薫紫亭別館


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世界にひとつだけの花

 眩しい。
 カーテンの隙間から射しこむ光で僕は目を覚ました。
 僕は窓を開けて、朝のさわやかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 ここトロワナでは、朝日が見える土地の方が珍しい。『深緑の知将』グリニデの謀略によって、大地は虫で覆われ、空さえ黒煙に染まっているからだ。そうしてこのラファは、太陽が拝める数少ない町だった。僕はラファの町に宿をとって、ラファ近くのレセム遺跡の発掘調査に来ていた。
「おはようございます、キッスさん」
 階下の食堂に下りると、すっかり馴染んだ様子の宿のおかみさんが朝の挨拶をしてくれた。
 逗留してまだ三日目だけど、黒の地平と呼ばれるこの大陸には観光客など来なくなって久しいのだろう。なんだか過剰なほど世話を焼いてくれる。嬉しいけど複雑な気分だった。僕は、おかみさんの厚意を受けるにふさわしいような、そんな立派な人間じゃないのだ。
「はい。お弁当つくっておきましたよ。今日も遅いんですか?」
「ええ、まあ……陽が落ちて碑文が読めなくなるまでは、ギリギリまで調査したいと思って」
 僕は内心の葛藤を押し隠して、人の良いおかみさんの相手をした。まだ若い、三十過ぎくらいのおかみさんは、不安そうに眉を寄せて、
「そうですねえ……いつまでレセム遺跡が無事かわかりませんしね。ここもどうなることやら。この辺りにはまだ虫どもは来ていないけれど、そうしたら、呑気に宿屋やってるどころじゃありませんしねえ」
「………」
 僕は答えられなかった。
 ラファでも少しずつ住人が出て行っているらしい。無理もない。虫が押し寄せてからでは遅いだろうし、もし虫ではなく魔人が来たら、逃げることも出来ない。
「キッスさんも、研究熱心なのは結構ですが、余り夜遅くならないうちにお帰りになってくださいね。見たところ、武器も何も持ってないようだし」
「はは……」
 僕は苦笑いを漏らした。武器など無くとも、僕だけは襲われる心配は無い。もし、今魔人が来てラファの人々を皆殺しにしたとしても、僕だけは助かるだろう。それは……僕が裏切り者だからだ。しかしそんな事情を話すわけにはいかない。
 だから、違うことを口にした。
「大丈夫ですよ。魔人は、何故か遺跡には近付かないみたいなんです。理由は何故かわかりませんが……」
 これは事実だ。でも、理由を知らないというのは嘘だ。僕は理由を知っている。
「ですから、もし魔人が襲ってきたら、レセム遺跡の方に向かって逃げるといいですよ。遺跡に逃げ込むことさえ出来れば、多分……」
 僕は語尾をぼかした。すぐに殺されることはない、なんて、そんな不吉なこと言えるわけがない。寿命がちょっと延びただけのことだ。遺跡でずっと暮らすわけにはいかないのだから。
 用意してもらったバスケットを持って、僕は外に出た。
 キッス兄ちゃん、行ってらっしゃーいという無邪気な声が聞こえた。この宿屋の子供だ。五歳くらいに見える。名前は……確か、クリスと聞いた。そばかすのある茶色い髪の、愛敬のある子だ。
「行ってくるよ」
 クリスに手を振って、僕は通りを歩き出した。レセム遺跡まではそう遠い道のりではない。ゆっくり歩いても三十分くらいだ。僕はとても開放的な気分で、ハナ歌まで歌いながら少しずつ町が切れ、遠い昔にはここもレセムの一部だったのだろう折れた柱や崩れたレンガが増えてくるに従って、僕の心は高鳴った。
 レセム遺跡だ。
 遺跡というものはいつでも、何度訪ねても新鮮な感動を僕に与えてくれる。
 僕は何時間でも、割れた石版をパズルのように組み立てたり、タイルの模様をスケッチブックに模写して飽きることがなかった。バスケットに入っていた林檎を齧りながら、掘り出した水差しと青い空と白い遺跡とのコントラストを、もう誰も使わなくなった階段に腰かけて眺めた。
 調査に没頭していれば僕は何もかも忘れることが出来た。
 自分の今の立場も、誰の命令で働いているのかも、これから先、トロワナに住む全ての人々を待ち受ける運命も。
 しかしそんな幸福な気分は長くは続かなかった。
 昼食を終えて、僕は壁に描かれている絵文字に刷毛を入れていた。表面のホコリやゴミを取る作業だ。それが終わったらやはりスケッチブックに正確に模写して、解読はまた次の作業になる。繊細で、神経の使う仕事だ。
 背後でじゃり、と砂礫を踏む音がした。僕は振り向いた。想像した通りの人物がそこにいた。
「……ベンチュラ……」
「よおキッス。やけに頑張ってるじゃねえか」
 ベンチュラは蜘蛛の魔人だ。硬いヘルメットのような頭部に二本の触覚、八本もの手足を持っている。
 ──僕の、同僚だ。
「頑張って当然だろ、これが僕の仕事なんだから。君こそどうしたんだ? 僕が調査をサボってないかどうか、わざわざ確認に来たのか?」
 なんとなく……おかみさんに対するよりも、トゲがある口調なのは否めない。
 ウケケケ、とベンチュラは下品に笑って、
「だーれがンな頼まれてもないことするかよォ。こっちも仕事でな。おまえさんを連れ戻してこいってお達しがあったのよ。でなきゃ誰が、こんな面白くもない場所まで来るかよ」
「連れ戻し……!?」
 僕は焦って問い返した。
「ま、待ってくれベンチュラ! 僕はまだここに来て三日しか経ってないぞ!? もちろん調査だって満足に出来ていない。なのに戻ってこいって……どういうことだ!?」
 僕はまだ、この遺跡で色々学びたいことがあるのだ。
「ンなの知るかよ。どうせ、夜のオモチャがいなくなって物足りなくなったんじゃねェの? 俺には、人間のてめえのどこがそこまで気に入ったのか、わっかんねえけどよー」
 そう言ってベンチュラはまたウケケケ、と笑った。
「………」
 僕は無言で発掘道具やスケッチブックなどを片付け始めた。お召しとあらば仕方がない。僕の命は、その方に握られているからだ。
 僕は手袋で隠された左手首を見た。
 そこには、ある文様を浮き出させた鉄の腕輪が嵌められている。
 このトロワナを黒の地平に変えた、深緑の知将──グリニデ様の。

>>>2003/8/16up


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