「いやああっ!」
身をよじってキッスは叫んだ。男のぶよぶよした手が襟にかかる。前合わせの留め具が弾けて、キッスの胸が露わになった。ランプの灯に浮かび上がった肌を見て、男は茫然とつぶやいた。
「な……なんだ、お前、これ……」
キッスは顔を背けた。キッスの体には多少薄れてはいるものの、グリニデに付けられた指の跡や歯型が色とりどりの痣になって残っている。自分でも正視出来なくて、首元までぴっちりと覆っていたのを男は食い入るように見て、
「どこかから、逃げてきたのか……? それとも、そういう商売でもしてるのか? な、なら、遠慮はいらないって事だな……!」
却って、嬉しそうに笑った。
じっとりと湿った手がキッスの胸に降りてきた。グリニデの、外皮というより甲殻に覆われた、と言った方が近い指に触られるのとは別の種類の悪寒がキッスの背筋を駆け上がった。男は確かにグリニデほど粗暴ではない。が、乱暴されているのに変わりはなかった。
キッスは腕を突っ張らせて、目の前の男を押しのけた。男はあっさり引いた。男はいつまでもキッスの上半身にかかずらわってはいなかった。男はキッスの体を反転させてうつ伏せさせると、ぐいぐいと下衣を引き下げた。
「や……やめろっ!」
切羽詰まった声をキッスは上げた。さすが、下衣は上衣と違ってそう簡単には抜けない。しかし男には、キッスの穴さえあれば良かったらしい。そこだけ露出させると、躊躇なく指をねじ込んだ。
「痛い……っ!!」
痛い。無理な体勢でキッスは出来るだけ身を丸めて痛みに耐えた。既に汚された身とはいえ、何も施されずに突き入れられて感じるほどキッスの体はまだ開発されていない。ましてや最近のグリニデは、研究の成果か潤滑油を使って、一応、キッスの体に負荷をかけまいとしている。限界を見極めるのにも長けてきて、過度な行為は慎むふしまで見えてきた。
男はそうではなかった。指を増やし、何度か抜き差しすると、これで慣らしたつもりらしく、後ろから覆いかぶさると、すぐに自分を取り出してあてがった。
「だ……大丈夫。俺、優しくするから」
男の鼻息が耳にかかって気持ちが悪い。キッスは情けなさに涙を流した。この期に及んで、男とグリニデを比較出来る自分に気付いて。こんな事に慣れたくなかったのに。彼といた、あの光射す場所から、どうして自分はこんなに隔たってしまったのだろう。
グリニデに責められて、二度と口に出すなと強要された名前。
「――助けて……!」
瞬間、男がキッスの上からふっ飛んだ。
黒い影。キッスはすぐに理解した。
「だ……駄目だ! 殺すな! 殺さないで、ベンチュラ……っ!!」
いつのまにか現れたベンチュラは、男の首に己の蜘蛛の糸を巻き付けて、締め付けながら言った。
「何で止める。お前、こいつにヤられかかったんだろうが」
「さ……、されてない! 最後までは……だけど……」
だんだんと語尾が小さくなる。何故ベンチュラがここに、という疑問と、助かった安堵感で涙がこぼれる。
キッスは衣服を直しながら、男を解放してくれるよう頼んだ。
「いいのか。こいつ、お前の顔覚えてるぞ。俺とお前がつるんでるのもバレたが、本当にいいのか?」
キッスは僅かに逡巡したが、
「……いい! いいから、離してあげて。……それから、もうここに来ないで。二度と、こんな事しないで」
後半は、男に向けて言った。
ベンチュラはぶつくさ言いながら糸を解き、男のケツを蹴り上げて、行け! と怒鳴った。
男はほうほうの体で逃げ出した。
「あーあ。あいつ、魔人に通じている人間がいるって言いふらすかもしれないぞ」
「うん……」
闇に消えた男の姿を見送りながらキッスはうなずいた。わかっている。魔人は人間の敵だ。だから魔人が人間を助けるなど普通有り得ない事だ。その有り得ない事が起こったなら、それは魔人側のスパイ、裏切り者という事になる。
キッスは自分でスパイと認めたも同然だった。
だからといって、男を殺して口封じする事は出来なかった。それをしたら、自分は身も心も魔人になってしまう。ただ後から、咽喉を潰すくらいやっておいても良かったか、と思ったのは事実だ。自分が少しずつ魔人化している事に、キッスは自分で戦慄を覚える。
キッスは改めて多足類の亡骸を埋めて墓をつくった。
ベンチュラは瓦礫から燃えそうな木切れを集め、男が残していったランプの灯を火種にして、火を焚いた。
ぼっと火勢が強くなって、明るく辺りを照らす。
キッスはそっとベンチュラの斜め横に座って、火に手をかざした。
「……お前、メシ食ったのか」
ベンチュラが聞いた。そういえば食べてない。キッスはううん、と首を振った。
ぽん、とベンチュラが袋を投げて寄越した。中を見てキッスは驚いた。パンだ。パンとチーズ。
「ベンチュラ、これ……!?」
「オマエ一応、人間みたいだからな……人間用のメシの方がいいだろ」
キッスは礼を言った。ベンチュラがパンなど焼ける筈もないからいずれ何処かでかっぱらってきたものだろうが、単純に、自分を人間扱いしてくれる事が嬉しい。以前、食事を分けてくれた時は巨大イナゴだった。パンにチーズを載せて火のそばの石の上に置いて、チーズが程良くとろけた所をいただく。
「おいしい……」
そら良かったな、と声が返ってくる。そういえば、ベンチュラとこうして差し向かいになるのも随分と久し振りだ。博士達の一件以来、自分はベンチュラを避けていた。以降はグリニデの暴行のせいで、伏せる事も多く、朝参で会っても、自分の事で精一杯だった。
――ベンチュラはずっと自分を気にかけていてくれたのだろうか?
キッスが不思議そうに見ているのに気付いたらしい、ベンチュラはぶっきらぼうにあちらを向いて、
「……グリニデ様に言われたからよ。オメーが逃げ出さないか見張ってろって」
「ああ、うん……」
キッスは視線を落とした。懐いてくれていると思っていたあの沢山の虫達も、結局は自分の監視役だったではないか。まだまだ甘いな、自分……と、キッスが自嘲した時だった。
ごつん! と、頭をはたかれた。拳で。
痛みより驚きでベンチュラを見上げる。ベンチュラはキッスの隣に仁王立ちになって、
「……あのなあ! 俺が命令されたのは、あくまでオメーの逃亡阻止だけなんだよ! だからお前があの野郎にレイプされようと何だろうと、見てるだけで良かったんだ。だけどオメー、助けてって叫んだろうが。だから俺もつい、飛び出て助けちまったけどよ……」
「ご、ごめんなさ……」
「謝んなって。いいんだよ、俺が好きで助けたんだから。……ていうか、お前、そんな性格じゃなかったろ。もっと図々しくてさ、虫でも魔物でもお願いしつつ、アゴでこき使ってたじゃねえか」
はーっ、とわざとらしくベンチュラは息を吐き出した。
キッスはベンチュラを見上げたまま首をかしげた。
「そ……そうだったっけ?」
「そうだよ! アレでいいんだよ。グリニデ様に委縮すんのはわかるけど、俺にまでンな態度取るこたねえよ。ていうか取るなよ、頼むから。そんなバリバリに警戒しなくても、俺はお前に手ェ出したりしねーよ。いや、殴るって意味なら出すかもだが」
だってお前人間だし男だし。グリニデ様の気が知れねえよ。あーでもさっきの男もえらくがっついてたし、もしかしてお前って、そーいう奴等の劣情を刺激する何かがあんのかもなー。俺にゃ全くわからねえけど。
あっけらかんとした口調でぺらぺらとベンチュラは捲し立てた。
しかしそれは裏返せば、そのままキッスの劣等感の素になる。男の癖に、人間の癖に体でグリニデをたらしこんだのではないか……とか。一応頭脳を認められて部下にされた筈だが、今はほとんどお稚児状態で、軽蔑していないのか、とキッスはそろそろと聞いてみた。
「いや別に? まあ災難だな、とは思うけど、弱肉強食は魔人の基本だからな。グリニデ様の意向なら仕方ねーんじゃねえの? ……ま、でも、安心したぜ」
にかっ、とベンチュラは大口を開けて笑った。
「グリニデ様の意向を知っていて、泊まり込み調査認めさせたろ。俺アレ聞いていて、あーやっぱり変わってねえなコイツって、嬉しかったんだぜ」
……そうか。キッスは思った。朝、閣下に上奏した時、その場にベンチュラもいたんだ。
なんとなくロズゴートはいたような気はするけど、自分が如何に張り詰めて、グリニデしか見ていなかったかがわかる。体面だとかプライドだとか、そんなものにこだわっていた自分が馬鹿に思える。キッスは肩の力が抜けるのを感じた。ベンチュラは、ひと言でキッスを救ってくれた。
「あ」
一匹の蜘蛛がキッスの膝の上に乗ってきた。トリュプス。
「遊んでやれよ。そいつらもお前の様子がおかしいから、中々近寄れなかったんだぜ」
振り返ると更に数匹のトリュプスがキッスを取り巻いて、登ってもいいかな、どうしようかな、と足をマントにかけたり引っ込めたりしていた。キッスは笑いながら蜘蛛を引き寄せて、肩でも首でも好きな所に登れるよう、全員膝に乗せた。
「ベンチュラ。この子達、パンとか食べる?」
生き餌じゃないから、どーかな……やってみればわかるんじゃねーの、という返事が来た。
キッスはまだ残っていたパンを細かくちぎりながら、大丈夫……と思った。
自分は自分が思っているより遥かに図々しくて、図太いらしい。
彼がいなくても自分はここでやっていける。
蜘蛛は手のひらに乗せたパンくずに興味しんしんで、足を伸ばしてくる。
その様子を見ながらキッスは黒髪の親友の事を、心の奥底に大事に大事に仕舞い込んで封印した。
そうして、次に運命的な再会をするまで、思い出す事はなかった。
< 終 >
>>>2010/7/14up