ロストマン
……正直、あの頃の事はよく覚えていない。
一種の心身喪失状態だったのかもしれない。以前の戦士団に捨て駒にされ、ある魔人にお目こぼしして貰って生き永らえた僕は、ふらふらと、無意識に遺跡のある方角に歩いていったらしい。
僕はそういうものが好きだったし、古い文献や、古代文字や魔文字を見るのも嫌いではなかった。
バスターにならなければ、学者になりたかったくらいだ。
だから持っている荷物の中にも、いつも古文書の類が入っていた。
僕は遺跡に辿り着くと、ホッとした気持ちでそこにへたりこんだ……のだと、思う。
僕は絵とも字ともつかぬものが彫り込まれた大きな一枚岩のレリーフの前で目を閉じ、次に目を開けた時、そこにはもう既に、『深緑の知将』グリニデ様がいた。周りに僕の古文書が散乱していた。グリニデ様はその中の一枚を手にとって、言われた。
「これは君の私物かね?」
はい……と、答えたかどうだったのか。
僕はグリニデ城に連れていかれた。その頃のグリニデ城には、僕より先に、五人ほどの人間が働いていた。
同じように遺跡にいた処をさらわれてきたようで、違うのは、彼らが本物の考古学者やそのタマゴ達だという事だった。僕は、彼らの更に下っ端として、雑用をさせるために連れてこられたらしかった。
「ああ、それに触らんでくれ。代わりにコレを、そーっと、そーっとな、そう、刷毛ではらって、模様を浮き立たせてくれ。ようし、その調子だ。うまいぞ」
そう言って石板を渡してくれたのは、学者にしては体格のいい、初老に差し掛かった年齢のフィカス博士だった。フィカス博士はこれもふさふさした栗毛の髪をわしわし掻きながら、それでも機嫌良く、僕に色々なものを触らせてくれた。
五人の内、もう一人、セネシオ博士という人がいた。こちらは僕に手出しされたくないらしく、神経質そうに眉をしかめて、もっぱら洗濯やおさんどんなどの用事を言い付けていた。フィカス博士はそんなセネシオ博士の態度を怒ってくれていたけれど、実のところ僕はその頃、感情が麻痺してしまっていたらしく、どう使われようと怒りなどは湧いてこなかった。
後の三人は皆助手で、それぞれフィカス博士に二人、セネシオ博士に一人師事していた。
僕より幾つか年上だろう助手達は、親切ではなかったが、特に邪険にされる事もなかった。
というより――今思えば、自分の事で一杯いっぱいだったのだろう。
魔人の城で、正気を保つのは難しい。虫やモンスターだらけのこの城で、助手達はひたすら研究に邁進して、なんとか自我を保っているように見えた。それを思えば、態度こそ違え新入りの雑用を構う余裕があったのは、さすがは博士というべきなのだろうか。
僕自身はただ機械的に言われた事をこなしていた。
皆が遺跡に行っている間、僕は留守をおおせつかる事が多かった。ので、なんとなく手持無沙汰に掃除をしたり、机の上の資料を整理したりしていた。皆ほどの知識はなかったけれど、それまでの独学とフィカス博士がたわむれに教えてくれた事柄などで、多少の意味はわかる。
例えば三角形の形の中に二重丸や鳥の絵が簡略化されたものが書かれているのだけど、この二重丸が太陽を表し、鳥がなにがしかの神を表しているらしい。鳥の絵には幾つかのバリエーションがあって、更に組み合わせた図形によって、意味が変わるらしかった。誰もいないのをいい事に、僕は、それらを飽きるほど眺めた。
フィカス博士が「宿題だ」と笑いながら置いていってくれた古文書もある。
これは博士には解読済みのもので、留守の間僕は一人で好きなように辞書を使って、今の言葉に訳したりしていた。皆が帰ってくるとそれを博士に提出して、合っているかどうか教えてもらうのが、僕の密かな楽しみにもなっていた。フィカス博士は門前の小僧なんとやらだな、と屈託なく笑った。
助手達とも少しずつ打ち解けていった。
同じ釜の飯を食った仲間というか、僕のつくった料理を皆がおいしいと言いながら食べてくれるので、僕はほんの少し嬉しくなった。あの戦士団でも料理は僕担当だったけれど、そういえば全員でテーブルを囲んで和やかに……というのではなかった気がする。いや、テーブルの有無じゃなくて、僕が給仕をしているそばから食べ始めて、僕が食事をする頃には鍋はカラになっている……そんな事は、ここではなかった。
あのセネシオ博士でさえ、僕が卓につくのを待っていてくれる。
僕はここで、戦士団から受けた傷が少しずつ癒えてゆくのを感じていた。
ここなら僕がいてもいいかもしれない。
世界一の天撃使いになる、という彼との約束を忘れたわけではないけれど、その時は僕は、考古学者になるという第二の夢を優先させてもいいような気がしたのだ。無邪気なものだった。ここが何処で、誰の資本で調査や発掘をしているか、僕は完全に失念していた。
グリニデ城で、僕達は全員同じ部屋に押し込まれていた。
基本雑魚寝だ。与えられた部屋は狭くはなかったが、僕が増えた上に助手達は博士に遠慮して部屋の隅っこで寝ていたので、寝心地は決して良いものではなかった。
それでもいつもなら、野宿に慣れていたこともあり、疲れからぐっすりと眠ってしまうのだけど、その夜は何故か目が冴えて、僕はまぶたを閉じたまま起きていた。僕の耳に、両博士が抑えた声で何事かを言い争うのが聞こえてきた。
「……あんな子供に構っている場合か!? おまえはもう、半年以上、有意義な報告をしていない。そんな暇があったら、クラッスラ遺跡に全力を傾けた方がいい」
セネシオ博士の声だ。僕は緊張した。
「ああ……クラッスラ遺跡からは、今回も目新しいものは見つからなかった。前回、前々回の調査で、めぼしい物は掘り尽くしてしまったのかもしれん。だが今すぐ、違う遺跡に取り掛かるわけにはいかない。遺跡調査には年単位の時間がかかるものだ……その辺りを、あの方にももう少しご理解頂けたら良いのだが……」
フィカス博士の声には苦渋が滲んでいた。
あの陽気なフィカス博士がこんな声を出すのを、僕は初めて聞いた。
「俺の事より、そっちはどうだ!? 助手のルーサーから聞いたぞ。エケベリア遺跡から、新しい石板が出たそうだな?」
努めて明るい声をフィカス博士は出したようだった。セネシオ博士との会話はそれからますます専門的になっていって、僕にはさっぱりだったけど、どうやらフィカス博士とセネシオ博士は違う研究をしているらしい……くらいはわかった。僕は横向きに寝そべったまま、胸の前で膝をかかえた。
フィカス博士は研究がうまくいってないのだろうか?
それなのに、僕に多少なりと知識を教えてくれているから、それがセネシオ博士は気に入らないのだろうか。僕は膝に顔を埋めた。それなら、僕は、少しでもフィカス博士の役に立てるように、もっと勉強……自習して、遺跡に連れていっても足手まといにならないと判断さえされれば、僕もフィカス博士のそばで働くことができるかもしれない。
「……今までとは年代が違うらしい。図形が随分と簡略化されているようだ……」
両博士の話し声を聞きながら僕は眠りに落ちていった。
これからの目標も出来て、それは幸せな眠りだった。
>>>2010/4/6up