃうかも、と僕も思い始めて……つられて僕も、『世界一の天撃使い』になる、なんて言っちゃった位だから。徹底してるよ」
しかし、そこでキッスはふっ、と目を伏せ、
「でも……すぐ、別れちゃったけどね」
自嘲するように言った。
「ビィトはもっと強くなりたいと言って、僕も、ちょうど憧れていた戦士団から誘われていた事もあって……一度、離れる事にしたんだ。強くなって、いつかまた会おうと約束して。……今思えば、邪魔だと言われても、ついて行けば良かったかなあと思うけど……」
キッスは振り切るように首を振って、
「でも、いいんだ! ずいぶん遠回りになっちゃったけど、こうして会えたし、ビィト戦士団にも入れて貰えたし! この二年、僕は色々あったから……イーガンにはとても言えないけど」
――笑った。
イーガンの見慣れていたあの曖昧な微笑とは違う、晴れやかな笑顔だった。
それを見て、イーガンはもう、大丈夫なのだと思った。
「……本当は、今でももう一度やり直して、キッスと冒険をしたいと思っていたんだが……」
もうキッスにイーガンは必要ないのだ。
「そうはいかないようだな。今のキッスにはビィト君がいる」
イーガンは離れて見守っているビィトに目を転じた。キッスもそれに倣った。ビィトは両腕を組んで、少し怒ったようにこちらを見ていた。
「うん。イーガンがそう言ってくれるのは嬉しいけれど」
いつのまにか雨は小降りになってきていた。
西の空から雲が切れて、光が射してきている。話が終わったと見て取ったビィトがキッスとイーガンの所に戻ってきた。イーガンはキッスの事をよろしく頼むと言って、別れの挨拶とした。
丘を下るイーガンの背中を手を振って見送る。
そんなキッスを横目で見ながらビィトは聞いた。
「なあ。ホントに良かったのか? あいつについていかなくて」
「え? だって、僕はもうビィト戦士団の一員でしょ? そりゃ、鑑定小屋へ行けないから、正式な計約はまだだけど……やっぱり迷惑だった? 僕、元犯罪者だし……」
途端に不安そうにキッスが瞳を揺らしたので、ビィトも急いでフォローした。
「ばーか。ンな訳ないだろ。ただあいつ、ちょっと話しただけだったけど、本当にキッスのこと心配して、気にかけてた様だったから……いい奴だな、あいつ」
ぱあっとキッスの表情が明るくなった。
「ビィトもそう思う!? イーガンは僕を助けてくれて、僕に色んな事を教えてくれて、逃げた後でも、やっぱり懐かしく思うような人だったよ。ビィトもそう思ってくれて、とても嬉しい。イーガンとどんな話をしたの?」
「ああ。もう長々と、昔のキッスの事を語ってくれたよ。ふとした弾みで泣き喚くから取り扱いには注意しろとか。お前、そんな頃から泣き虫だったんだな」
「ひどーい」
ビィトに殴りかかる真似をしながら、キッスはそっとビィトの肩に頭を預けた。
「不幸な行き違いはあったけど……うん、僕は好きだったよ、イーガン。ビィトがいなければ、今日の和解も無かっただろうね。ありがとう、ビィト」
「………」
肩の重みを感じながら、ビィトはすぐには返答出来なかった。
今ならイーガンの気持ちがわかる。キッスは危険だ。少なくともごく平凡な、大多数の男にとっては。
雨は完全にやんでいた。
ポアラの待つ、宿屋への道を逆に辿りながら、キッスはビィトを探しに来た経緯を話した。
「……で、朝食が終わった後、ビィトが出て行ったのは僕のせいだって言われて……きっついなーとは思ったけど、事実その通りとは思ったし。それで、ベッドから這い出して、服を着替えて……」
淡々と、何でもないようにキッスは話す。
ポアラの癇癪も、自分の上を通り過ぎていった男の謝罪も柔らかく受け止めて、キッスはビィトの横にいる。
「雨は降ってたけど、ビィトも雨の中出て行ったんだし……それが僕のせいなら、僕が宿で安穏と待ってる訳にはいかないしね、早めに見つけられてラッキーだったよ。これで、ポアラにどやされなくて済むし」
その柔弱な外見に似合わずキッスはしなやかで、強い。
口の中でくすくす笑う、キッスの髪に残った水滴が、射し始めた陽を反射してきらきら光の粉を振り撒いている。まるで、絵画で見る聖人のようだった。ビィトは思わず目をそらした。
世の中には確かに見てはいけないもの、触れてはならないものがあるのだ。イーガンは……その範を超えてしまったようだが。
ビィト自身も、二年前は子供過ぎて気付かなかった。気付いたのが今で良かった、と、心底胸を撫で下ろしながら、空を見上げてビィトは言った。
「雨、やんで良かったな。キッス」
「うん。これなら出発出来るね」
昼には発とう、と話しながら二人は歩いた。
出来るだけキッスの方を見ないようにしながら、ビィトは早足で宿まで歩いた。
>>>2010/6/22up