「もー。ジャマしないで」
僕は片手で蜘蛛を追いやりながら言った。
手のひらより一回り大きい、一つ目の蜘蛛は、僕が箱と板とを簡単に組み合わせて作った机の上に、自習の邪魔をするように乗ってきていた。一匹を押しのけると、もう一匹が乗ってくるから始末に負えない。以前はこの部屋は、皆の……人間専用で、魔物は立入禁止みたいだったのだけど、一人だけ残っている僕が珍しいのか、はたまたからかってやろうという魂胆か――たぶん後者だ。
最近ではこうしてワラワラと、一人でいると大挙して押しかけてくる。実は机の上だけじゃなく、床にも天井にも蜘蛛がびっしりへばりついていて、以前の僕なら絶叫して気絶したかもしれなかった。
まだ、麻痺が残っていたのだろう。
僕は平気な顔で、閉口しつつも勉強を続けていた。幸い、集中力には自信がある――目の前の古文書の写しと辞書と、フィカス博士が書きなぐったまま置きっぱなしにしているメモの一部とを見比べながら、僕はなんとか古文書の意味を解読しようとしていた。この頃になると、好きこそ物の上手なれというか、フィカス博士の役に立ちたいという野望もあって、解読済みの古代文字ならソラで読めるようになっていた。
魔文字も同様、この城で暮らすなら、魔文字の読み書きくらい出来なくては話にならない。そういえばここは魔人の城で、報告も、魔文字でまとめて行うらしい。口頭で行う事はほとんど無いと、フィカス博士は言っていた。
魔人……僕はこの城のあるじたる魔人に会っている筈だった。でも記憶はおぼろげだ。
今よりもっと僕は自分を消失していて、僅かに暗い緑色のシルエットが脳裏に浮かびあがるだけだった。
フィカス博士はこうも言った。
「たとえ魔人のもとだろうと、調査が続けられるなら、私は誰が雇い主でも構わない……発掘費用が何処の、誰の懐から出ているかも気にしない。私は真実を知りたいだけだ。我々の調査によって明らかになった真実の、結果を誰がどう使おうとも斟酌しない……きっと私は、いつか地獄に落ちるだろう」
自分に言い聞かせるように博士は言っていた。
僕はぼーっとしたままそれを聞いた。助手二人も同じことを聞いていた筈だが、彼等がどんな反応をしたのかも覚えていない。よっぽど僕はボケて見えた事だろう。資料に手を出させないセネシオ博士の方が、そういう意味では正しかったかもしれない。
「……あちっ!」
サボっているようにでも見えたのか、一匹の蜘蛛が尖ったストロー状の口で僕の指を刺していた。
僕は思わず振り払った。いつもより力が強かったせいか、あっけなく蜘蛛は机から転げ落ち、床に裏っ返しになった。
「あ、ごめん」
引っ繰り返してあげようと僕は手を伸ばした。その前に蜘蛛は糸を吐き出して、ひゅっと床から消えてしまった。僕は体を起こして、さっきの蜘蛛の行方を追った。同じ蜘蛛ばかりで見分けは不可能に近かったけれど、その蜘蛛だけはすぐにわかった。僕は反射的に体を強張らせた。八本もの手足と二本の触覚。身長は僕の胸くらいはあるだろうか。記憶の中の魔人とは色も形もまったく似た所はなかったけれど、間違いない、これは魔人だ。
さっきの蜘蛛は、その魔人の肩辺りに止まっていた。
蜘蛛の魔人はその蜘蛛の背を一本の左腕の人差し指で掻いてやりながら、部屋にずかずかと入ってきた。床にいた沢山の蜘蛛達は、彼が歩く速度に合わせて場所を空けた。
僕も体を横にずらした。その魔人はまっすぐに僕の机の所まで来ると、僕が調べていた古文書を上からまじまじと見下ろした。そして呆れたように言った。
「……オメー、コレ、読めンのか?」
「う、うん」
僕はうなずいた。察するトコロ、この蜘蛛の親玉が彼なのだろう。
すると、この魔人がこの城の主なのだろうか。……何か違うような気がして、僕は疑い深げに彼を見ていたに違いない。軽くだったけれど、ポコンと頭をはたかれた。
「いったあい」
「ルセーよ。なんなんだよお前!? 人間ってーのは、魔人に会ったらもっと右往左往してうろたえるモンだろーが。何、人の顔じろじろ見てやがんだよ。お前ちょっとヘンだぞ」
「…………」
僕はそれには答えなかった。確かにそうではあるのだ。
といって、僕は普通の一般人とは違う。僕はバスターだったから、魔人に会ったら一触即発、戦闘に入ってもおかしくはなかった。その時は自分がバスターだった事も僕は半分忘れていて、そんな気概も、ほとんど失くしてしまっていたけど。
「君がこの城のあるじなの?」
僕は、僕が振り払ってしまった蜘蛛に手を伸ばしながら聞いた。
蜘蛛はぺりっと魔人から離れて、大人しく僕の手に収まった。一つ目の、閉じたまぶたの上辺りを指先でこすると、蜘蛛は満足そうに体を震わせた。そういえばコレも魔物なんだっけ……つい、ペットに対するようにしちゃったけど、犬猫と違って、見た目はかなりグロテスクだ。
「ば、馬鹿! 冗談でもそんなこと言うなよ。この城のあるじはグリニデ様っていうんだ。『深緑の知将』の異名を取る恐ろしいお方なんだからな! 偽称しただけでコレもんだよ」
彼は右手の親指を立てて、首の前を横切らせた。
ちょっと聞いてみただけなのに、大真面目に否定するあたり、グリニデ様……というのは本当に恐ろしい方らしい。どうもピンと来ない。何度も言うけど、僕の記憶の中のグリニデ様はおぼろな緑色の影で、ひとことふたこと言葉を交わし、ここに連れてきてくれた親切な人、というイメージしかない。魔人、という意識すら忘れていた。
「じゃあ誰? あ、先に自己紹介しなきゃ失礼だね」
僕は蜘蛛を彼に返した。
蜘蛛も魔物なんだから、本当なら退治しなきゃいけないんだけどな、なんて考えながら。
「僕はキッス。君は?」
「……ベンチュラだ」
これがベンチュラとの出会いだった。
ベンチュラは散々僕の事をヘンだ変だとののしってくれたけれど、僕から見れば、ベンチュラの方も相当だった。ベンチュラは時々やってきて、僕にこの城の様々なことを教えてくれた。いわく、グリニデ様の配下にはベンチュラを含めて三魔人いるとか、忠実なダンゴ虫の執事がいるとか。
ベンチュラは決して口に出しては言わなかったけれど、その三魔人の中ではベンチュラが一番格下のようで、それが、僕に親近感を覚えさせた。陽気でホラ吹きで、後二人の配下にライバル心を持っていて――有り体にいえば、誰よりも人間臭かった。
僕が魔人に懐いたのは、最初に深く知り合ったのがベンチュラだったからだろう。
僕は他の魔人をよく知らなかったし、皆がこんななら、下手したら人間よりも仲良くなれるんじゃないかとすら思った。僕のそんな甘っちょろい考えは後に粉砕される事になるのだけど、僕は日々、雑用をこなし、自習し、フィカス博士に教えを乞い、昼間、一人になるとやってくる虫やベンチュラの相手をして過ごした。
僕はそれで満足していた。平和な日々だった。
これ以上を望んだら罰が当たる……と、僕は思っていた筈だったのに。
>>>2010/4/7up