カルネアデスの板
――懐かしい気配がした。
キッスは足を止めて振り返った。
数歩先を歩いていたポアラが、それに気づいてどうしたの? と聞いた。
ビィトもその声に立ち止まった。
「あ、ううん。何でもない。今日中に、宿のある町まで辿り着けるかなあと思って……」
ここはサンクミール。不動巨人ガロニュートをなんとか倒し、久しぶりに三人で、マニヨン島からこの大陸に渡ってきた所だった。ミルファはベカトルテの門の再建の監督に残り、スレッドもまた、ベカトルテでの依頼をこなすために姿を消している。
「そうね。今夜はビィトの『寝る日』だものね。出来れば野宿は避けたいわ。プレッシャーが全然違うもの」
ポアラがごちた。野宿だと、寝るビィトを守りながら襲ってくる魔物と対峙しなければならないので、負担が格段に重くなるのだ。ちなみにビィトは、三日起きていて一日眠る、という特異体質の持ち主である。
「そんな弱気な。ポアラらしくねーなあ」
はっはっはっ、と豪快にビィトは笑った。
アンタに言われたくないわよ! と、目の前で痴話喧嘩を始めたポアラとビィトを見ながらキッスは目を細めた。うーんさすがは未来のビィトのお嫁さん。強い。
それはともかく、……と、背後を気にしながら歩き出す。ここ数日、気配は感じていたが、気のせいだと思っていた。が、どうやら気のせいではなかったらしい。懐かしい気配に、だがキッスは首をすくめた。彼に会ったら何と言えばいいのだろう。
何だか顔を合わせづらい。でも彼は、自分に会う為にここまでやって来たのだろうから、逃げる訳にも行かない。とりあえず、無事宿に着いて、ビィトが寝たらポアラに言って少し抜けさせて貰おう。門の中なら、ポアラが言うように多少は安全だろうし。
ただ、彼との面会は門の外になるだろうな、とキッスは二人に気づかれないくらい小さく笑った。
ポアラに了解をもらって、キッスは宿を留守にした。
まだ開いている店に駆け込んで、ワインとパンを買う。手持ちの金は少なかったが、友人をもてなすのに手ぶらという訳にも……まあ、カップは、いつも携帯している自分達の物で我慢して貰うしかないが。
門に頼んで、扉を開けてもらう。もうすぐ夜だからやめておけと門は言ったが、大丈夫と答えた。
そのまま足を進める。門から見えないくらい、遠くまで。
もう充分に離れた、と思う所まで来てようやくキッスは歩みを止めた。
「………!」
殺気だ。キッスはひらりと身をひるがえした。そして叫ぶ。
「こら、ダンゴール! 危ないじゃないかっ!」
「うるさいですうっ! グリニデ様と三魔人のカタキ、取らせて頂きますっ!!」
「うわっ!」
ダンゴールは手に手にナイフを光らせて、キッスに突進してきた。とりあえずキッスは避ける。というか逃げる。追うダンゴールと逃げるキッスで、期せずして鬼ごっこが始まる。幸い、遠距離型のキッスと名前と知恵を与えられてはいても、体力的には普通の魔物だったダンゴールはすぐにへばって、二人してその場に座り込んだ。
「ちょ、ちょっと休戦、ダンゴール……!」
「し、仕方ないですね……」
ダンゴールの周りには、あちこちにナイフが散らばっている。息を整えながらキッスはワインを注いで、ダンゴールに差し出した。
「はい」
「ふん。こんな物で、私がほだされると思ったら大間違いですからね」
言いながらもダンゴールは受け取って、くーっと一息に飲み干した。お代わり、とばかりカップを突き出す。キッスはとぷとぷと二杯目を注いで、パンも半分に割って手渡した。
「……ずっと僕を追ってきたの? よくここがわかったね、ダンゴール」
キッスは言った。ダンゴールは随分と痩せて……というか、面やつれして見えた。
黒の地平、トロワナから、ここサンクミールまでは海を挟んでかなりの距離がある。途中、キッス達が立ち寄ったベカトルテもある。執事とはいえ一介の魔物に過ぎないダンゴールがここまで来るのは、並の苦労ではなかっただろう。
「好きで追ってきた訳じゃありませんよ」
パンを頬ばりながらダンゴールは答えた。
「気づいてないんですか? あなたの体からは、グリニデ様の匂いがぷんぷんしてますよ」
反射的に、キッスは自分を抱きしめた。体が震える。
「夜ごと、あれほど可愛がって頂いていたのに、グリニデ様を裏切るなんて、信じられない。恩知らずにも程があります」
「………」
ダンゴールから見ればそう思うのか。キッスは思った。
のたうちまわって、殺される……! と思わない夜はなかったが、第三者から見ればそんなものか。むしろ、なり替わりたいとすら思っていたかもしれない。
「うん……でも、ダンゴールは親切だったよね。感謝してる」
意識が飛ぶまで責められるのも日常茶飯事で、そんな時は、ダンゴールが後片付けをしてくれた。
体を拭いて貰ったり、呼び出された場所から自室に連れ帰って貰ったり。恥ずかしい、などと言っている余裕はなかった。例え夜明けまで離して貰えなかったとしても、その数時間後に始まる朝参には、涼しい顔をして出席しなければならなかったからだ。
「グリニデ様のお言い付けでしたからね。命令ですから、逆らえません」
ダンゴールはそっけなく言った。しかしキッスは、自分を介抱するダンゴールが、目に痛ましげな光をたたえていた事を覚えている。ダンゴールも葛藤しているんだ……と思う。
好きで追ってきたのではない、とダンゴールは言った。
キッスの中の、魔人グリニデの匂いに惹かれて来たのだろう。ダンゴールは魔人グリニデの忠実な執事だった。その主人、魔人グリニデはキッスが殺した。厳密にはキッスを含めたビィト戦士団の三人で倒したのだが、元はキッスも魔人グリニデの部下だった。
だからキッスは顔を伏せて、言葉少なに言った。
「君がどんな想いでここまで来たかはわかってるつもりだよ。ダンゴール」
ダンゴールはすぐさま反論した。
「わかりませんよ。わかる筈ありませんよ。やっぱりあなたは人間だったんですから。グリニデ様も、三魔人の方々も、あなたを人間と差別する事なく平等に接して下さっていたのに」
三魔人……グリニデ直属の配下であったロズゴートとベンチュラ、そしてフラウスキーをキッスは懐かしく思い返した。寡黙で職務に忠実だったロズゴート。三魔人の中では一番仲が良かったベンチュラ。滅多に顔を会わせなかったが、自信たっぷりに唇を笑いの形に歪めたフラウスキーの表情を、キッスは今でも鮮明に思い出す事が出来る。
その三魔人も、キッスとビィトの二人で葬ったのだったが……。
「皆、あなたのせいで亡くなりました。他に、グリニデ城にいた、沢山の虫や魔物達も。それは実際に手を下したのはグリニデ様かもしれませんが、あなたがグリニデ様を怒らせたから、彼等はとばっちりで死んだんです。あなたが彼等を殺したんです」
「うん……」
キッスはうなずいた。ダンゴールの言う通りだったからだ。
キッスがビィト側に着かなければ、恐らく今も魔人グリニデと三魔人は健在で、代わりにビィトとポアラが死んでいたに違いない。
「あの時、幾らグリニデ様に言いつけられたからとはいえ、腕輪を持ってくるんじゃありませんでした。最初から、あなたは人間の味方だったんですから。あの博士達を逃がす為に、あなたは腕輪を嵌められた。後から毒の腕輪と聞かされて、反感を抱いたかもしれませんが、それでもあなたはそれなりに私達に溶け込んで――うまくやっているように見えたのに。全て見せかけだけだったなんて、予想もしませんでしたよ」
「それは違うよ、ダンゴール」
キッスは言った。
「僕は……僕も、あのまま、ずっと一生グリニデ城で暮らすと思っていたよ。命令とはいえ発掘調査は楽しかったし、研究も好きだった。ベンチュラの事は最初から友達だと思っていたし、ロズゴートだって、話してみれば杓子定規なだけじゃないってわかったし……」
「それなら何故、その方々を殺したんですか!?」
「それは……!」
――先着順だった、と言ったら怒られるだろうな。
キッスは思った。
ビィトに乗せられたような形だったとはいえ、自分が一番なりたかったもの……世界一の天撃使いになると誓い、それが無理なら、このまま考古学者になるのもいい、と思っていた。ビィトに再会しなければ、その二番目の夢が魔人グリニデの下で果たされていた事だろう。
ダンゴールはぼろぼろと涙をこぼした。
キッスはなだめるように、何度も杯を重ねてやった。
キッスの口に一滴も入らないうちに、ワインは空になっていった。ダンゴールはほとんど泣き上戸状態で、多少辟易はしたが、キッスは辛抱強く相槌を打って、丁寧に話を聞いてやった。アルコールが回って、ダンゴールがついに沈没すると、キッスは軽く息を吐いて立ち上がった。
静かな夜だった。サンクミールでは星が見える。
ダンゴールは星を知っていただろうか。いや、魔人の左腕にある星じゃなくて。
「おやすみ、ダンゴール」
永遠に。
キッスは雷の天撃を手のひらに集め、ダンゴールに電撃を叩きつけた。
ダンゴールは眠ったまま、もう二度と目覚めなかった。
>>>2010/4/26up