体が重い。しかし、僕には行かなければならない場所があった。
指一本動かすのも億劫な体に鞭打って、服を身につけ、ふらふらと、木で出来た洞窟のような通路を抜け、大怪蝶を繋いでいる発着場まで急ぐ。大怪蝶とは巨大な蝶のモンスターで、これに乗って、僕らはトロワナのどんな都市でも、すぐに行き着くことが出来るのだ。
「キッスさん、どちらまで?」
大怪蝶を管理している下級魔物が話し掛けてきたが、僕はそれには答えなかった。
人間ではあるが幹部の一人でもある僕には、いつでも好きなときに大怪蝶を行使することが出来る。
僕はある一匹の大怪蝶の綱をほどいてその背に飛び乗ると、大怪蝶を飛び立たせた。
みるみるグリニデ城が遠くなる。
このまま帰らなくていいのなら、どんなに気が楽になることか。
後のことは考えないようにしながら、僕はレセム遺跡を目指した。
幾らも経たないうちにレセム遺跡が見えてきた。
僕はレセム遺跡から少し離れたところにそっと大怪蝶を降下させると、地上に降り立ち、朝までに僕が戻ってこなかったらグリニデ城に戻るように大怪蝶に言い聞かせた。大怪蝶は簡単な命令なら、理解するくらいの知能はある。僕は大怪蝶をその場に残してレセム遺跡に向かった。
ガラ……と、足下で石が崩れ去る。
グリニデ様はラファの町を攻撃させただけで、遺跡までは手出しさせていないはずだが、やはり全く影響を受けないではいられなかったらしい。先日まではあった柱や壁の一部が横倒しになって砕けていた。僕はもの哀しい気分でその横をすり抜け、
「……おかみさん! クリス!!」
叫んだ。一縷の望みに賭けたのだ。
僕は、魔物に襲われたらレセム遺跡の方に向かって逃げるといいと言った。もしおかみさんがそれを覚えていれば、ここに避難して、魔物の目から逃れているかもしれない。
しばらく僕は大声で二人の名前を呼びながら走り回った。遺跡といっても、昔は確かに人が住んでいたものだから、一人で捜すには結構な広さだった。僕が諦めかけて、やっぱりダメか……と思い始めたとき、物影からちいさく声がした。
「……キッスさん……」
「おかみさん! クリスも!! 良かった、無事だったんですね!」
僕は安堵感で一杯になって、二人に駆け寄った。
おかみさんは取るものもとりあえずクリスの手だけを引いて逃げてきたようで、僕が昨夜の朝見たままの格好だった。魔物は本当に僕が去ってからすぐに町を襲ったらしい。おかみさんは疲労と恐怖で目の下に隈が出来ていて、ろくに睡眠も取れていないようだった。それはそうだろう、こんな状況下で寝られたもんじゃない。
が、クリスの方はおかみさんの腕の中で、ぐっすりとは行かないまでも眠っていた。
五歳くらいのクリスの身長はもうおかみさんの腰より上にあるので、おかみさんの腕でクリスを支えるのはきついだろう。僕は代わりにクリスを抱いてやろうと手を伸ばしたが、
「いえ……大丈夫です。ありがとうございます……それよりも、キッスさん」
「はい?」
おかみさんは腕の中のクリスを僕から隠すように抱き締めると、
「……今までどちらにいらっしゃったんですか? 私、私とクリスは、キッスさんが言っていたことを思い出したから、キッスさんがここにいると思ったから、レセム遺跡に逃げて来たんです。なのに、あなたはどこにもいなくて……こんな時間になってから、突然現れた。捜しに来てくれたのには感謝しますが、でも……!」
おかみさんは上目遣いに僕を見上げた。
その目の中に、僕に対する不審と疑いの色があるのを僕は認めた。
いたたまれなさに、僕はおかみさんから目を逸らした。
おかみさんは、僕が魔物達を手引きしたと思っているかもしれない。ある意味それは正しい。僕がレセム遺跡に来なければ、ラファの町に宿を取らなければ、こんなことにはならなかった……少なくとも、今夜、いや昨日の夜のうちに町が壊滅するなんてことは。
僕が来なくても、いずれ同じ運命を辿るだろうことはわかっていたけれど、それでも、僕は思わずにいられないのだ。
僕さえここに来なかったら……と。
「……行きましょう。ここにずっとこうしているわけにはいかない。隣町の、アゲイルまでお送りします。それ以上は、同行出来ませんが……」
アゲイルはラファよりは大きい町だから、ラファからの避難民の二人くらいなら、受け入れる余地はあるだろう。もしかして、アゲイル方向に逃げたラファの住人が無事に辿り着いているという可能性もないわけじゃなし、僕は少しでも、明るい方向に物事を考えようとした。そうでもしないと、自責の念に押し潰されそうだったのだ。
おかみさんはクリスを抱いたまま、躊躇しながらも僕の提案にうなずいた。
女一人で、しかも子連れでレセム遺跡に取り残されるよりは、少々……かなり怪しくても、頼りなさげでも、護衛付きでアゲイルまで行った方がいいと判断したのだろう。
アゲイルはレセム遺跡とは正反対の方向だから、行くにはどうしてもラファの町を通らなければならないが、魔物がまだ残っていたとしても僕がいる限り手出しはされないし、持てるものなら着替えやお金だってあった方がいいに決まっている。
僕とおかみさんはいったんラファの、おかみさんの宿に戻ることにした。
「………」
覚悟はしていたつもりだったが、僕は胃の中のものが逆流しそうになるのを必死でこらえなければならなかった。
さいわい、魔物は引き上げていた。だから、魔物から僕を避けてくれる、なんて事態をおかみさんに見られなかったのは幸運だった。が、僕以外の人間には、その幸運は与えられなかった。
僕は手足を引き千切られ、内臓がはみ出した死体をそこここで見た。
本来なら僕も、この人達の仲間になっていたのに──捨て石にされた時に、グリニデ様に捕まった時に。
生き長らえていることに、だが感謝は出来ない。この人達を葬ったのは僕だ。実際にはグリニデ様の指図だが、その原因をつくったのは、やはり僕だと思うからだ。
おかみさんの宿は、なんとかそこにあった。無傷とは言えなかったが、中に入って荷物をまとめるくらいには無事だった。
おかみさんはほとんど事務的に荷造りしていた。クリスは目の届くところに寝かせていた。恐怖だの混乱だのに襲われるのには、僕が到着するまでの数時間に麻痺してしまったのかもしれない。でも今はその方がいい。僕も……助かる。
おかみさんがそうしている間、僕は見回りがてら外に出ていた。
誰もいなくなった、ただの物体に過ぎなくなった人々の住む町。この土地にもう朝は来ない。
トロワナでも珍しい、朝日が見えるラファの町は、他の多くの町と同じく──『黒の地平』になったのだ。
>>>2003/10/12up