僕は一昼夜かけて、おかみさんとクリスを隣町のアゲイルまで先導して歩いた。
クリスは途中で目覚めたが、ぐずって僕らを困らせるようなことはなかった。ただ、五歳くらいの子供には似つかわしくない疲れたような顔をして、黙々と僕と母親であるおかみさんについて歩いた。
時折、僕とおかみさんは疲れた素振りのクリスを代わる代わる背負いながら道を進んだ。
アゲイルまでの道程には、子供の足にはきつい上り坂や砂利道があったからだ。
グリニデ様に翻弄されきった僕の体にも、アゲイルまでの道のりは苦しかったけれど、そんなことを言える権利は僕には無かった。僕のせいで命を落としてしまったラファの村の人々、その人達に比べれば、僕の苦しみなど些細なことだ。
少なくとも僕は飢えてはいないし、着る物も寝る場所もある。
魔人に囚われながら、囚われていない人々より恵まれた状況にいるというのは、本末転倒なことだった。
「……門が見えて来ましたよ」
僕はおかみさんに言った。
門。町の防護壁としての機能を持ち、出入りする人々の審査もする、門。それ自体が意識を持ち、呼びかけると目が現れる。
門の正面に立ち、その両眼に、僕はラファから来たと呼ばわった。僕の口上とくたびれきった二人の様子を見て、門は事情を察したようだった。
門は重い音を立てて開いた。
僕は最後まで立ち会わなかった。不寝番の人間が現れておかみさんとクリスを保護するのを見届けると、僕は元来た道を逆に走った。門や、不寝番の人間が驚いたように叫ぶのにも構わなかった。
僕はアゲイルには入ってはいけない。説明はおかみさんがするだろう。もしかして、ラファが教われたのは僕のせいだと尾ひれをつけておかみさんは話すかもしれない。それでもいい。
事実ではあるし、僕を憎むことでおかみさんが生きる力を取り戻すなら。夫も家も亡くした女性が子供を育てながら一人で生きていくのは並大抵の苦労ではないだろう。
しまった。僅かでも、お金を渡しておけば良かったと思った。が、時既に遅し。僕の目の前には、見慣れた黒い八本の手足と二本の触覚を持つ、
「ベンチュラ……来ていたのか、やはり」
ベンチュラは鬱蒼とした樹影からのそりと姿を現した。僕を見て、ウケケと笑った。
「あったりまえだろ。大怪蝶の飼育係がすぐに知らせに来たぞ。テメエが出かけたってな」
ベンチュラと僕は並んで歩き始めた。さくさくと石や枯れ葉を踏む音がする。
「ま、ロズゴートにだがな。下っぱ魔物が直接グリニデ様にお目にかかれるワケがねえ。ロズゴートが俺様に連れ戻してこいって言ったのよ。どうせセンチメンタルな気分に浸ってラファで泣いてると思ったら、ビンゴだったぜ」
ぎゃはは、と高笑いをするベンチュラに、しかし僕はありがとう、と言った。
ベンチュラははあ? というような表情で、何寝ぼけたこと言ってんだテメエ、馬鹿じゃねえのか、などと口の悪いことを言ったが、それも僕には気にならなかった。
ベンチュラは、僕がおかみさんとクリスをアゲイルに送り届けるまで、黙って見ていてくれたのだ。
そのことに感謝する。ベンチュラは僕が言うのも何だけど小心者だし、小物だし、調子のいい奴ではあるけれど、根は、優しい所もあるのだ……魔人ではあるが。人間の敵ではあるが。
「でもよ……今頃はグリニデ様にも知れてると思うぜ。おめえもさ、ちったあグリニデ様のお気に入りだって事を自覚しろよ。城にいる筈なのに、お召しがかかった時におめえが参上しなかったらまたグリニデ様がブチ切れるだろうが。ロズゴートの奴も、キッス君はどうしたと聞かれたら報告しない訳にはいかない。その為に、俺が使いに出されたんだしな」
「………」
僕は憂鬱になった。覚悟して出て来たはずなのに、いざ、帰城するとなると足が震える。グリニデ様はもちろんお怒りだろう。その責めは、苛烈を極めるに違いない。
それで死ぬならそれもいいと、僕は投げやりに思う。僕にはもう希望はない。いや……ない事も無いが、多分もう彼に会うことは出来ないだろう。
再会を誓って別れたのはいいが、いつ会おうとも、何処で会おうとも僕らは取り決めもしなかったのだから。嫌な想像だが、彼も僕に愛想をつかして、それで体よく離れようとしたのかもしれない。
いや、それはない。彼に限って。僕は頭を振ってその考えを打ち消した。
資格がないのは僕の方だ。彼ともう一度会う、資格。こんな所まで流されて、魔人の部下として働いて、人間を裏切った僕には。
彼は恐らく、『暗黒の世紀を終わらせる』という目標に向かって、今も夢中で邁進している事だろう。わき目も降らずに。そこに僕の入る余地なんてない。彼が僕のことを覚えていてくれたとしたら、それは奇跡とさえ言えるかもしれない。
「……オイ」
ベンチュラが僕の注意を促した。
「どこまで歩くつもりなんだ? てくてく歩いてたら、いつまで経ってもグリニデ城につかないぞ。そりゃまあいつかは着くだろうが、これ以上グリニデ様を待たせるワケにはいかないしな」
ベンチュラが指笛を吹くと、どこからか大怪蝶が舞い降りてきた。僕の乗ってきた大怪蝶は、僕の言いつけどおりグリニデ城に帰ったらしい。
僕はベンチュラの大怪蝶に一緒に乗せてもらった。
大怪蝶の背には毛足の短いやわらかい毛が生えていて、ちょっと上等な絨毯か毛布のような感触がある。僕は失礼して、そこに横になることにした。どうせ大怪蝶を操るのは、ベンチュラの方が得意な事だし。
「こら待て、何寝っ転がってンだテメエ。振り落とされても知らねえぞ!」
言いつつ、寝かせといてくれるベンチュラが嬉しい。僕はうつぶせたまま微笑した。
僕は疲れていたし、ひどく疲れていたし──これからグリニデ様の折檻を受けるのだと思うと、余り……考えたくなかった。死んでもいいと思っていたのに、僕も大概現金に出来ている。
まあいい。すべては着いてからだ。
ベンチュラがまだ何か言っているようだったが、僕の耳にはもう聞こえなかった。大怪蝶の背の、適度な振動と暖かさが僕を眠りに導いた。グリニデ城の、僕の部屋にある豪華なベッドより、そこはとても寝心地が良かった。
< 終 >
>>>2004/10/26up