薫紫亭別館


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アルクアラウンド

「――泊まり込みで?」
 久しぶりに足を運んだ朝参で、キッスはグリニデに奏上した。
「はい。ここの所、伏せっていた事もあり、遺跡調査が全くと言っていいほど進んでいませんでしたので……閣下のお許しさえ頂ければ、何日か、泊まり込みで作業したいと思うのですが……」
 グリニデは僅かに目を眇めたが、了承した。
「よかろう。許可する。だが、長期間は許さん。私が戻れと言ったら戻ってくるのだ。でなければ、……わかっているな?」
「……はい」
 キッスは軽く頭を下げ、足を引き摺っている事を悟られぬよう、その場だけ何とか取り繕って部屋を出た。
 だから、キッスが退出した後ロズゴートとグリニデがこんな会話を交わした事も、知らぬままだった。
「よろしいのですか、グリニデ様?」
「構わんよ。確かにあれの肉の具合は最高だが、元々はああして調査させる為に部下にしたのだ。最近稚児としての役割が増えていたが、当初の目的を忘れては本末転倒だ。あくまでも、私が愛でているのは彼の頭脳だからな」
 グリニデは、にやりと余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「たまには息抜きも必要だろう。余り無理をして壊したり、発狂されては元も子もないしな。もっとも、そのまま逃亡されないように、注意は必要かもしれん。まあ、ないだろうが」


 キッスは廊下に出ると、すぐ壁に手をついた。
 まだ出歩ける体じゃない。だがこのまま、グリニデ城に留まっているのは耐え難かった。キッスは鉛のように自由にならない体を操って大怪蝶の飼育場まで来ると、一匹を選んで背に乗り、うつぶせに寝転んで、荷物のように運んでもらう事にした。それ位の命令は、付けられた腕輪のおかげで聞いてもらう事が出来た。
「……よろしく」
 大怪蝶は軽やかに空に舞い上がった。
 キッスはふさふさした体毛を掴んで、上昇までの時間を耐えた。一度気流に乗ってしまえば、後は下手な乗り物よりも滑らかだ。着地にまた体力を使うだろうが、降下の方がまだ緩やかだろう。
 ――エケベリア遺跡。
 キッスはセネシオ博士の調べていたエケベリア遺跡に到着すると、半分落馬ならぬ落蝶のような格好で背から滑り降り、大怪蝶を帰した。大怪蝶が、これも馬のように鼻先をくっつけてきたのが嬉しかった。ベンチュラいわく、呼べば迎えに来てくれる、筈……忠実な大怪蝶にささくれた心が和むのを感じながら、キッスは赤茶けた日干しレンガを敷き詰めた通りを歩いた。
 クラッスラ遺跡と比べ、どことなく庶民的な印象を与える遺跡だ。古い村が、そのまま風化したような。
 建物はほとんど土台しか残っていないが、規模は大きく、中心部がどこかよくわからない。
 キッスは適当な崩れた塀の向こうの影に身を潜め、休むことにした。
 調査と言い条、グリニデと距離的に離れて体を楽にするのが本当の目的だ。ベッドよりこんな場所の方が安心して眠れるというのも矛盾した話だが、あそこにいては休むものも休まらない。キッスは瓦礫に頭をもたせかけて目を閉じた。キッスは墜落するように眠りに落ちた。
 どの程度眠ったのかわからないが、次に目を覚ますと、キッスは多少体が軽くなっているのを感じた。
 空が暗い。黒の地平は元々いつも曇り空だが、時間的には今はどうやら夜らしい。
 キッスは歩き始めた。実はキッスは夜目が利く。ずっとグリニデ城で暮らしているので、暗闇に目が順応したらしい。
「!」
 気配を感じた。足音を忍ばせてそちらに向かう。こんな、見捨てられた廃墟のような遺跡に、誰が……?
 僅かに残った壁の向こうに、弱い光が漏れている。ランプの灯りらしい。では人間か? と、自分も人間の癖して不審に感じながらキッスはあちらを窺い見た。
 ちとふくよかに過ぎる、人間の男の背中が見えた。男は地面に屈んで何やら没頭している。
 ランプの灯に何かが光った。ナイフ!?
「――何をしている!?」
 キッスは思わず飛び出していた。
 そして見たものに愕然とする。男の前には、手足が何本も切り取られた多足類の虫が転がっていた。柔らかい腹の真ん中にもナイフが突き立っていて、どうやら息絶えているらしいのが、不幸中の幸いだった。生きたまま解体されるより、苦しまずに済んだ事だろう。
「何て事を……!」
 キッスは男を突き飛ばして、腹に刺さったナイフを抜いた。可哀相に。ちぎられた足も拾い集めて、きゅっと胸に抱く。男はどすんと尻餅をついて、キッスを見上げた。
「お、お、お前は誰だ……!?」
「お前こそ誰だ!! 何の目的があって、こんな事をする!?」
 怒りに燃えてキッスは叫んだ。男はもごもごと、聞き取りづらい声でつぶやいた。だ、だって、虫じゃないかとか、だからどうしようと勝手じゃないか、とか。
 キッスは男を平手で張り倒した。自分とて、バスターだった過去には魔物や虫を殺しまくっていたが、こんな、楽しみの為に遊び半分で殺した事はない。キッスは男に命令した。
「帰れ。ここから出て行け。ここは古の人々が暮らした村で、生きた人間が来る所じゃない。ここはもう魔物と虫の跋扈する世界だ。魔物の餌にされない内に、自分の世界に戻るがいい」
 ここは黒の地平。魔人グリニデの領域だ。
 その領域内でこんな事をしていては、遠からず自分が殺した多足類と同じ結果を辿るだろう。
 言い方はきついが、キッスとしては親切心の、つもりだった。
「……そ、そういうお前は何だ……? 人間、じゃないのか……?」
「………!!」
 キッスは顔を歪めた。痛いところを突かれた。今のは完全に魔人側に立ったセリフだ。自分は人間で、人間としての立場から喋っているのに、ものの見方はまるで魔人だ。男はよろけながら立ち上がった。手に、しっかりとナイフを握りしめて。
「に、人間、じゃないなら、殺してもいいよな……!?」
「な……っ!?」
 飛びかかってきた男をなんとかキッスは避けた。あらぬ所が痛んで足が崩れる。片腕に抱いたままだった虫が地面に落ちた。一瞬、そちらに気を取られた所を、男に馬乗りに押さえつけられる。
「……痛あ……っ!!」
 衝撃にキッスは呻いた。体中に、グリニデから受けたダメージが残っている。本来なら元・バスターの端くれ、この程度の男に遅れを取るキッスではないが、今回は勝手が違っていた。目を閉じて衝撃をやり過ごす。体が震えて、油汗が流れ出す。そんなキッスを見て、男は安心したように言った。
「な、なんだ、お前……意外と弱いんじゃないか」
 男は余裕を取り戻して、まじまじとキッスの顔を見つめた。
「お、お前、結構カワイイな……」
 はっとしてキッスは目を開けた。それが小動物じみた上目遣いに見えた事に、キッスは気付かなかった。
 男は息を荒げて言った。
「こ、殺す前に、味見させて貰っても、いいよな……? だ、大丈夫、ちょっと入れるだけだから。怖くない、怖くない。お、俺、これでも優しいから。やった事ないけど。多分」

>>>2010/7/8up


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