黒の王
『壁の近くへ行ってはいけないよ』
ユズは大人達からそう聞かされて育った。周りの子達は素直に従って、そこには近付かなかった。
馬鹿馬鹿しい。ユズはそう思う。だって、村より壁の近くの方がずっと緑が多くて、綺麗だもの。ユズは壁にぺたっと手を当てて上を見上げた。壁はとても高くて、厚くて、子供のユズには向こうは覗けそうにない。いや、大人でも無理だろう。たぶん、普通の大人の背丈の二人か三人ぶん位はありそうだ。
ユズは何とかしてあっちに行ってみたかった。
高い壁越しに、それより高くなった木のてっぺんが見える。きっと壁の向こうはこちら側より緑が多くて、沢山の木が生えているのだわ。お花畑なんかもあるかもしれない。私はそのお花畑の真ん中に座って、白い花冠を編むの。おなかが空いたら、赤や黒や色とりどりの野生のベリーを摘まんで、澄んだ湧き水で咽喉を潤すわ。お弁当を持っていってもいいわね。
……と、そんな話をすると何バカなこと言ってんだ、と思いっきり笑われた上に怒られた。
壁の向こうはそんな甘ったるい世界じゃない。あちらにはユズが生まれてこのかた見た事もないような巨大な魔物や虫がいて、そこに黒の王、と呼ばれるここ黒の地平を統べる魔人がいる。
黒の王はほとんど壁の向こうから出て来ないが、その気になればユズの住んでいる村くらい、一日で滅ぼす事が出来るのだそうだ。
「でも、誰もその黒の王、って人を見た事ないんでしょ? どうしてそんな事がわかるの?」
一晩でこの壁を築かせる事の出来る魔人が、弱い筈がないだろう?
というのが、大人達の答えだった。ユズよりもう少し大きい子達は、黒の王より以前にそこに住んでいたという魔人グリニデを覚えていて、その頃の恐怖を繰り返し語った。村人達が知らぬ間に、魔人グリニデはある戦士団に倒されたらしいが、魔物と虫は残った。魔物と虫だけでも、村人達の手に余った。
それでもどうにかこうにか、柵を作ったり罠を仕掛けたりなどして、小物は退治出来ていた。が、大きな魔物にはひとたまりもなかった。襲われて命を失くす者も一人や二人ではなかった。
それが、ある夜を境にぴたりと止まった。
不思議に思った村人がふと目を転じると、ここからでもわかる位に高い城壁が長く築かれていた。
昨日までは確かになかった。数日過ごす内に、魔物はどうやらその壁よりこちらには出て来ないようだとわかった。夜の内に大怪蝶が飛来して、新しい魔人があるじとして降臨したらしいと噂が流れた。噂の真偽はともかく、魔物より強大な力を持つ者が現れ、以前のグリニデの魔物達を支配下に置いたのは間違いなさそうだった。新しい魔人がどういう意図でそうしたのかはわからないが、村人達にとって魔物や虫の心配をせず生活出来るのは歓迎すべき事だった。
触らぬ神に祟りなし、この場合魔人だが――の言葉通り、村人達は新しい魔人にかかわらなかった。
壁に近付く事も禁止した。破った者には罰が与えられた。
ユズもその事は知っていた。見つかってこっびどく叱られた事もあったが、子供なのでその位で済んだ。
それからはいっそう気を付けるようになったので、ユズがここに来ている事は多分、誰も知らない……筈。同じ失敗はしないのよ、私。ユズはぺろっと舌を出した。
ユズは片手を壁に付けたまま、壁に沿って歩き出した。
ユズは、魔人を知らない。魔物も、大きい虫も余り見た事がない。手のひら大の甲虫を見つけて驚いていたら、昔は人より大きい虫がゴロゴロしていたと教えられた。どうもピンと来ない。ユズが産まれた時には壁はもうそこにあって、ユズが産まれる数年前まで虫と戦いながら生きていた、などと言われてもよくわからない。
荒れた土地を開墾して耕作して、ようやく収穫が安定してきたなどとは、更に理解の範囲外だった。
大人達はいつも暗い顔をしている。……と思っているのはユズだけで、大人達はあれで結構満足しているらしい。虫に脅かされず、作物がつくれて、家族と日々が過ごせる。ありがたい事じゃないか?
子供のユズには当然過ぎてわからなかった。だからユズはいつも不満で、もっと楽に、幸せに過ごせる方法があるんじゃないかと思っていた。壁の向こうに行ってみたいと思っていたのも、その現れだったかもしれない。ユズは自分でも自慢のブルネットの巻き毛を揺らしながら歩いた。
ふと、足先のレンガが一個、浮いたように飛び出ているのが目に付いた。
しゃがんで、浮いたレンガを掴んで引っ張ってみる。スポッと抜けた。
「………」
ユズは、まだ固まっているように見える隣のレンガも同じように掴んで引っ張ってみた。今度は、もう少し力が入ったが、これも結構簡単に抜けた。面白くなってきて、ユズは何個も何個も引き抜いてみた。もしかして、穴をつくって、向こう側に行けるんじゃないかと考えたのだ。そして、ユズはそうした。
簡単だったのは最初だけで、奥の方はがっちりくっついていて子供のユズの力では中々剥がせなかった。先に引き抜いたレンガでガンガン叩いたり削ったり、力一杯押してみたり。崩れるかも、と思わなかったのは、やはり子供だったからだろう。
苦労の末にレンガ一個分の穴を開け、あちらから光がこぼれた時には、嬉しくなってそれまでの疲れも吹っ飛んで、後少し、後少し……と、ついに自分が通れる位の穴を開けた。かなり無理やりではあったが。
服が汚れるのも構わず、いや既にかなり汚れていたけれど、ユズは腹這いになって自分の開けた穴の中をうんしょ、よいしょと通り抜けた。
「……わあ……!」
村では見かけない濃い緑の、肉厚の葉。争うように伸びている木々。重なりあった枝々から垣間見える空はどこまでも青く、濃淡のくっきりした世界だった。花も咲いていたが、こんなに鮮やかな色をした花をユズは見た事がなかった。花冠には向かないが、ブーケにしたら映えそうな。
ちょっと毒々しいような気もするが、悪い感じはしなかった。
村とは気温さえ違うのか、汗ばむ位の陽気の中を、ユズは興味津々で歩いて行った。
歩きながら、ぷちぷちと黄色や白や赤紫の、派手な花を折り取る。なんて花かしら、白詰草や雛菊とは全然違うのね。予想とは少し違っていたが、ユズは満足していた。私だけの、秘密の場所。
背後から、ぷーんという独特の羽音が聞こえてきた。ああ、嫌だわ。寝てる時とかに聞こえると耳触りで眠れないのよね……と、ユズは摘んだ花を脇にかかえなおし、手でぱんっと叩き潰すつもりで振り向いた。目が合った。一つ目の、ユズの頭ほどもある、蚊を大きくしたような羽虫。
「……キャ――!!」
ひと呼吸おいて、ユズは悲鳴を上げた。何これ、何これ!?
これが大人達の言っていた魔物なの!? 視線を感じた。見渡すと、大小形も様々の魔物らしき生き物がユズを遠巻きにしているのがわかった。ユズは足がすくんで動けなくなって、うずくまって泣き出した。
きっと私、ここで食べられちゃうんだわ。大人達の言うことを聞いていれば良かった。お父さんお母さんごめんなさい。ユズが死んだら、お墓には大好きなはちみつがけのパンケーキを供えてくれますように。
盛大に泣き叫んで、それでも魔物は襲ってこない。
もう、殺すなら殺すでハッキリしてよ! とユズが苛立った時だった。
ガサッと音がした。ユズはびくりと体を震わせた。
「――あれ、女の子がいる」
え?
その声にユズは顔を上げた。水色の上下に白いマント、大好きなはちみつ色した金髪。甘く整った顔立ち。
王子様みたい……。ユズはぽかんと口を開けた。
王子様めいたマスクの、ユズよりひと回り大きそうな、でもまだ少年は、ユズの近くで膝をついて、
「どうしたの? 泥だらけだよ?」
と、染みひとつない純白のマントの裾で、優しく顔を拭いてくれた。
それが、ユズと黒の王――キッスとの、初めての出会いだった。
>>>2010/9/9up